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平行世界のビートルズ

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3.11で磁場と時空に歪み?

アインシュタインによれば、
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相対論の効果で生まれる磁場.膨張する卵型の球殻上に発生する磁場の強度分布.膨張速度の不均一によって時空が歪むことで電磁場の「渦」すなわち磁場が生まれる.
https://www.k.u-tokyo.ac.jp/news/20100831press.html
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ということだそうなのですが、その逆、磁場が歪むと時空の渦が出来ることもあるのかもしれません。
核融合レベルの反応があると磁場に歪みが起きるらしいというのはこちらでご紹介しましたが
チェルノブイリ原発事故と3.11震災で時空が歪む現象が報告されているそうです。
以下転載です。

「3.11」とタイムスリップ・ゾーン
http://amanakuni.net/uchu/58.html

 昨年3月11日に東北地方・太平洋岸で発生した未曾有の巨大地震と大津波。そしてさらに、続けて起きた福島第1原発のメルトダウン、放射能放出事故―。誰もが衝撃と混乱の只中に巻き込まれていたその時、被災地のど真ん中で、信じがたい超常現象が発生していたという情報がある。津波が引いた後の瓦礫の街で、“時間を超えた”としか思えない体験者の報告が寄せられているというのである。
 大地震・大津波を起こした地球のエネルギーと、原発のメルトダウンは、ひょっとしたら科学者の予想をはるかに上回る、想定外の現象を引き起こしてしまったのかもしれない―。

東日本大震災の被災地で“時空の揺らぎ”現象が起きていた

 昨年9月に、アメリカの超常現象誌『アトランティス・ライジング』2011年9・10月号に掲載された英文の取材レポートがある。
 そこには日本の女流物理学者―今井理佐教授(仮名)が、震災直後の被災地で自ら実地調査した自らの物理理論を裏付けるという異常な超常現象が報告されている。
 東京在住の物理学者・今井理佐教授は、東日本大震災の際に、多数の日本人が時空連続体の基本構造に発生した“時間の遅れの波紋”を体験したと主張する。
 今井教授が被災地で現場調査を行ったところによると、「3.11」震災直後、宮城県仙台近郊の海岸地帯の被災地で、「時間を超えた」、あるいは時空の揺らぎを体験した―という被災者が実は多く存在しているというのだ。その一つの事例はこうである。

―仙台市近郊の沿岸部が津波に全てを押し流された数日後、被災地の現状を調べ、また行方不明になった家族を捜す目的で、避難した被災者の一団が、ワゴン車で被災の現場に戻ってきた時にその現象は起きた。
 小道を走っていたワゴン車は突然、異様な形をした“雲”のようなものに突入した。
 真っ昼間だったが、雲はかすかに光っていて、車が進むにつれて長く伸びながら包み込むように見えたという。その間、数瞬間、ドライバーも含めて同じクルマに乗り合わせた全員が、クルマの両側に昔懐かしい古風な村落の風景や人間を目撃したのだ。
 ただ、それは昔は昔でも、どこかひどくちぐはぐで、違和感を感じさせる奇妙な景色だった。
 体験者の一人で避難者グループに付き添っていた警防団員、中村東治氏の証言によれば、古い写真でよく見るような英国のビクトリア王朝時代と、日本の江戸時代をミックスしたようなへんてこな光景で、シルクハットの紳士たちと顔をペイントした着物姿の娘たちが腕を組んで歩いているかと思えば、向こうでは伝統的な侍姿のいかつい男たちが闊歩していたという。
「一瞬、映画の撮影現場に間違って迷い込んだのかと思ったほどだったが、被災現場を撮影する人はいても、こんな時期にこんな場所で、時代劇みたいな映画を撮っているはずはないし―」
 中村氏とグループ一行の主張では、景色は不安定に揺らめいてはいたが、確かに昔の家屋が立ち並び、人々が生き生きと動き回っている村か町の光景だったという。
 さらにハンドルを握ったまま呆然としてしまったという政府機関員A氏(保安上の理由で匿名)は、続けてこう証言した。
「1分かそこら車が進むうちに、あの奇怪な“雲”が消えた途端、まるで瓦礫に乗り上げたようなショックを車体に感じた。次の瞬間、周りの“幽霊じみた世界”が、元通りの見慣れた世界に戻っていた―」

 他にも何人もの被災者が、封建時代から1940年代とおぼしい時代までの歴史世界、ないしは時間軸が微妙に異なるパラレルワールド的別世界の光景を、時空を超えて垣間見たという報告があるという。ほとんどの事例は、上記の被災者グループの集団体験よりもずっと短時間、“過去”を覗き見した瞬間的タイムスリップに過ぎないが、今井教授の調査報告の中で最も特筆すべき特異なケースは、被災男性が一人、妻の目の前で“時空の穴”に消えてしまったという驚くべき事件だ。
 震災4日目の3月15日、藤原淳子さん(仮名)は、夫の久和氏がほんの一瞬間だけ目の前に開いた“時空の穴”に吸い込まれるのを見て、恐怖の悲鳴を上げた。夫人の証言では、“時空の穴”が閉じた時、落雷のような音が響きわたったという。その後、その男性の行方は全く分からない。

今井教授は、この事例に関連があるかもしれない後日談を一つ付け加えている。
 教授の知人という東京警視庁の刑事B氏(匿名)から得られた情報によると、全く同姓同名(藤原久和)を名乗る男が、1981年当時、B氏の勤務する所轄署に駆け込んだという。男が話したところでは、“時空の穴”を通って最初は1960年代に出たが、再び“時空の穴”に吸い込まれたら、今度は現代(当時)の1981年3月15日に出現したという。B氏が名前と日付をはっきり覚えているのは、ちょうどその日が、B氏の新人警官としての初出勤日だったからだそうだ。その後、その男がどうなったかは不明だ。

 今井教授は、男がB氏の前に現れた年月日が、東日本大震災で被災した同姓同名の男が、妻の目の前で消えた年月日のきっかり30年前という事実から、両者の姓名の一致は偶然ではなく、完全に同一人物か、あるいはパラレルワールドのいずれかから“時空転移”してきた別バージョンの当人だろうと推測している。

「イリヴィッチ文書」と重なる今井報告

 今井教授によれば、同じような“時空転移”現象は、1986年4月26日、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故で、核燃料の爆発・メルトダウンが起きた直後にも発生したと報告されている。
 当時、この怪現象の調査に当たったのは、諜報機関KGBの原子科学部職員セルゲイ・イリヴィッチ氏で、この人物はソ連解体後、国営建設会社OKBギドロプレスの原子力施設部門で核問題コンサルタントを務めていたという。
 イリヴィッチ氏が作成した数点の調査文書は、当時はむろん機密扱いだったが、つい最近になってアメリカの情報自由公開法に類するロシアの新法により、一部がようやく日の目を見た。
 そこにはチェルノブイリ住民たちが、多くの“時空の穴”現象を体験して、2世紀前の帝政ロシア時代や、1世紀半前のナポレオン戦争時代の、過去の光景を覗き見たことが記録されていた。それだけでなく、住民が“時空の穴”に踏み込んだまま戻ってこなかったケースも、数点報告されているという。しかし、今井教授が調べたケースと著しく性格を異にするもっと信じがたいケースも、イリヴィッチ文書には報告されていた。
 過去の事物が現在(1986年当時)に“時空転移”されてきたという数件の事例である。中でも一番ショッキングなのは、第1次大戦中にドイツ軍が使用したツェッペリン型飛行船が1台そっくり、空中に現れて、チェルノブイリ原発からさほど遠くないプリピャチ市郊外に墜落、爆発したという事件だ。
 燃え残った残骸に乗組員の姿はなかったが、しばしば報告される“漂流する無人幽霊船”と同様、士官食堂には食べかけの料理皿などが散乱し、つい先刻まで人が乗っていた気配が感じられたという。

 この大戦中、ドイツは少なくとも119台の軍用飛行船を飛ばしたが、撃墜や爆破されて消息不明になったものが多かった。そのうちの1台が“時空の穴”を通って、こちら側へ時空転移したものかもしれない。
 調査報告書をまとめたイリヴィッチ氏も今井教授も、四半世紀の時を隔てて、全く同じ結論に達している。
「核放射線の突発的な大量放出が、当該領域の時空現実内に時間の遅れ効果をもたらし、その作用地域内の信頼のおける在住者、ないしは通過者による観察報告によって裏付けられた」

 誰でも思うことだろうが、東日本大震災に関わるこれほどの異常な事件が起きていたなら、どのような形にしろ事件なり現象なりの情報が少しは表面化したり、インターネットに出たり、地元やマスコミが全く知らないはずはないのだが、現実にはそうなってはいない。現在のところ唯一の情報の出所は、この雑誌の活字版とネット上の電子版のみで、他からは関連した情報は上がっていない。
 登場者の氏名も職業も所属機関も確かめようがないため、“今井教授”をはじめ全員の名前を仮名や匿名にとどめるしかなかったということだ。しかし、掲載誌の『アトランティス・ライジング』は信頼性の点ではアメリカ屈指の超常現象専門誌として知られており、1997年に創刊以来、隔月間発行されている。 執筆陣も超常現象に理解のある大学教授や科学研究所員を含め、著作が知られる高名な学者・研究員が多くを占めている。
 現時点では、真偽の判定は、この件に関する新情報、新事実が今後、明るみに出てくることを期待したい。

 これらのことがもし事実なら、実は驚くべきこと、大変なことが起きているのかもしれない。それは地震と津波によって解放された地球の電磁エネルギー、さらには原発事故によって放出された核エネルギー=放射能の拡散が関わり、影響しているのだろうか。
 少なくとも、かの巨大地震や津波が起きていなかったら、こういった「時空の揺らぎ」的現象も起きていなかっただろう。
「イリヴィッチ報告」や、今井教授が言うところの「核放射線の突発的な大量放出が、当該領域の時空現実内に時間の遅れ効果をもたらす」―つまり、“時空の穴”を作る。
 はたして、そんなことがありうるのだろうか。“時空の揺らぎ”現象が起こったという現場は、福島原発から100キロほど距離があり、直接、高い放射能のプルーム(雲)を浴びた一帯でもない。放射線の大量放出が、“時空の揺らぎ”現象に関わっている可能性は大だと思うが、断定は避け、今のところ要因としての一つのファクターとして考えておきたい。

パラレルワールドの往来を可能にする“時間ストーム”

 イギリスのベテランUFO研究家のジェニー・ランドルス女史は、2002年に発表した『時間ストーム:時空異常と時間転移の驚くべき証拠』と題する著作で、彼女が“時間ストーム”と呼ぶ局所的な“白霧”に関する事例を検証している。大気の電磁気的擾乱から発生するという白霧―電子雲。ランドルス女史はこう述べる。
「“時間ストーム”は、光速度で移動できる時間も空間もない電磁エネルギー場で構成されている。この宇宙は万物が同じだが、少しずつ異なる無数のパラレルワールドからできていて、“時間ストーム”はその間の往来を可能にする天然の窓なのだ」
 ランドルスが言う“窓”とは、仙台市近郊でワゴン車を包み込んだ“雲”であり、また今井教授が指摘した“時空の穴”でもある。

 まだ科学的に未解明だが、おそらく空間の電磁気的擾乱が原因で大気中や地表に発生する“電子霧”が存在する。その電磁気的強度に応じて、まれには時空間ワープ、すなわち“タイムトンネル”効果を引き起こす。それにはプラズマの形成が関わっているに違いない。“時空の穴”に吸い込まれて、この次元から消えるというのは、昔からよくある人間消滅事件、神隠しと同じだ。見方によっては、それは一つのアセンション―次元移行といってもいい。白っぽい雲のようなものというのは、一種のプラズマホール、プラズマ・ホットスポットとして出現したものではないのか。それは一種の窓となって、この次元とも重なり合っている過去の時空や、いくつかのパラレルワールドが見えたりした。

 今回、津波と放射能を浴びた被災地の土地で、文字通り“時空の揺らぎ”が起きているのだとしたら、そこにどんなエネルギー場が作用したのだろうか。これは自然界に次元間転移、時空間移動を引き起こすメカニズムが存在することを示している。もしかして、そこで起きていることはミニチュアモデルで、いずれは日本全体、地球全体が白っぽい雲―プラズマに包まれ、“時空の穴”に吸い込まれる―そんな、これまでありえなかったようなことが起きる予兆として現れているのではないか。それは惑星ごとの次元転移、タイムワープといっていい現象だ。まさかのアセンションとは、そのことではないだろうか―。



*写真は『ムー』2011年12月号 『週刊現代』より転載


さてそして、タイトルの件ですが、平行世界に行ってきた人があちらの世界から
音楽カセットを持ち帰っていて、そのタイトルがこちら。ダウンロードできます。(=^・^=;)
悪くは無いですがこちらの世界のビートルズとはちょっと違う感じ。

http://thebeatlesneverbrokeup.com/

The Beatles 

"Everyday Chemistry"

5. Jenn
 
Download The Entire Album Zipped (70mb)
 

 

"Everyday Chemistry"  

On Sept. 9, 2009 I experienced something that I still am having trouble believing happened to me. 

I came into the possession of a cassette tape containing a Beatles album that was never released.

I dont expect you to believe what happened to me, I sure wouldn't, but thats why I grabbed the tape as proof that my experience was real.

If you want to download the album use the links to the left or grab the zip file!
 
Email me at:  thebeatlesneverbrokeup@yahoo.com

衛星画像海水温と地震について

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2010年10月初旬の衛星画像から海水温と気象記録、地震記録を集めてみました。
海水温がかなり異常な感じで変動している事がわかります。その日の気温より高い海水温が見受けられます。
まず、カレンダーから。
イメージ 4
http://www.maitown.com/soft/nannohi/cam2010.html#october

天気図。
イメージ 5
http://www.data.jma.go.jp/fcd/yoho/data/hibiten/2010/1010.pdf
この間の気温
佐渡・弾崎
地点選択用新潟県地図
イメージ 1
和歌山潮岬
地点選択用和歌山県地図
イメージ 2

高知清水気温
地点選択用高知県地図
イメージ 3





日本近海の秋の海水温の推移
http://www.data.jma.go.jp/kaiyou/data/shindan/a_1/japan_warm/cfig/warm_areaF.html#autumn
海域区分図

日本海中部
SST anomaly(deg-C NIHONKAI_M)

######,Annual,Winter,Spring,Summer,Autumn
Normal,  13.9,   6.9,  12.0,  22.5,  14.2
Slope ,  1.72,  2.33,  1.80,  0.93,  1.99
95%lim,  0.35,  0.52,  0.44,  0.62,  0.49

日本海南西部
SST anomaly(deg-C NIHONKAI_SW)

######,Annual,Winter,Spring,Summer,Autumn
Normal,  17.5,  11.6,  15.8,  24.5,  18.3
Slope ,  1.27,  1.55,  1.33,  0.73,  1.61
95%lim,  0.35,  0.52,  0.42,  0.52,  0.36

四国・東海沖
SST anomaly(deg-C SHIKOKU_TOKAIOKI)

######,Annual,Winter,Spring,Summer,Autumn
Normal,  23.3,  19.4,  22.1,  28.0,  23.7
Slope ,  1.21,  1.50,  0.92,  1.02,  1.39
95%lim,  0.18,  0.30,  0.30,  0.25,  0.24

その他詳細はこちらからどうぞ(今回地震が起きた場所の季節平均水温を取得しています)
グラフリンクをクリックして「海域平均海面水温データ」をクリックします
海域平均海面水温の上昇率、時系列データ









海域平均海面水温の上昇率、時系列データ
釧路沖+0.99±0.63+1.75±0.85+1.17±0.69#+1.22∗∗±0.91釧路沖グラフ釧路沖ファイル(txt形式)
三陸沖+0.62±0.56+1.03±0.89##+0.77±0.65三陸沖グラフ三陸沖ファイル(txt形式)
関東の東+0.70±0.52#+0.93∗∗±0.65#+1.02±0.58関東の東グラフ関東の東ファイル(txt形式)
関東の南+0.91±0.22+1.04±0.31+0.94±0.32+0.78±0.30+0.99±0.31関東の南グラフ関東の南ファイル(txt形式)
四国・東海沖+1.21±0.18+1.50±0.30+0.92±0.30+1.02±0.25+1.39±0.24四国・東海沖グラフ四国・東海沖ファイル(txt形式)
沖縄の東+0.70±0.24+0.78±0.36#+0.86±0.35+0.93±0.34沖縄の東グラフ沖縄の東ファイル(txt形式)
日本海北東部#+0.77±0.59###日本海北東部グラフ日本海北東部ファイル(txt形式)
日本海中部+1.72±0.35+2.33±0.52+1.80±0.44+0.93±0.62+1.99±0.49日本海中部グラフ日本海中部ファイル(txt形式)
日本海南西部+1.27±0.35+1.55±0.52+1.33±0.42+0.73±0.52+1.61±0.36日本海南西部グラフ日本海南西部ファイル(txt形式)
黄海+1.22±0.30+1.90±0.45+1.17±0.37+0.47∗∗±0.45+1.26±0.45黄海グラフ黄海ファイル(txt形式)
東シナ海北部+1.20±0.25+1.53±0.43+0.99±0.29+0.71±0.33+1.50±0.31東シナ海北部グラフ東シナ海北部ファイル(txt形式)
東シナ海南部+1.14±0.17+1.43±0.29+1.16±0.26+0.70±0.20+1.25±0.23東シナ海南部グラフ東シナ海南部ファイル(txt形式)
先島諸島周辺+0.73±0.21+0.75±0.39+0.54±0.28+0.69±0.24+1.12±0.29先島諸島周辺グラフ先島諸島周辺ファイル(txt形式)
網走沖上昇率は求めていません網走沖グラフ網走沖ファイル(txt形式)






































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この間の海水温。下のサイトから左側の日本全域をクリック、期間を指定して取得しました
http://kagoshima.suigi.jp/websatelite/start.htm
2010年10月1日(金)
イメージ 6
2010年10月2日(土)
イメージ 7
2010年10月3日(日)
地震
イメージ 8


http://www.jishin.go.jp/main/chousa/10nov/p07.htm

2010年10月4日(月)
地震
イメージ 9

http://www.jishin.go.jp/main/chousa/10nov/p21.htm

2010年10月5日(火)
イメージ 10

2010年10月6日(水)
地震
イメージ 11

http://www.jishin.go.jp/main/chousa/10nov/p16.htm

2010年10月7日(木)
イメージ 12
2010年10月8日(金)
イメージ 13
2010年10月9日(土)
イメージ 14
2010年10月10日(日)
イメージ 15

以上ご参考まで

歴史認識を考えてみる(15)

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  関東大震災を乗り越えて~昭和恐慌へ
   大正11年~
大正15(昭和元)年までの世界

帝国主義国家・社会主義国家/好景気と不景気と震災/マルクス主義と大正デモクラシー/博覧会ブーム/アール・デコと叙情的絵画・童謡/ナショナル・東芝・トヨタ・シチズン・日本航空創業

左側地図の緑色部分は国際連盟から統治委託された地域。
画面中央は大正11年発売のグリコ。 人物左からアインシュタイン、チャップリン、芥川龍之介、ヘミングウェイ
イメージ 1

地図転載元 一部修正
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2011-01-23 http://www.seigensha.com/sp/artmuseum/pj01_16.php http://www.athens.co.jp/store/98_1674.html
昭和恐慌の発端は、第一次世界大戦による戦時バブルの崩壊にある[1]。第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であったが、戦後ヨーロッパ製品アジア市場に戻ってくると1920年大正9年)には戦後恐慌が発生し、それが終息に向かおうとしていた矢先、1922年(大正11年)の銀行恐慌1923年(大正12年)には関東大震災が次々と起こって再び恐慌に陥った(震災恐慌)。このとき被災地の企業の振り出した手形日本銀行(日銀)が再割引して震災手形としたことはかえって事態の悪化をまねいている[2]
また、第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年(大正8年)には早くも金輸出を解禁(金解禁[注釈 1])し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年(大正8年)末には内地外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった[3]
また、第一次世界大戦最中の1917年(大正6年)9月、日本はアメリカ合衆国に続いて金輸出禁止をおこない、事実上、金本位制から離脱していた。アメリカは、大戦直後の1919年(大正8年)には早くも金輸出を解禁(金解禁[注釈 1])し、金本位制に復帰した。しかし日本は、大戦後の1919年(大正8年)末には内地外地あわせて正貨準備が20億4,500万円にのぼり、国際収支黒字であったにもかかわらず、金解禁を行わなかった[3]
1920年代には世界の主要国はつぎつぎに金本位制へと復帰し、金為替本位制を大幅に導入した国際金本位制のネットワークが再建されており、世界経済大衆消費社会をむかえ、「永遠の繁栄」を謳歌していたアメリカの好景気と好調な対外投資によって相対的な安定を享受していた[3][注釈 2]
日本政府は、このような世界的な潮流に応じて何度か金解禁を実施しようと機会を窺ったが、1920年代の日本経済は上述したように慢性的な不況が続いて危機的な状態にあり、また、立憲政友会が反対に回ったことから金解禁に踏み切ることができなかった[3] 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

1922-1926
大正時代


 http://www.geocities.jp/since7903/nenpyo2.htm    http://nannohidonnahi.sakura.ne.jp/20seiki/1915.htm                      
大正十一年
1
9
2
2
1922年(大正11年)の社会
東京天文台設置
0415 羽仁とも子:自由学園設立
04.23 西村伊作:文化学院設立1922
【出版】
 藪の中(芥川龍之介)
 人間万歳(武者小路実篤)
 園遊会(マンスフィールド)
 ユリシーズ(ジェイムズ・ジョイス)
山手線、4両編成に
 料理の講習会人気
 ダンス人気
 郷土玩具収集ブーム
 銀座に子供服の店相次いで開店
 フランク・ロイド・ライト帰国

01.17 大隈重信、日比谷公園で日本初の国民葬
02.11 長野県下諏訪で、日本初のフィギュアスケート公式競技会開催
03.01 日本初のアマチュア無線局誕生
03.10 サンガー夫人来日
03.11
後藤勇吉、3人乗り複葉機で、乗客2人を
乗せて、岐阜・各務原~東京・代々木を
飛行(日本初の旅客飛行)
03.11 日本庭球協会創立
03.14 日本初の女性飛行士誕生
 兵頭精(ひょうどうただし)、
三等飛行機操縦士試験に合格
04.13 少年団日本連盟
(ボーイスカウト日本連盟)結成
07.09
 カリフィルニア州の、
ジョニー・ワイズミューラー(18)、100m
自由型で56秒6の世界新記録を樹立
07.15 イリノイ州スコーキーの全米オープンゴルフで、ジーン・サラゼン(20)が優勝(のちに世界4大タイトルを制覇)
07.25 浅草で「人さらい」30人が一斉に検挙
10.14 監獄が「刑務所」と改称される
11.17 アインシュタイン来日
 相対性理論ブーム
11.23 第1回早慶対抗ラグビー
 金鳥かやいらず(大日本除虫菊、1箱20銭)
 グリコのシンボルマークが完成
 「一粒三百米突」の広告開始
竹家食堂」札幌ラーメンのはじまり
 梁瀬自動車(のちのヤナセ)、日本初の中古車オークションを開催
毛糸の刺繍が流行
 アイシャドー(資生堂)アイシャドーが流行
 アイシャドーは、1916年、マックスファクター1世が、ハリウッドスターのメーキャップ用に考案したもので、映画の影響で流行した

1909露のロイヤルバレエ団のビューティーアドバイザーであったマックスファクター1世が、
 映画用化粧品専門店「マックスファクター(MAXFACTOR)」をハリウッドに設立
 ハリウッド映画の公式ビューティーアドバイザーとして活躍し、マスカラやリップブラシなども考案した
 ギャルソンヌ・ルックが流行
 ギャルソンヌ・ルックとは、少年のようなシンプルで活動的なファッションをいう
 モダンガールの当世風俗を描きベストセラーとなったヴィクトル・マルグリットの小説「ラ・ギャルソンヌ」(1922)が由来

【邦画】
 地獄船 4.30
 原作:チャールズ・チャップリン「キッド」
  監督:野村芳亭
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:井上正夫 小藤田正一
  上映:浅草松竹館
 青春の罪 5.21
  監督:大久保忠素
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:諸口十九 五月信子
  上映:浅草松竹館

【流行語】
プラチナ 赤化 恋愛の自由 民衆芸術
【流行歌】
シャボン玉
作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
砂山
作詞:北原白秋 作曲:中山晋平
 馬賊の唄
 作詞:宮島郁芳 作曲:鳥取春陽
 赤い靴
 作詞:野口雨情 作曲:本居長世


1
1922年(大正11年)の経済
物価:
 週刊誌 10銭
 豆腐 5銭

1922年(大正11年)の政治
大隈重信死没。
2【没】
 大隈重信(83歳 1.10)
 山県有朋(83歳 2.1)
 ロールシャッハ(37歳 4.2)
 森鴎外(60歳 7.9)
 高峰譲吉(69歳 7.22)
 グラハム・ベル(75歳 8.2)

02.11
 江崎グリコ、大阪三越百貨店で「グリコ」発売(江崎グリコ創立記念日)
ワシントン海軍軍縮条約締結(主力艦保有量を米・英・日=5・5・3の比率)。
中国に関する九カ国条約締結。
山縣有朋死没。
02.15
ハーグ常設国際司法裁判所設立

303.01
 日本初のアマチュア無線局誕生
 逓信省、浜地常康に機器実験用として私設無線電話の許可を告示(2月27日附で許可)
 呼出名称「東京1番」(京橋区南紺屋町9 東京発明研究所)
 呼出名称「東京2番」(箱型自動車一五一四号)
 TH式真空管式 通達距離一哩
03.10 上野で平和記念東京博覧会開催
 マネキンガール登場
 朝日新聞がラジオの実験放送を実施
大学昇格案問題をめぐり、閣内で改造派と非改造派の対立進む。
03.03
 京都で、全国水平社結成(委員長:南梅吉)
03.31 南洋庁設置
04.03 レーニン引退
 スターリン、ソ連共産党書記長に就任
604.16
 帝国ホテル本館全焼
 焼死者1人 負傷者23人 焼失延床面積1800坪
 フランク・ロイド・ライト設計の別館(ライト館)は延焼を免れる
 ⇒明治村
04.17 武蔵野高等学校設立(日本初の私立高校)
06.20 東京湾上空遊覧飛行開始 15分で30円
高橋首相、内閣改造に失敗し総辞職。元老会議は加藤友三郎海相を首班に奏薦

08.01 日本経済連盟会設立
07.02 日比谷公園前に、フランク・ロイド・ライト設計「帝国ホテル新館」の一部が完成し、営業を開始
陸軍で「山梨軍縮」進行。
07.15
 日本共産党、極秘に結成
 委員長:堺利彦
9創刊:
 水平
 童謡
 週刊朝日 4.2
 サンデー毎日 4.2
 映画之友
 小学五年生
 小学六年生
 リーダーズ・ダイジェスト(米) 2.5
立憲国民党解党。
寺内内閣が創設した臨時外交調査会廃止。
10資生堂化粧品部2Fに美髪科、美容科を設置
 資生堂、美顔術を実施
 かぶと式ドライヤーを設置
 パリモードを紹介
 「耳隠し」スタイルを発表
10.28
 伊で、ムッソリーニのファシスト党員4万人、政権獲得を目指しローマへ進軍
10.25
 シベリア撤兵完了
10.31
 伊で、ムッソリーニ内閣成立
1111.05
 英の考古学者ハワード・カーター、王家の谷で、ツタンカーメンの墓を発見(外側の封鎖壁を除去)
犬養毅、尾崎行雄ら、革新倶楽部結成。
11.01
 オスマントルコ帝国滅亡
 ケマル・パシャ、スルタン制の廃止を宣言
12米の自動車王ヘンリー・フォード、初の億万長者

 並木伊三郎と遠藤政次郎、牛込袋町に「文化裁縫学院」を開校
 並木伊三郎、文化式裁断法を確立
03.10
 上野で平和記念東京博覧会が開催され、マネキン・ガールが登場
モスクワにて第一回ソビエト大会。ソビエト連邦成立。
12.27
 世界初の航空母艦「鳳翔」竣工
12.06
 アイルランド自由国誕生
12.30
 ソビエト社会主義共和国連邦(USSR)成立

大正十二年
1
9
2
3
1923年(大正12年)の社会
【出版】
 大正大震災大火災
 憲法撮要(美濃部達吉)
 二銭銅貨(江戸川乱歩)
 青猫(萩原朔太郎)
 日輪(横光利一)
 山椒魚(井伏鱒二)
【世相】
東京の蕎麦屋でカレーライス・カツ丼などメニューに加わる
 日本橋で、東京初の焼き鳥専門店開店
03.08 東京・神田で、赤瀾会(せきらんかい)、日本初の国際婦人デー集会を開催
05.09 文部省、常用漢字表を発表
05.15 白木屋神戸出張所で、百貨店初の土足入店を実施

アッパッパ(通気性を良くするため、ゆったりしたワンピース形の女性用夏服)大正末期から昭和初期にかけて流行した

毛糸で編んだ正チャン帽が流行
 (漫画「正 チャンの冒険」(作:織田小星 画:東風人)の主人公の帽子のこと)
1923年~1926年までアサヒグラフで連載
 大震災の影響で和装から洋装へ
 洋裁の家庭普及が始まる
 百貨店に既製服売り場が出来る
 子供の洋服が増える
02.10第1回全日本スキー選手権大会開催(小樽)
04.18ニューヨークヤンキーススタジアムオープン
5.26第1回ル・マン24時間耐久レース開催
 第1回優勝車はシェナール・ワルケール(仏製)
 モヘンジョ・ダロ発掘開始
02.16 1922年11月26日に英のエジプト考古学者ハワード・カーターにより発掘されたツタンカーメン王墓の玄室が開封される
【洋画】
 巴里の女性 9.26 アメリカ 
  監督:チャールズ・チャップリン 出演:エドナ・パーヴィアンス カール・ミラー
 サロメ(Salome) 2.15 アメリカ 
  監督:チャールズ・ブライアント
原作:オスカー・ワイルド 出演:アラ・ナジモヴァ ミッチェル・ルイス ローズ・ディオン ナイジェル・ブルリエ アール・シェンク
 幌馬車(The Covered Wagon) 3.16 アメリカ 
 監督:ジェームズ・クルーズ 出演:J・ウォーレン・ケリガン ロイス・ウィルソン ジョニー・フォックス アーネスト・トレンス タリー・マーシャル
 十誡(The Ten Commandments) 11.23 アメリカ
  監督:セシル・B・デミル
出演:テオドラ・ロバーツ シャルル・ド・ローシュ エステル・テイラー リチャード・ディックス ロッド・ラ・ロック
【邦画】
船頭小唄 1.8
  監督:池田義臣 製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:栗島すみ子 上映:麻布松竹館
 女と海賊 7.1
  監督:野村芳亭(1880年11月13日生 京都府京都市 子:映画監督の野村芳太郎) 製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:川田芳子 上映:浅草電気館
 瀧口入道 夢の恋塚 12.14
  監督:後藤秋声 原作:高山樗牛
製作:マキノ映画製作所(等持院撮影所)
  出演:阪東妻三郎 上映:成子不二館

【流行歌】
夕焼け小焼け作詞:中村雨紅作曲:草川信
どこかで春が作詞:百田宗治 作曲:草川信
春よ来い作詞:相馬御風 作曲:弘田龍太郎
おもちゃのマーチ作詞:海野厚 作曲:小田島樹人
花嫁人形作詞:蕗谷虹児 作曲:杉山はせを
【流行語】 復興計画 ジリ貧 アナーキスト アッパッパ 大震災  流言飛語
41923年(大正12年)の経済
02.20
 丸ビル(丸の内ビルディング)完成 地上8階建て 高さ31m 1997解体
1923年(大正12年)の政治




石井・ランシング協定廃棄。
5
北一輝「日本改造法案大綱」。
6帝国ホテル新館(ライト館)全館落成

 横浜程ヶ谷カントリークラブ完成(日本初の本格的ゴルフ場)
第一次共産党事件。日ソ予備交渉はじまる。
06.18 伊で、エトナ火山が大爆発
07.24 ローザンヌ条約
 ⇒ギリシア・トルコ戦争(希土戦争

807.07
 日比谷公園音楽堂完成
加藤友三郎首相、在職中に病没。内閣総辞職。後継内閣閣員に関して紛糾。
9【創刊】
婦人倶楽部新年号に「別冊付録」登場
 以後婦人雑誌・少年雑誌・少女雑誌で「別冊付録」流行
 文藝春秋
 週刊アサヒクラブ 11.14
 エコノミスト 4.1
 赤旗 4.3
 教育の世紀 10.6
 タイム(米) 3.3
【商品】
カレー粉(日賀志屋)日本初
ホットケーキ お好み焼き
 タイガー魔法瓶
 電熱アイロン

松下幸之助、「砲弾型ランプ」(電源は乾電池)を完成
創立:
日賀志屋(ヱスビー食品 )
 マキノシネマ
 小田原急行鉄道
 日本航空
山野千枝子、丸ビルに「美容院」を開店(「美容院」呼称の初め)
06.23 文化裁縫女学校(文化服装学院)、東京府各種学校令により服装教育の学校として認可(日本初)
1919 並木伊三郎、並木婦人子供服裁縫教授所を創設
 1922 遠藤政次郎の協力で文化裁縫学院に発展
11.01 安田銀行(富士銀行)設立
11.15独でマルクが大暴落
12.01築地魚河岸市場開場
12.15 九州環状線完成
【没】
レントゲン(77歳 2.10)
サラ・ベルナール(78歳 3.26)
カーナーヴォン(56歳 4.5)
有島武郎(45歳 6.9)
大杉栄(38歳 9.16)
スタインメッツ(58歳 10.26)

エッフェル(91歳 12.28)

9.1関東大震災突発。




京浜地区に戒厳令が敷かれる。朝鮮人暴動デマなど流れ、虐殺事件起こる。


09.02 朝鮮人虐殺事件

09.04 亀戸事件

09.13
 関東大震災で、ソ連の救援船レーニン号が横浜に入港するが、退去を命令


09.16 甘粕事件
甘粕昌彦憲兵大尉、アナーキスト大杉栄、伊藤野枝とその甥を扼殺


第二次山本権兵衛内閣成立。帝都復興に関する詔書など渙発。

10.29 トルコ共和国成立

11.08
 独で、ヒトラーがミュンヘン一揆(ビヤホール一揆) 11.11 逮捕



虎ノ門事件。12.27
 摂政の裕仁親王(昭和天皇)、虎の門で難波大助にステッキ銃で狙撃される山本内閣恐懼して総辞職。
12.21 ネパール、英から独立






大正十三年
1
9
2
4
1924年(大正13年)の社会
【出版】
注文の多い料理店(宮沢賢治
03.20
谷崎潤一郎「痴人の愛」、大阪朝日新聞に連載開始
創刊:
 演劇新潮
 地球 2.11
 音楽新潮
 子供の科学 10.1
 文芸時代
【世相】
01.28
 皇太子御成婚記念として、上野公園と上野動物園、東京市へ下賜
01.25
 第1回冬季オリンピック・シャモニー大会開催(仏) 日本不参加
04.01
 第1回選抜中等学校野球大会開催(名古屋)

麻雀流行
天気図が新聞に初掲載
04.26 日比谷公園音楽堂で、日本初のボクシング・タイトルマッチ(第1回全日本軽体量ボクシング選手権試合)が行われ、
 明治大学の臼田金太郎が初代チャンピオンとなった
07.05 第8回オリンピック・パリ大会開催(仏)
 「選手村」初登場
08.01 甲子園球場竣工
須田町食堂開店(神田) 日本初の大衆食堂
 円タク(1円タクシー)登場(大阪)
10.25 明治神宮外苑競技場竣工
11.11 ユージン・オニールの戯曲「楡の木陰の欲望」初演
11.29 東京音楽学校第48回定期演奏会で、ベートーベン「第九交響曲」、日本人により演奏
12.20 女性車掌(赤襟嬢)登場
12.30 ロックフェラー財団、東京大学に図書館建設費400万円を寄附(関東大震災で建物・蔵書を失ったため)
【洋画】
ニーベルンゲン/ジークフリート ドイツ 1925/03/(日本公開)  監督:フリッツ・ラング
  出演:パウル・リヒター テオドル・ロース ハンナ・ラルフ
 バグダッドの盗賊(The Thief of Bagdad) 3.18 アメリカ 1925/01/(日本公開)
  監督:ラオール・ウォルシュ
  出演:ダグラス・フェアバンクス ジュラン・ジョンストン メイ・ウォング 上山草人 南部邦彦

 グリード(Greed) 12.4 アメリカ 1926/11/(日本公開)
  監督:エリッヒ・フォン・シュトロハイム
  出演:ギブソン・ゴーランド ザス・ピッツ ジーン・ハーショルト チェスター・コンクリン
 キートンの探偵学入門(忍術キートン Sherlock,Jr.) 4.21 アメリカ
  監督:出演:バスター・キートン
【邦画】
春は花遠山桜 4.25
  監督:沼田紅緑
  製作:マキノ映画製作所(等持院撮影所)
  出演:阪東妻三郎  上映:浅草大東京
 清水次郎長 10.10
  監督:沼田紅緑
  製作:東亜マキノ(等持院撮影所)
  出演:阪東妻三郎  上映:浅草大東京
 村の牧場 12.31
  監督:清水宏
  製作:松竹キネマ(下加茂撮影所)
  出演:田中絹代  上映:浅草松竹館
【流行歌】
兎のダンス 作詞:野口雨情 作曲:山田耕筰
あの町この町 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
ストトン節 作詞:添田さつき 作曲:添田さつき
ヨサホイ節 作詞:秋月四郎 作曲:秋月四郎

【流行語】
この際だから 文化鍋 円タク 円太郎 乗合自動車 赤襟嬢 特権内閣 憲政の常道 綱紀粛正 貴院改革

11924年(大正13年)の経済

精工舎、時計類の名称に「SEIKO」使い始める

 尚工舎時計製造所、懐中時計「シチズン」第1号完成(12円50銭)
 簗瀬自動車(のちのヤナセ)、日本橋にショールームを開設
日本初の踏切警報機設置(鹿児島本線・門司~大里)

 日本栄養協会設立
 学校給食推進

01.18
 東京市営乗合自動車(円太郎)運行開始

04.19
 日本初のフェリー「翔鳳丸」就航(青森~函館)
1924年(大正13年)の政治

01.21
 レーニン(53)死去
01.22
 英で、初の労働党内閣成立
 マクドナルド、首相に就任
元老西園寺公望、平田東助内府と協議の上、清浦奎吾を内閣首班に奏薦
政友会憲政会、革新倶楽部(以上護憲三派)は第二次護憲運動を標榜する。
政友会の内閣支持派(床次竹二郎ら)は脱党して政友本党結成。
01.26
 摂政裕仁親王、久邇宮良子と結婚
01.26
 ペトログラードをレニングラードと改称
清浦内閣は議会を解散。
306.03
 東京朝日新聞にカルピスの黒人イラスト広告が初登場
 黒人マークはオットー・ デュンケル(Otto Dunkel)がデザインしたもの
 強力フマキラー液(大下回春堂)日本初の液体殺虫剤
司法官平沼騏一郎ら、右翼団体国本社を設立。
03.03
 トルコで、カリフ制廃止
5 日清サラダ油(日清製油)国産初
 コンビーフ普及
 冷凍肉登場
 即席食品(即席カレー・ゼリーの素・アイスクリームの素など)人気
第十五回総選挙。護憲三派圧勝、憲政会が政友会を大きく引き離して第一党となる。
北京で芳澤謙吉公使とソ連邦のカラハン公使とのあいだで日ソ交渉。
606.01 荻野久作、オギノ式避妊法を発表
06.13 築地小劇場開場
 近代劇のメッカに
清浦内閣総辞職、護憲三派内閣として第一次加藤高明内閣成立
707.01 メートル法実施
07.27 連絡船「大礼丸」沈没
 196人死亡
 特務船「関東」沈没
 97人死亡
松方正義死没。西園寺公望、最後の元老となる。
808.21
 「国民新聞」に初めて天気図が掲載
政務次官、参与官を新設。
9
09.28 米陸軍飛行隊(ダグラス・ワールドクルーザー水陸交替機)、世界初の世界一周飛行に成功
 飛行距離44.333km
 所要日数176日
 飛行時間371時間7分
政府と与党護憲三派の協賛をうけて、普選法案大綱がまとまる。

1010.12 荒川放水路が完成し、通水式が行われる
11.11
 寿屋山崎工場(サントリー山崎蒸溜所)竣工(日本初のモルトウィスキー蒸留所)、国産ウィスキーの製造開始
12.14東京で日仏会館開館式
12.15 歌舞伎座再建
内閣に貴族院改革(貴革問題)のため、貴族院調査委員会設立。
11.24 孫文来日
12.13
 婦人参政権獲得期成同盟会結成
 市川房枝ら、理事に就任
11.26
 モンゴル人民共和国成立

大正十四年
1
9
2
5

1925年(大正14年)の社会
【出版】
団子串助漫遊記(宮尾しげを)
 心理試験(江戸川乱歩)
 純情小曲集(萩原朔太郎)
 檸檬(梶井基次郎)
07.18 ヒットラー「我が闘争」刊行
09.25 三省堂「広辞林」刊行
【世相】
女性の水着、袖付からノースリーブへ
 ショートスカート 肌色の靴下 サンダルが流行
 造花の髪飾り ヘアーネット ルパシカが流行
レフ・トルストイが着用していたことからインテリを中心に広まった
セーラーズボンが流行
モガ・モボ(モダンガール・モダンボーイ)出現
 モガとは、断髪し、引眉毛をかき、縞の洋服、ショートスカート姿の新しがり屋の女の子のことをいう
 モボとは、オールバックの髪型で、ロイド眼鏡をかけ、派手なネクタイを絞め、セーラーズボンといったファッションの新しがり屋の青年のことをいう

幾何学柄のストレートなラインが流行(アールデコ)パリ万国装飾美術博覧会(アール・デコ博)の影響ポール・ポワレ、ココ・シャネルなど
 夏は洋服、冬は着物が定着
 女性の断髪が増える 洋裁ブームが起こる
ダンス大流行 東京府内のダンスホール急増
 不景気のため大学中退が増加 剣劇ブーム
 パン屋の食堂(北極星)にオムライス登場
 3場所連続優勝中の横綱栃木山、突然の引退

02.15 全日本スキー連盟設立
09.20 東京六大学野球始まる
10.19 早慶戦、20年ぶりに復活
11.13 英の考古学者・ハワード・カーター(Howard Carter)、ツタンカーメンの棺を開封
11.14 パリで、初のシュールレアリスム絵画展開催
12.28 大日本相撲協会設立

【流行語】
のんとう(のんきな父さん) 寄らば斬るぞ ラジオ 治安 猟奇 公衆電話 ルパシカ 軍教 トロツキスト

【流行歌】
のんきな父さん 作詞:石田一松 作曲:添田唖蝉坊
からたちの花 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰
ペチカ 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰
あめふり 作詞:北原白秋 作曲:中山晋平
雨降りお月さん 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
証城寺の狸囃子 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
待ちぼうけ 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰
あの町この町 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平
この道 作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰

【洋画】
  黄金狂時代(The Gold Rush) 6.26 アメリカ 1925/12/(日本公開)監督・出演:チャールズ・チャップリン
  オペラ座の怪人 9.6 アメリカ 監督:ルパート・ジュリアン 原作:ガストン・ルルー 出演:ロン・チェイニー メアリー・フィルビン ノーマン・ケリー ギブソン・ゴーランド
  戦艦ポチョムキン ソ連 第1次ロシア革命20周年記念映画 監督:セルゲイ・エイゼンシュテイン
  出演:アレクサンドル・アントノーフ グリゴリー・アレクサンドロフ ウラジミール・バルスキー
【邦画】
   恩讐の彼方に 2.5  上映:京都マキノキネマ
 監督:牧野省三 製作:東亜キネマ(等持院撮影所)
  原作:菊池寛「恩讐の彼方に」 脚本:直木三十三
 出演:市川花紅 常盤松代 沢田正二郎 久松喜代子    街の手品師 2.13 上映:浅草三友館
  監督:村田実  製作:日活(京都撮影所第二部)
  出演:岡田嘉子(ソ連に亡命した女優)  
  月形半平太 5.15  上映:浅草大東京
  監督:衣笠貞之助  製作:聯合映画芸術家協会(等持院撮影所) 主演:沢田正二郎 
  ふるさとの歌 9.17 上映:大阪常盤座
  監督:溝口健二 製作:日活(関西撮影所教育部)
  出演:木藤茂 辻峰子 川又賢太郎 橘道子
   日輪 11.13      上映:浅草大東京
  監督:衣笠貞之助 製作:マキノプロダクション(御室撮影所) 聯合映画芸術家協会 原作:横光利一
  出演:沢村源十郎 市川猿之助 阪東和三郎 市川八百蔵 マキノ輝子 マキノ富栄 
 雄呂血 11.20    上映:浅草大東京
  監督:二川文太郎 製作:阪東妻三郎プロダクション
  配給:マキノプロダクション 出演:阪東妻三郎
 
11925年(大正14年)の経済
物価:
ラジオ 鉱石式10円 真空管式120円
炭(1俵) 1円45銭

国産マヨネーズ(のちのキューピーマヨネーズ)を発売するもさっぱり売れず

松下幸之助「ナショナル」の商号使用

ライカ I A近代的精密小型カメラの始祖)発売

創立:
 野村證券 12.1
 米クライスラー社 6.6
創刊:
 キング(講談社)50銭 1.1 77万部
 地理学評論 映画評論
 社会科学 6.1 民俗

 
1925年(大正14年)の政治
01.20
 日ソ国交樹立
芳澤・カラハン交渉纏まり、日ソ基本条約締結。
401.17 ロックフェラー財団、関東大震災で崩壊した東京大学図書館再建のために400万円を寄附
03.21 群馬県佐野村(高崎市)の馬場源八郎、初めて複葉グライダーを製作し、飛行に成功
05.23 北但馬地震(M6.8)
 428人死亡・行方不明
07.06 安田講堂落成
07.21 槙有恒ら、カナダ・ロッキー山脈アルバータ山(3619m)の初登頂
09.27 地下鉄銀座線(日本初の地下鉄)起工式
0.15 京城に朝鮮神宮創建
10.28 横浜港の大棧橋が完成
11.01 山手線、環状運転開始
11.13 東京帝国大学地震研究所(東京大学地震研究所)創立

12.15 東京乗合自動車、ユーランバス(日本初の定期観光バス)の走行を開始(皇居前~銀座~上野)
12.01 野村證券設立

新橋演舞場開場

自動電話、「公衆電話」に改称
大阪白木屋で、日本初のネオン設置
東京白木屋で、東京初のネオン設置

ベアード(英)、機械式走査による世界初の実験的テレビ発明
03.22
 午前9時30分、東京放送局(JOAK)、日本初のラジオ放送を開始
 「JOAK、JOAK、こちらは東京放送局であります」(京田武男)
06. 東京放送局(JOAK)、日本初の女性アナウンサー(翠川秋子)を採用
06.15 東京放送局(JOAK)愛宕山局舎完成
07.12 NHK東京放送局(JOAK)本放送開始
07.19 東京放送局(JOAK)、日本初のラジオドラマ「大尉の娘」を放送
11.15 読売新聞、日本初の「よみうりラジオ版」発行

【没】
 孫文(58歳 3.12)
 ワッセルマン(59歳 3.16)
 セルゲイ・エセーニン(30歳 12.28)
【生誕】
有名人/誕生日
三島由紀夫(1.14)
 江崎玲於奈(3.12)
 橋田壽賀子(5.10)
マーガレット・サッチャー(10.13)
 ロバート・ケネディ(11.20)




01.03
 伊で、ムッソリーニ、独裁宣言
農商務省、農林省と商工省に分離改組。
高橋是清、農商務相と政友会総裁辞任。後任総裁に田中義一。
04.22
 治安維持法公布
 05.12
 施行

05.05
 普通選挙法公布
 25歳以上の男子に選挙権を付与
06.23
 沙基事件
07.01
 広東国民政府樹立
09.18
 帝国議事堂全焼
11.09
 独で、ナチス、親衛隊を創設
12.06
 皇太子裕仁親王第一皇女・照宮成子内親王誕生
12.13
 イラン・パーレビ王朝の始まり


      
大正十五年
1
9
2
6
昭和元年
1926年(大正15年)の社会
【出版】

一寸法師(江戸川乱歩) 12.8
 海に生くる人々(葉山)
 退屈読本(佐藤春夫)
 恋愛創世(高群逸枝)
 パスカルに於ける人間の研究(三木清)
社会の構成並に変革の過程(福本和夫)
 日はまた昇る(ヘミングウェイ) 10.22
 北原白秋「からたちの花」刊行
 川端康成「伊豆の踊り子」文芸時代に連載
 吉川英治「鳴門秘帖」大阪毎日新聞に連載
大仏次郎「照る日くもる日」大阪朝日新聞に連載
10.14 英でミルンの童話「クマのプーさん」発売
12.03 改造社「現代日本文学全集」(全63巻)刊行開始1円の安さに大人気 円本ブーム
 【世相】

 大衆文学人気
めんこ、べーゴマ、小鳥の飼育(十姉妹・セキセイインコ)流行 みつ豆人気
 一般家庭にガラス戸普及 ネオンサイン出現
「キンカン」 「花王マルセル」 「明治ミルクチョコレート」 「明治ココア」 「高級蒔絵万年筆」
アッパッパ(あっぱっぱ)が普及
 アッパッパ(あっぱっぱ)とは、女性が夏に着る通気性のよい家庭用ワンピースのことをいう
 ハンドバッグ 洋装が普及
 モボ・モガ、銀座を闊歩
シャネル、「リトル・ブラック・ドレス」を発表
 八王子で、初のタクシー強盗殺人
03.06 英で、シェークスピア記念劇場ロイヤル・シェークスピア劇場)が焼失

03.24 警視庁、東京府内での女相撲の興業を禁止
04.04 第1回全国民間飛行機操縦士競技大会開催
05.09 銀座松屋デパートで初の飛び降り自殺
05.09 米の探検家リチャード・バードと操縦士フロイド・ベネット、無着陸での北極点往復飛行に成功
05.12 アムンゼンら、飛行船で北極点上空を飛行
05.24 十勝岳大噴火 144人死亡
08.20 鬼熊事件
09.18 福島県吾妻山で女子師範学校生徒130人が遭難し、4人が死亡
09.20 アル・カポネのホテルをガンマンを満載した自動車8台が襲い、機関銃の一斉射撃を浴びせる
09.28 京浜線に自動ドアの電車登場
10.12 警視庁、古電柱から作った割り箸は有害であると禁止
10.22 明治神宮外苑完成
寺岡文子、100m走で世界新(12秒7)
08.29 人見絹江、第2回国際女子陸上競技大会(スウェーデン)走り幅跳び世界新(5m50cm)で個人総合優勝
11.11 バーナード・ショーのノーベル文学賞が決定
11.30 日本ラクビー協会設立
南アで、世界最大のダイヤモンド鉱脈発見
【洋画】
肉体と悪魔(Flesh and the Devil) 12.25 アメリカ 監督:クラレンス・ブラウン 原作:ヘルマン・ズーデルマン「消えぬ過去」
出演:グレタ・ガルボ ジョン・ギルバート
 拳闘屋キートン(キートンのラストラウンド Battling Butler) 9.19アメリカ監督:出演:バスター・キートン
 ロイドの福の神(For Heaven's Sake) 4.1 アメリカ 監督:サム・テイラー 出演:ハロルド・ロイド
【邦画】
カラボタン 8.30 監督:野村芳亭
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所) 出演:田中絹代  上映:東京歌舞伎座
 陸の人魚 9.12 監督:阿部ジャック
製作:日活(大将軍撮影所) 原作:菊池寛 出演:梅村蓉子上映:神田日活館 
 足にさはった女 10.29 監督:阿部豊
  製作:日活 出演:岡田時彦 上映:神田日活館 三友館
 狂った一頁 9.24 監督:衣笠貞之助
製作:新感覚派映画連盟 原作:川端康成 出演:井上正夫 中川芳江 飯島綾子 上映:武蔵野館
【流行語】
立ち入り禁止 赤 文化住宅 モダーン 福本イズム 円本 マルクスボーイ アッパッパ ハンドバック ラジオ
【流行歌】
この道作詞:北原白秋 作曲:山田耕筰
ヴェニスの船唄 作詞:作曲:不詳
酋長の娘作詞:作曲:石田一松
鉾をおさめて作詞:時雨音羽 作曲:中山晋平

1926年(大正15年)の経済1926年(大正15年)の政治

物価:
 白米10kg 3円20銭
 映画 40銭
 理髪 80銭
 銭湯 5銭

創刊:
 アサヒカメラ
 心理学研究
 大衆文芸


03.01 東京電気(東芝)、内面つや消し電球「二重コイル・フィラメント(新マツダランプ)」を世界に先駆けて発売



創立:
 豊田自動織機製作所 11.18
 東洋レーヨン 1.12
 日本レイヨン 3.17
01.06 独で、ルフトハンザ航空会社設立
01.12 東洋レーヨン設立
02.20 日清製粉鶴見工場完成
01.19
 共同印刷の従業員2.300人が、操業短縮に反対してスト決行
 01.20
 会社側が、工場閉鎖と全員解雇で対抗したため58日間に及ぶ大争議に発展
01.20 東京の京橋局に初のダイヤル式電話が設置 400人いた交換手が18人に減少
03.07 ニューヨーク-ロンドン間で初の大西洋横断無線電話開設
08.13 八木秀次、「八木アンテナ」の特許取得
03.16 米で、ロバート・ゴダード、世界初の液体ロケット発射に成功
09.05 米のフォード社、8時間労働・週休5日制導入
01.20
 独で、第2次ルター内閣成立
01.28
 加藤高明(66)総理死去

01.15
 京都学連事件
 河上肇京都帝大教授、軍事教練反対のビラが撒かれた事件の疑いで家宅捜索
 治安維持法が初適用
01.30
 若槻礼次郎内閣成立

03.17 日本レイヨン設立
03.20 大阪電気大博覧会開幕
 博覧会ブーム
03.26 二階堂トクヨの体操塾、日本女子体育専門学校(日本女子体育大学)として認可
04.24 青森~函館に電話が開通
本州と北海道が電話で結ばれる
04.25 東京と上野の両駅に入場券自動販売機(独製)を設置
06.23 東京音楽院(国立音大)の設立が認可
06.01フィラデルフィアでアメリカ合衆国独立150年記念万国博覧会開幕
 7万台収容の駐車場が話題
06.25 フラデルフィア万博の日本館が開館
08.06 日本放送協会(NHK)設立
08.06 同潤会、日本初の公営鉄筋アパートを向島に建築(電気ガス水道水洗トイレ完備の本格的近代アパート)
09.13 日本航空、大阪ー大連間定期航路開設(日本初の海外定期航路)
09.09 ニューヨークでNBC放送設立
 10.09 ネットワーク放送を開始
11.08 ニューヨークで米初カーフェリーが就航
11.02 杉野芳子、ドレスメーカー女学院(ドレスメーカー学院)を開校

12.13 米でロッキード航空機会社設立

03.10
川崎造船所で、潜水艦伊1号が竣工

06.30
 健康保険施行令公布
 初の社会保険制度がスタート

10.04
 山田耕作との軋轢で日本交響楽協会を脱退した近衛秀麿、新交響楽団を結成
10.17 藤井健次郎、染色体の二重螺旋構造を発見
11.18 豊田自動織機製作所設立
12.03 アガサ・クリスティ、バークシャー州の自宅を出たまま失踪
12.18 生糸相場暴落のため、全国の製糸会社が年内操業を停止
12.25 東京日日新聞、新元号を「光文」と誤報
01.27 英の発明家・ジョン・ベアード初のテレビ放送公開実験
12.25
 高柳健次郎、世界初のブラウン管による電子式受像に成功
 高柳健次郎、「イ」の文字をブラウン管に映し出すことに成功

【没】
 アントニオ・ガウディ(73歳 6.7)
 ルドルフ・ヴァレンティノ(31歳 8.23)
 尾上松之助(50歳 9.11)
 クロード・モネ(86歳 12.5)
 大正天皇(47歳 12.25)
12.25
 大正天皇崩御
 昭和に改元
 「百姓昭明、万邦協和」(書経)
 国民の平和と世界の共存繁栄を願ったもの
昭和二年

1927









1922-1926
大正時代


歴史認識を考えてみる(16-1)

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恐慌の時代~蒋介石軍の北伐に巻き込まれる
               昭和2年
の世界

世界恐慌南京事件上海クーデター青い目の人形大使/コロムビア・ビクター・ポリドール創業/地下鉄銀座線開通

左側は北伐経路。背景は台湾銀行、右側はレコード会社を支えた蓄音機。

1927
昭和初期

第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。
しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して
早くも戦後恐慌となった。
さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする
銀行への取りつけ騒動が1927年(昭和2年)3月15日から生じて、4月20日前後には最高潮に達し
て、昭和金融恐慌となった。
昭和初期に東北地方が大凶作に見舞われて農家の女性達は養育能力がなかったため、
間引きが盛んに行われた。
冷害貧困のために東北地方の農村では「身売り」があり社会問題となった。

さらに1927年(昭和2年)には、片岡直温蔵相の失言による取り付け騒ぎから発生した金融恐慌
昭和金融恐慌)が起こり、為替相場は動揺しながら下落する状況が続いた。
1928年6月にはフランスも新平価(5分の1切下げ)による金輸出解禁(金解禁)を行ったので、
主要国では日本のみが残された。

このころ、日本の復帰思惑もからんで円の為替相場は乱高下したため、
金解禁による為替の安定は、輸出業者・輸入業者の区別なく、財界全体の要求となった[3]

このような状況下で成立した立憲民政党濱口雄幸内閣は、「金解禁・財政緊縮・非募債と減債」

「対支外交刷新・軍縮促進・米英協調外交」を掲げて登場、金本位制の復帰を決断し、
日本製品の国際競争力を高めるために、物価引き下げ策を採用し、市場にデフレ圧力を
加えることで産業合理化を促し、高コストと高賃金の問題を解決しようとした[4]
これは多くの中小企業に痛みを強いる改革であった。

浜口内閣の井上準之助蔵相は、徹底した緊縮財政政策を進める一方で正貨を蓄え、
金輸出解禁を行うことによって外国為替相場の安定と経済界の抜本的整理を図った。

1929年12月7日付けの大阪毎日新聞は
「下る・下る物価 よいお正月ができるとほくそえむサラリーマン」
という見出しで、金本位制復帰によるデフレを歓迎した[5]

金本位制復帰後の当時の新聞記事の見出しでは「金融平穏無事」(大阪時事新報1930年1月12日)、
「金解禁後の財界は至極良好」(大阪朝日新聞1930年1月22日)と礼賛されたが、
一カ月後には「金解禁で産業界は高率操短[6]時代」(中外商業新報1930年2月17-19日)、
「一般物価に比し米価は甚だしく下落」(大阪朝日新聞1930年2月20日)
といった新聞記事の見出しが出始めた[7]

昭和恐慌当時の代表的なメディアである新聞・総合雑誌では「不景気を徹底させよ」と
勇ましいスローガンが飛び出していた[8]

昭和恐慌の発生

世界恐慌と金解禁

1929年10月のウォール街大暴落で混乱するニューヨーク
緊縮財政と金融引き締め策によって約3億円の正貨が準備され、為替も急速に回復したため、
日本政府は1929年(昭和4年)11月22日、翌年の1月11日をもって
金解禁に踏み切る大蔵省令を公布した[9]

しかし、前年の10月にアメリカ合衆国ニューヨークウォール街で起こった
株価の大暴落に始まった恐慌が世界じゅうに波及した(世界恐慌)。
日本経済は、これにより金解禁による不況とあわせ、二重の打撃を受けることとなった。

金解禁前の為替相場の実勢は100円=46.5ドル前後の円安であったが、
井上蔵相は、100円=49.85ドルという金禁輸前の旧平価での解禁をおこなったため、
実質的にはの切り上げとなった。
円高をもたらして日本の輸出商品をあえて割高にし、ひいては日本経済をデフレーションと不況に
みちびくおそれのある旧平価解禁を実施したのは、円の国際信用を落としたくない思いに加えて、
生産性の低い不良企業を淘汰することによって
日本経済の体質改善をはかる必要があるとの判断されたためであった[9][注釈 3]

金融界にあっても、金融恐慌後の資金の集中によって体質強化がはかられていたので、
デフレを乗りきる自信が備わっていた[10]
為替の不安定に悩まされていた商社もまた金解禁に賛成し、海外からも金解禁を迫られてはいた[10]

しかし、ある意味で、1930年1月は、金解禁の時期としては最も悪いタイミングであった[11]
政府が金解禁を急いだのは、1929年までのアメリカの繁栄をみたためであったが、
ウォール街大暴落がやがて起こる世界大恐慌の前ぶれであることを予見した世界の指導者は
誰ひとりいなかったのであり、井上蔵相もまた、再びアメリカ経済が活況を呈するだろうと
考えたのである[11]。ところが、よりによって
日本の金解禁は世界恐慌の幕が切って落とされたその時に実行に移されたのだった[注釈 4]

金解禁を見越して輸出代金回収を早め、輸入代金支払いを繰り延べる
リーズ・アンド・ラグズ」によって国際収支の好調と為替相場の上昇が一時みられたものの、
解禁後は一転して逆調となった[3]

正貨流出と昭和恐慌の発生

低コストによって輸出を拡大させようとした井上蔵相のねらいとは裏腹に、対外輸出は激減した。
そのいっぽうで日本国内で兌換された正貨は海外に大量に流出した[12]
金解禁後わずか2か月で約1億5,000万円もの正貨が流出、
1930年を通して2億8,800万円におよんだ[12]
正貨流出は1931年(昭和6年)になってもおさまらず、むしろ激しさを増した[注釈 5]

日本の輸出先は、生糸についてはアメリカ、綿製品や雑貨については中国をはじめとするアジア諸国
であったが、これらの国々はとりわけ世界恐慌のダメージの強い地域であった[13]
こういったことから、
1930年3月には商品市場が大暴落し、生糸、鉄鋼農産物等の物価は急激に低下した。
次いで株式市場の暴落が起こり、金融界を直撃した[13]
さらに、物価と株価の下落によって中小企業倒産や操業短縮が相次ぎ、失業者が街にあふれ、
国民一般の購買力も減少していった[13]。1930年中につぶれた会社は823社におよび、
減資した会社は311社、解散減資総額は5億8,200万円におよんでいる[13]

労働運動も激化した。また、全体の3割にあたる約3万の小売商夜逃げしている[14]
当時、稀少であったはずの大学・専門学校卒業生のうち約3分の1が職がない状態であり、
学士が職にありつけない明治いらいの異変が生じて「大学は出たけれど」が流行語となった[14]
1930年の失業者は全国で250万人余と推定されており、このような未曽有の不況は
「ルンペン時代」と称された[3]
1929年を100としたときの1930年・1931年の経済諸指標は以下の通りである[3]
項目     1929年 1930年 1931年
国民所得100      
81      
77
卸売物価1008370
米価1006363
綿糸価格1006656
生糸価格1006645
輸出額1006853
輸入額1007060
なお、1930年時点での日本の1人あたり国民所得は、アメリカの約9分の1、イギリスの約8分の1、
フランスの約5分の1、ベルギーの約2分の1にすぎな
かった[14]

農業恐慌

昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。生糸の対米輸出が激減したことに加え、
デフレ政策と1930年の豊作による米価下落、朝鮮、台湾からの米の流入によって米過剰が増大し[15]
、農村は壊滅的な打撃を受けた。

濱口内閣は、農業恐慌に対しては、農民への低利資金の融通や米、生糸の市価維持対策をとったが、緊縮財政の枠のなかではまったく不十分にしか行えなかった。いっぽう工業面では、1930年6月に臨時産業合理局を設けている[3][注釈 6]
(中略)
こうして、日本の金本位制復帰はわずか2年の短命に終わった。
この2年間の深刻な恐慌は社会的危機を激化させ、濱口雄幸、井上準之助、三井財閥の大黒柱で
あった団琢磨らを襲ったテロリズムとなって暴発し、戦争とファシズムへの道を準備する結果となった
[3]。その一方で金輸出再禁止により、
円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。
輸出の急増にともない景気も急速に回復し、
1933年には他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準に回復した
[注釈 9]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

一円の価値の推移
明治初期の1円金貨は現在の約2万円位。明治後期には2円の価値として使用された。昭和初期の時代には3千円位まで落ちている。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J050.htm















恐慌の原因と対策まとめ
戦後恐慌

原因:第一次世界大戦中に撤退していたヨーロッパ諸国がアジア市場に復帰
大戦景気での増産体制により過剰生産となる

経過:輸出用の生糸・綿糸の価格が暴落
1919(大正8)年から貿易は輸入超過に転じた

対応:日本銀行が多額の救済融資をおこなう

震災恐慌

原因:1923(大正12)年の関東大震災で東京が大きな被害を受け、
日本経済が麻痺状態に陥った

経過:震災のため、銀行が持っていた手形が大量に決済不能となった
対応:日本銀行の特別融資で一時をしのぐが不況は慢性化

金融恐慌

原因:戦後恐慌・震災恐慌による経済界の打撃
震災手形の処理の不手際

経過:震災手形の処理を巡る、蔵相片岡直温の失言で取付け騒ぎが発生
鈴木商店に対する不良債権をかかえた台湾銀行が破綻の危機に

対応:第1次若槻礼次郎内閣が緊急勅令で台湾銀行救済を試みたが
枢密院の反対で総辞職
田中義一内閣が3週間のモラトリアム(支払猶予令)を発する
日本銀行からの巨額の救済融資


昭和恐慌

原因:旧平価による金輸出解禁
世界恐慌
緊縮財政

経過:物価の下落
輸出の減少
正貨(金)の流出

対応:高橋是清蔵相による金輸出再禁止と積極財政
 
いっぽう、台湾、朝鮮は日本からの支援を受け、順調に発展を続けた。

台湾割譲1895年
朝鮮併合1910年

新聞記事文庫 移民および植民(16-124)
京城日報 1927.2.6-1927.2.17(昭和2)


各国の植民政策 (一~六・完)

松岡正男


(一)

記者申す……左は本社副社長松岡正男氏が五日夜京城銀行集会所に催された小集に於て試みた講演の要旨であります
(中略)

植民地の意義

第一申上げたいのは、植民地の意義についてであります、
換言すれば、植民地とは如何なるものなりやとの事であります
世人が動もすれば植民地とは劣等なる民族の居住する邦土、
又は毋国の利益のため供ぜらるべき国
即ち人を移して財を掠め取るべき国又は征服されたる国などど考えているようでありますが、
それは断して正しくないのであります
なる程数多い植民地の中には、劣等なる民族の居住するものもあります、
□えば南洋諸植民地中のボルネオ、ニューギネア等はその例であります、
即ち、ボルネオにはインドネシアン族に属する首狩の習慣を有する民族が主として居住しているので
あります、(我台湾の生蕃およびフイリッビン群島中ルゾン島の北部に住するイゴロテス族もまたこの種
に属す)ニューギネアは一名バブア島と申しますがこれ即ちバプアン族が生存するからであります、
しかして彼等は食人種であります、しかしこれ等は即ち世界植民地中の一部に過ぎない、

インドは御承知の通り英国の植民地でありますがここには数千年来燦然たる文化を有する
ヒンズー族が住んで居るではありませんか、
しかして彼等の中から世界三大宗の一なる最も哲学的な仏が発生したことは、
諸君の御承知の通りであります。カナダも南阿連邦も濠洲も皆英国の植民地であります、

しかしてその居住する民族の殆ど総ては文明国人であります。それですから植民地を以て一概に
劣等民族の居住する邦土なりと見做すこと能わざるは極めて明瞭なる事実であります。

又植民地とは毋国に利益を提供すべき国又はもう少し言葉を強めていえば毋国の搾取に甘んずべき
運命を有する国となすも、大なる誤りであります。
勿論そういう意味に植民地を考えた時代もありました。
即ち十六七世紀におけるスベイン又はポルトガルの植民運動は大体それであります。
また近世におきましてもオランダはその東インド諸島から莫大なる貢賦金を徴して、
ナポレオン戦争以後における国債を返還したこともあります。
しかし今日においては如何なる植民国もさような搾取政策を採用するものはありません。
毋国の資本は植民地開発のために投資され、毋国民は或は智力或は労力の欠乏を補うために
植民地に移住致しますけれども、
其目的は共存共栄であり畢竟するに植民地の幸福の増進であります

毋国と植民地間に行わるる特恵関税の如きも□た共存共栄主義の実現であります
試みに我台湾を御覧なさい。
明治二十八年の改隷当時においては台湾人の多くは日本は台湾の富を
搾取するものとして毋国人の移住又は投資について大なる不安を感じたのであります。

然るに政府は明治二十九年より同四十二年迄に
合計三千七百四十八万八千七百五十九円の行政費補充金を支出する計画を建て、
行政の刷新、産業の奨励に従事したると、台湾人の勤勉と相まって
驚くべき成績を挙げ、明治三十八年を限り国庫補充金を辞するの進況に達し実際の補充金は
三千四十八万八千九十一円で済んだのであります。
(中略)

(四) 文明伸張

我国の植民運動

我国は、川氏が御委任を受て政治をとっていた約三百年間は、国を閉していたものですから、
国家として組織的の植民運動はこの間全くなかったことは申上げるまでもありません。
それですから、我国が世界の植民帝国圏内に中間入りをしたのは、極めて最近の事とあって、
具体的にいえば台湾の領有にはじまったのであります。

顧みれば欧洲列強の植民運動の動機は、英国のルーカスがいえる如く
(一)企業に対する愛着心、(三)富に対する慾望、(三)社会的又は政治的不満、(四)宗教宣伝の四に
発して、順序として探険征服、移住又は資本投下と進展して、遂には領土権の確立におよんで
完了するのであります。
然るに我国の植民運動は全くこれとその赴趣をことにしていることを注意せねばなりません。
即ち、台湾が我国の版図に帰せるは、朝鮮問題を中心として起こった日戦争の結果でありまして、

戦勝国たる我国はその当時の国際的慣例によって是認されていた領土の割譲を戦敗国から
受けたのであります。

我国が領土の拡張を目的として日戦争に従事したのでないことは天下の承認するところであります。
更に南樺太を明治三十七八年役の結果として獲得致しましたが、これも国家の生存と東洋の平和を
脅かした露国に対して、国運を賭して戦い、遂に戦勝を得ました結果として割譲を受けたのであります。

即ち、表面上から見れば台湾の割譲を受けたのと同様でありますが実は大なる相異でこれは割譲を
受けたというよりも寧ろ回復したという方が適当であります。
御承知の通り樺太は明治の初年に名目は千島と交換したことになっておりますが、事実はその当時
勢力なお微弱なりし我国は露国の圧迫によって、不本意ながらも手離すことのやむなきに至ったもの
で現に樺太における戦いはこれを回復戦と称し、当時の司令官原口少将が、樺太の旧部ルイコフ―
露領北樺太にありで戦勝祝賀会を挙げた席上に於ても回復を祝する旨演説されているのであります。

一般国民の感情もまた露国に割譲せしめたと思うよりも、寧ろ回復したと思っているのであります、
否寧ろ我国のアルサス、ローレンの半分が現にサガレーン島という名で露国の手中に残っていると
思って居るのであります。

しかしこの北樺太も今日では主として我国民の手で資源が開発されていることは、不満足ながら
よろこびとする所であります。

その次ぎに日本の版図に附加されたものは朝鮮でありますが、これは併合の詔書にも明かなる如く
全然東洋大局の平和維持を目的としたものであります。
而してこれはただに両国政府当局者の間に決行されたものでなく、朝鮮においては当時の大政鴬で
あった一進会は、自ら進んで韓国皇帝及びその政府並に日本政府に対し、
両国の併合がただに両国民の幸福と発展のためのみならず、また東洋平和の維持のために最も
適当なる処置なるを建白して与論をうごかした結果であります、

それから赤道以北に散在する旧独領の南洋諸島で、これは今日連盟規約中に規定するC式形式に
よって我国に統治を委任されているのでありますが、これとても我国が当時存在した日英向盟条約
の義務を履行せんがために大戦に参加し、しかしてバリーの平和会議において
関係列国の承認の下に統治を引受けたものに過ぎないのであります、

かくの如くして我国が植民帝国圏内に入りましたが、そこには何等侵略臭味のなかったことは前述せる
事実の明瞭に証明している所であります。

外国人は動もすれば我国民を以て好戦国民となし、国民中にはそれを肯定しているものもあるようで
あるが、これは大なる誤りであります。
世界各国の歴史中果して三百年間太平を謳歌した国民は、我日本国民を除いて何処にありましょうか、
この一事を以てしても日本国民は平和の好愛者であることは明瞭であります、
日本国民は明治、大正年間における数次の外国との戦いに於て、驚くべき勇気を示し、常勝の名声を
博したことは事実である。
しかしながら勇気のあるもの、勝和を博せるものを必ずしも好戦者とは申されますまい。

数次の戦いに常勝のほまれを得たのは結局、開戦の理由が正しかったからであります。
かえりみてやましからざれば千万人といえどもわれ行かん、真の勇気は即ちここに発するのであります。

前述せる如く我国の植民帝国圏内に入れるは、仰俯天地に恥る所なき公明正大の理由からであります。
われ等は、国家の光栄ある過去を顧み、
将来の統治においてもその名をけがざざんことを努むべきであります。
(中略)

我国植民地統治の理想

我国の植民地統治の理想は、旧来の国民と新附の民との間に何等の差別を設けぬということ
換言すれば視向仁そのものであります
これを朝鮮の場合に見れば、即ち内鮮一家渾然として融かするという所に理想があるのであります。
欧洲諸国の取来たれる植民政策を見ればねフランスが長くその植民地に試み、
しかも失敗の歴史を残して終ったものに同化政策即ちアッシミレーションなるものがあります。

私の唱える渾然融和ということは決してこのアッシミレーションではありまん。
英語でいえばアマルガメーションであります即ち昔日本々土において幾多の異民族が混淆融和して
大和民族をつくり、東洋において特殊の歴史と文化を創造した如く、帝国領土内の民族が
更に混淆融和し大大和民族をつくって帝国の文化を発揚することがわれ等の理想であります

而してこの理想を実現すべき根本義は新旧民族間における同情と敬愛の念ただそれのみであります。
われ等枝葉の議論はしばらくこれを措きまずその根本義に対して互いに熟慮せねばならぬことと
信ずるのであります。長時間にわたって御聴を煩はし感謝に堪えません。


データ作成:2008.5 神戸大学附属図書館

北伐と山東出兵

孫文により建国された中華民国は軍閥争いの中にあった。
日本が租借していた満州は張作霖が統治していた。
この張作霖に対して蒋介石が出兵した。

田中義一内閣が成立したそのすぐ翌月、支那の山東半島へ出兵しなければならない事態が生じた。

蒋介石の北伐軍(国民革命軍)に張作霖の軍が各所で敗れ、三東軍も敗退し、山東半島が戦場に巻き込まれる危険が増大した。山東地方(青島、済南など)には日本人が2万4000人以上居留しており、投資額も莫大だった。南京事件漢口事件での被害もあり、日本としては放っておくわけにはいかない。

田中義一首相(兼外相)と森恪つとむ)外務次官は、軟弱外交を展開した幣原喜重郎とは異なり、長年の合法的権益を犠牲にすることを好まなかった。森恪は大正初期から三井物産の社員として支那に長く滞在し、支那の無政府状態や、支那軍の略奪習慣を熟知していた。南京事件の被害者たちの代表は森と何度も会って被害者救済のための陳情を行なっていた。被害者たちは幣原の軟弱外交を批判し、積極的な対支那外交を望んだ。対支那積極外交は彼ら国民の声だったのだ。

田中内閣は出兵して居留民の生命・財産を守ることを考えたが慎重だった。イギリスをはじめとして、アメリカ、フランス、イタリアの諸国からも反対がないことを確かめると、昭和2年(1927)5月28日に三東に出兵した

この10日後くらいにはイギリスもアメリカもフランスも軍隊を派遣した。現在の状況に置き換えるならば国連軍の派兵に類比しうる行動といえる。出兵は北京政府、武漢政府南京政府の三政府(当時の支那は主な政府だけで3つもあったのだ)にきちんと理由を通達した上で行なったが、三政府ともこれに抗議した。このあたりから、支那全土で激しい反日・侮日運動が繰り広げられるようになる。

やがて、支那大陸では状況が一変する。蒋介石の北伐軍(国民革命軍)が、北方軍閥軍との会戦に敗れて一挙に揚子江南岸まで退いたため、山東地方が戦場になる危険がなくなった。そのため内地から派遣された日本軍は9月初旬に帰還した。結局は約3ヶ月半の出兵となった。

今回の北伐に失敗した蒋介石は北伐を一度中断するが、翌1928年に北伐を再会(第二次北伐)し、怒涛の快進撃を続ける。出典

このように日本人の撤収は速やかだったが、日本出兵と共に起こった反日運動と日本製品ボイコット運動は全支那大陸に広まった支那の排外運動は日本にそのターゲットが集中していく
この昭和2年(1927)年ごろが日本にとっての歴史の最も重大な曲がり角だった。
それは北支那満州にも及びつつあった。この背景には、アメリカの反日運動が連動していたのと、元来は日本が好意を示していた張作霖が反日の姿勢を示し始めていたからである。満州にも、ソ連からの共産党の影響が入り込み、反日・排日運動を支持していたのだ。

上海クーデター
北京の支配者・張作霖はソ連大使館を捜索、潜伏していた支那共産党員多数を逮捕、共産革命工作の秘密指令などの証拠書類を押収し、共産党員20名を処刑した。これによって南京事件がスターリンの世界赤化政策によって発生したことが明らかになった
そして上海でもボロジンの指導で赤い「市民政府」が組織され、共産党による恐怖政治が進行していた。
ここにおいて蒋介石は反共意思を固め、4月12日、上海において共産党勢力の大粛清(共産党員の処刑)を断行した。
そして、直ちに南京政府を樹立した。

昭和二年

1927
1927年(昭和2年)の社会
【出版】
何が彼女をさうさせたか(藤森成吉)
 赤穂浪士(大仏次郎)
 河童・或阿呆の一生 (芥川龍之介)
02.04芥川竜之介、小説「蜃気楼」を脱稿
03.05 新潮社、「世界文学全集」(全57巻)刊行開始 予約殺到
05.14 東京日日新聞で大佛次郎「赤穂浪士」の連載を開始
10.15 大阪毎日新聞で林不忘「新版大岡政談」連載を開始(丹下左膳が登場)
12.01 主婦之友、「オギノ式避妊法」を掲載し話題に

【世相】 
 出生人口急減  家出若者急増  世界カゼ大流行
 マッチラベルの収集流行
 アメリカザリガニ初輸入
 米から青い目の「人形大使」来日
 新宿中村屋、日本初「純インド式カリーライス」紹介
 消防署通報電話112⇒119番に
03.03 日本青年会「青い目の人形」歓迎会開催
03.05中吊広告始まる(中央線・山手線・京浜線)
04.20 井コノ理学博士誕生(女性初の博士)
07.22 宇和島で、の40.2度を記録
 1933.7.25 山形で、40.8度を記録
07.24 芥川龍之介(35)自殺
08.02 警視庁、カフェー手入れ モダンボーイ、モダンガール、150人を検挙
11.03明治節で明治神宮参拝者、昼50万夜30万人超える
01.05 東西の相撲協会が合併、日本大角力協会を結成 初場所は、大阪横綱宮城山が優勝
05.28 第1回全日本オープンゴルフ選手権大会開催
07.29 ニューヨークのベルビュー病院に世界初の人工呼吸装置(鉄の肺)を設置
08.03 第1回全国都市対抗野球大会開催(神宮球場)
09.01 宝塚歌劇団、日本初のレビュー
「「モン・パリ」を初演
09.29 大リーグで、ヤンキースのベーブ・ルース、60本塁打の大記録を樹立
12.04 デューク・エリントン、白人専用クラブ「コットン・クラブ」出演契約を締結
【洋画】
サンライズ(Sunrise: A Song of Two Humans) 9.23 アメリカ 監督:F・W・ムルナウ 出演:ジャネット・ゲイナー ジョージ・オブライエン 
 暗黒街(Underworld) 8.20 アメリカ  監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
 メトロポリス(Metropolis) 1.10 ドイツ 監督:フリッツ・ラング 
 ジャズ・シンガー 10.6 アメリカ 世界初のトーキー 監督:アラン・クロスランド
つばさ(Wings) 8.13 アメリカ
 第1回アカデミー賞最優秀作品賞を受賞した唯一のサイレント映画 
監督:ウィリアム・A・ウェルマン出演:クララ・ボウ
【邦画】
寂しき乱暴者 2.25 監督:五所平之助 製作:松竹キネマ(蒲田撮影所) 
 忠次旅日記 甲州殺陣篇 3.10 
 製作:日活(大将軍撮影所)
監督:伊藤大輔 出演:大河内伝次郎 
 彼を繞る五人の女 3.18 監督:阿部豊 製作:日活(大将軍撮影所) 
出演:岡田時彦 岡田嘉子
 稚児の剣法 3.19 監督:犬塚稔 
  製作:衣笠映画聯盟 松竹キネマ(下加茂撮影所)撮影:円谷英一
  (円谷プロ創始者)
 鞍馬天狗異聞 角兵衛獅子 4.29  製作:マキノプロダクション(御室撮影所)監督:曽根純三 原作:大仏次郎 出演:嵐長三郎(鞍馬天狗役)
 万花地獄 第一篇 5.6 第二篇 6.10 第三篇 7.8 第四篇 9.23 第五篇 1928.3.1 監督:中島宝三 製作:マキノプロダクション(御室撮影所) 原作:吉川英治 出演:片岡千恵蔵 
からくり娘 6.15 監督五所平之助
 製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)    
懺悔の刃 10.14監督:小津安二郎
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)    
【流行歌】
赤蜻蛉(赤とんぼ) 作詞:三木露風 作曲:山田耕筰
汽車ポッポ 作詞:本居長世 作曲:本居長世
どん底の歌 ロシア民謡 作詞:ゴーリキ訳詩:小山内薫
モン・パリ 作詞:岸田辰彌 作曲:ボワイエ・スコット 歌:宝塚歌劇団
【流行語】
モガ モボ シャン マルクスボーイ どん底 何が彼女をさうさせたか 大衆 青い目のお人形 イット おらが大将 世界カゼ 恋の逃避行 モン・パリ


1927年(昭和2年)の経済1927年(昭和2年)の政治

小田原急行電鉄開通
創立:
 日本ビクター株式会社(米ビクタートーキングマシンカンパニーの日本法人として横浜に設立)  1.22 
日本ポリドール蓄音機 5.10
 パン・アメリカン航空会社 3.14
01.17 日本ゼネラル・モータース設立
01.22
田辺茂一新宿に紀伊國屋書店を創業

01.06 味の素、ガラス製食卓容器詰の広告 
 江崎グリコ、豆玩具「オマケ」を創案

03.15 取り付け騒ぎ
 金融恐慌勃発
03.21
 日銀、市中銀行に対して非常貸出を実施
02.26 大阪市営乗合自動車「銀バス」が営業を開始
03.07 北丹後地震(M7.3) 3.589人死亡
03.31 村山貯水池(多摩湖)完成
04.07
 ニューヨークで、初のテレビ公開実験
04.18 日銀総裁、財界動揺防止の声明
04.18 台湾銀行、在台湾店舗を除き全店休業 取り付け激化
04.21 全国的に銀行取り付けが激化し、多数の銀行が休業
04.22 3週間のモラトリアム(支払猶予令)が施行され、全国の銀行が一斉に休業
05.21
 米のリンドバーグ、大西洋無着陸横断飛行に成功(ニューヨーク~パリ33時間29分)
06.28
英で、労働組合法成立
創刊: 岩波文庫(岩波書店) 7.10
(株)日本蓄音器商会(のちのコロムビアミュージックエンタテインメント株式会社)、 国内プレスによるコロムビア洋楽レコード(黒盤)発売
パブロン(大正製薬)
 サイコロキャラメル(明治製薬)
07.23 川崎造船所、金融恐慌による経営難のため3037人の解雇を発表
物価:カレーライス 10銭
08.05 聖橋開通
08.28 東横線全通
8.31京阪電鉄日本初ロマンスカー運行開始

09.16 野田醤油、長期ストライキに突入(戦前の最長ストライキ)
09.26 米で、CBS放送設立

10.20 早稲田大学大隈講堂落成

12.30 日本初の地下鉄「銀座線」開通(浅草~上野)
イラクのキルクークでアラブ初の油田発見
【ラジオ】
02.24 ラジオ歌劇第1回放送 出演:田谷力三
08.13 NHK、全国中等学校野球大会実況中継を初放送
12.31 NHK、上野寛永寺「除夜の鐘」を初放送
【没】
ナウマン(72歳 2.1)
芥川龍之介(35歳7.24)
ウジェーヌ・アジェ(70歳 8.4)
イサドラ・ダンカン(50歳 9.14)
徳富蘆花(58歳 9.18
01.04
 秩父宮雍仁、500体の「青い目の人形」とともにサンフランシスコを出港
02.07
 正天皇の「大喪の礼」
03.14
 衆議院予算委員会で片岡蔵相が渡されたメモを見て、「本日正午ごろ東京渡辺銀行が破綻した」と発言
 この時点では破綻していたわけではなく、連絡ミス

03.24南京事件
蒋介石軍による日本領事館襲撃 幣原外交批判起こる
04.05
 花柳病予防法公布
 性病診療機関設置
04.06 上海クーデター
04.17
 倒産した鈴木商店に不良貸し付けをしていた台湾銀行救済を目的とした台湾銀行緊急救済勅令案が
 枢密院で否決され、若槻内閣総辞職
04.20 田中義一内閣成立

05.28 第1次山東出兵

06.01
 憲政会と政友会が合同し、立憲民政党を結成
 総裁:浜口雄幸 副総裁:若槻礼次郎
06.20 アムンゼン来日
 06.22 天皇に謁見
06.27
田中義一内閣、東方会議を開催




07.15 モスクワのコミンテルン、「日本問題に関する決議」(27年テーゼ)を決定
 福本イズムと山川イズムを批判 君主制廃止を主張






11月 田中・蒋介石会談
国民党統一の条件により国民革命軍総司令を辞職し、下野した蒋介石は、日本に来て田中義一首相と会談した後、帰国した。














歴史認識を考えてみる(16-2)

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凄惨な時代~蒋介石軍の北伐2と張作霖爆殺
              昭和3年
の世界

野口英世済南事件張作霖爆殺事件パリ不戦条約衆議院普通選挙/暗黒街とベン・ハーとミッキーマウス/北伐の終わり

左側は北伐経路。背景は台湾銀行、右側は馬賊とその頭領になった日本人辺見勇彦。(明治末期に活躍)
下は左から馬賊出身の張作霖、息子の張学良、右端は蒋介石。(年表は次回に)

1928
昭和初期

蒋介石は昭和3年(1928)4月、再び国民革命軍総司令に返り咲き、北伐を再会した。最終的な討伐対象は、当時、北京を支配していた張作霖である。


北伐再開(第二次北伐)後、4月中旬には早くも国民革命軍(北伐軍、南軍)は山東省の首都・済南を包囲する態勢になった。済南には邦人が1810人(うち女性829人)いたが、第二の南京事件が起こる危険性が出てきた。南京事件(1927年)

山東省の済南城には、北軍が撤兵すると蒋介石国民革命軍(北伐軍)が入城してきた。北伐軍には南京事件という悪行の前例があるため、
現地からの出兵要請を受けた田中義一首相は熟慮の結果、4月下旬、済南に出兵を行なった。出兵そのものに対してはアメリカなどは歓迎していた。アメリカ人の保護がなされるという理由からである。

日本は済南に軍隊を送り(第二次山東出兵)、守備地区を設けて居留民保護の体勢をとった。

しかし、案の定、南軍が入ると同時に、日本国旗侮辱や反日ビラ貼付などを行い、市内は緊迫の様相を呈した。
これに対し、南軍総司令である蒋介石より日本軍に対して「治安は北伐軍が責任を持って確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去してほしい」との要請があった。日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。

ここで恐ろしい虐殺事件・済南事件が発生する。出典

済南事件(さいなんじけん)は1928年昭和3)5月3日中国山東省済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。

事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。

衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかったことに感謝していた。

岩崎芳夫によると、蒋介石は後にこの事件を日本軍による北伐の妨害であったと非難したとされている[1]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%88%E5%8D%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6

反日プロパガンダの始まり

この事件後、支那側は「外交官虐殺事件」なるものを作り上げた。済南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、日本側が全員射殺する出来事があったが、そこにたまたま国民党の外交官がいた。ただそれだけの話だが、これを支那側は「日本が外交官を虐殺した」と宣伝し、、排日感情を煽る材料にした。

中華人民共和国(支那共産党)は例によって例のごとくこの事件を歪曲し、反日運動に利用している。支那共産党の公式見解では「済南事件は北伐妨害のために日本人が起こした」となっており、5月3日を「国恥記念日」としている。日本の防御撤去は蒋介石の要請であることを忘れ、蒋介石の言葉を信じた日本側の善意を悪意にすり替えている。とにかく支那は嘘をついてでも自分が有利になるように宣伝するのである。

あきれたことに日本の広辞苑(岩波出版)は日本軍が市民を殺傷したかのごとく記述をしている。

日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。

  ハーグ陸戦条約
  「交戦者」の要件

このあたりから、日本人の中にあった「このままいけば、北伐は北京では終わらない。日本の生命線―満州の権益にもおよんでくる」という危機感が高まってくる。そんなとき、翌月の6月4日、張作霖爆殺事件が起こる。出典

さらに、この事件の検死画像は731部隊の画像として転用されているようです。
http://brain.exblog.jp/2809948
小さい画像で転載します。
(画像クリックで拡大)

「済南事件で殺された日本人の写真」が「731部隊の被害者」として中国の教科書に掲載


■日本人が虐殺された済南(せいなん)事件とは、1928年(日中が戦争をする9年前)に発生した中国居留の日本民間人に対する中国兵による虐殺事件

■検死記録(中国政府も同席し確認
 東条きん(女性・24歳)
 両腕を帯で後手に縛られて顔面、胸部、乳房に刺創。助骨折損。陰部に棒をさしこまれていた。
東条きん氏と思われる検死写真1

※検死記録と完全に一致
※済南病院で1928年5月に撮影(山東省動乱記念写真帖)
■犠牲者の検死写真2

*写真1と医師も助手も場所も同じようだ

要は、「731部隊の人体実験」だという説明の根拠は見つかっていない。
しかし「済南事件の被害者を日本人医師が検死している」というのには上記の根拠がある。
しかしコレを中国人は「日本軍による人体実験の犠牲者」として
国家を上げて捏造・宣伝
中国系アメリカ人女史アイリス・チャンの著書「レイプ・オブ・ナンキン」の写真
中国の歴史教科書にも掲載(翻訳版)
731部隊記念館では蝋人形になって展示

東条弥太郎 両手を縛られて地上を引きずられた形跡。頭骨破砕。小脳露出。眼球突出
鍋田銀次郎 左脇腹から右脇に貫通銃創
井上国太郎 顔面破砕。両眼を摘出して石をつめる
宮本直八 胸部貫通銃創、肩に刺創数カ所。頭部に鈍刀による切創。陰茎切除
多比良貞一 頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創。腹部を切り裂かれて小腸露出
中里重太郎 顔面壊滅。頭骨粉砕。身体に無数の刺創。右肺貫通銃創
高熊うめ 助骨折損、右眼球突出。全身火傷。左脚の膝から下が脱 落。右脚の白足袋で婦人と判明した
藤井小次郎 頭および顔の皮をはがれ、眼球摘出。内臓露出。陰茎切除
斎藤辰雄 顔面に刺創。地上を引きずられたらしく全身に擦創
(転載ここまで)

1937年に同じように日本人居留区を襲撃された通州事件の画像が、日本軍の南京入場に転用された
ことも合わせて考えると、「心を攻めることを上策とする」孔明の戦術を悪転用しているのでしょう。
従軍慰安婦の強制連行説などと共に、噓は安上がりで効果の高い戦術といえます。

関東軍はなぜ張作霖を爆殺したのか

1928年以前にも関東軍は張作霖暗殺を独自に企てているので、満州統治について日本政府とは異なった考えがあったようです。

背景

馬賊出身の張作霖は、日露戦争で協力したため日本の庇護を受け、日本の関東軍による支援の下、段芝貴失脚させて満洲での実効支配を確立、有力な軍閥指導者になっていた。
張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、1918年(大正7年)3月、段祺瑞内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。1920年8月、安直戦争の際には直隷派を支援して勝利するが間もなく直隷派と対立。1922年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張は東三省の独立を宣言し、日本との関係改善を声明した。鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった[3]
第一次国共合作1924年)当時の諸外国の支援方針は、主に次の通りであった。

イメージ 1

1925年の中国。黄緑と薄緑が直隷派の支配地域
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E9%9A%B7%E6%B4%BE
1924年(大正13年)の第二次奉直戦争では、馮玉祥の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。1925年11月22日、最も信頼していた部下の郭松齢が叛旗を翻し、張は窮地に陥った。関東軍の支援で虎口を脱することができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。郭の叛乱は馮玉祥の教唆によるもので、馮の背後にはソ連がいたため、張作霖は呉佩孚と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした[3]1927年4月には北京のソビエト連邦大使館を襲撃し中華民国とソ連の国交は断絶。
国民党の北伐で直隷派が壊滅(1926年)した後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリスフランスドイツアメリカなど)の支援を得るため、日本から欧米寄りの姿勢に転換。権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていた米国が積極的に張作霖を支援。
同時期、国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、1927年4月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石中国共産党員とその同調者の一部労働者を粛清し、国共合作が崩壊。北伐の継続は不可能となったが、この粛清以降、蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。
1926年12月、ライバル達が続々と倒れていったため、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。大元帥就任後の張作霖は、更に反共反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとし[4]、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。この当時の支援方針は次の通りである。
  • 奉天軍(張作霖) ← 欧米・日本
  • 国民党
  • 中国共産党 ← ソ連

満洲における張作霖の声望は低下し民心は離反した。「今日のごとき軍閥の苛政にはとうてい堪えることはできない。……この不平は至るところに満ちており、この傾向は郭松齢事件以後、今日ではさらに濃厚になっている」と奉天東北大学教授らは述べている。奉天政府の財政は破綻の危機に瀕しており、1926年の歳出に占める軍事費の比率は97%で、収支は赤字であった。張政権は不換紙幣を濫発し、1917年には邦貨100円に対し奉天紙幣110元だったのが、1925年には490元、1927年には4300元に暴落した[3]

1928年4月、蒋介石は欧米の支援を得て、再度の北伐をおこなう。 この当時の支援方針は次のような構図に変化していた。
  • 奉天軍(張作霖)
  • 国民党 ← 欧米
  • 共産党 ← ソ連
当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発した。蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。
また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止された。
1928年、以下のような記事が新聞発表された。
電報 昭和3年6月1日参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官第47号5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約締の結すべきを命ぜり一.北京政府は日本に対し山東本島の99年の租借を許し二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し三.尚日本は満洲に於ける鉄道の施設権の占有を受く
1928年6月4日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は、北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)へ列車で移動する。この時、日本側の対応として意見が分かれる。
陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
  • 関東軍
軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針を打ち出した。
4月19日、北伐が再開されると、日本は居留民保護のために第二次山東出兵を決定し、5月3日済南事件が起こった。さらに日本は、満洲から混成第28旅団を山東に派遣し、代わりに朝鮮の混成第40旅団を満洲に派遣した。5月16日、もし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した[3]

5月18日、アメリカから「日本は満洲に対して何らかの積極的行動に出るのではないか、もしそうなら事前にアメリカにその内容を示してほしい」という要求があり、また19日には、アメリカのケロッグ国務長官が記者団に対し、「満州は中華民国の領土である」とし、同国の領土保全を定めた九カ国条約を提示した。のちにケロッグ国務長官は、日本を非難したように曲解されたことは非常に遺憾である旨を松平恒雄駐米大使に述べた。斉藤恒関東軍参謀長の日記によると、24日、アメリカ公使が芳沢謙吉公使に、日本独力にて満洲の治安維持を為さんとするとせば重大なる結果を来す、と告げた[3]

5月20日から関係当局の会議が開かれ、25日にようやく既定方針で進むことが決定されたが、有田八郎アジア局長と阿部信行軍務局長腰越の別荘にいた田中首相に決裁を求めると、田中首相は「まだええだろう」と答え、関東軍宛てに「錦州出動予定中止」が打電された。河本大作は「松平駐米大使からの報告に基づいて、田中首相がアメリカの輿論に気兼ねをし、既定の方針の敢行をためらった」と発言し、石原莞爾中佐は「出淵(松平の誤り)の電報一本で参謀本部が腰を抜かしたのだ」と語ったという[3]

村岡長太郎関東軍司令官は国民党軍の北伐による混乱の余波を防ぐためには、奉天軍の武装解除および張作霖の下野が必要と考え、関東軍を錦州まで派遣することを軍中央部に強く要請していたが、最終的に田中首相は出兵を認めないことを決定した。そこで村岡司令官は張作霖の暗殺を決意した。河本大作大佐は初め村岡司令官の発意に反対したが、のちに独自全責任をもって決行したという。

河本大作を満洲に送り込んだのは一夕会の画策であったと土橋勇逸は証言している[5]

毛沢東伝の「マオ」によると「コミンテルンの謀略」としており、異説を唱える人も多い。 東京裁判では河本大作は証言に呼ばれていない。 渡部昇一氏もその後ソ連の解体から出た資料から、コミンテルンメンバーが実施した資料が出てきているとし、この説をとっている。 また爆破写真を見ても貨車の天井が飛んでいるので、自分が内部から爆破したというコミンテルンのメンバーの証言の方が信憑性が高い。


列車爆破

張作霖が乗車していた列車

1928年(昭和3年)6月4日の早朝、蒋介石の率いる北伐軍との決戦を断念して満洲へ引き上げる途上にいた張作霖の乗る特別列車が、奉天(瀋陽)近郊、皇姑屯(こうことん)の京奉線(けいほうせん)と満鉄連長線の立体交差地点を時速10km程で通過中、上方を通る満鉄線の橋脚に仕掛けられていた黄色火薬300キロが爆発した。列車は大破炎上し、交差していた鉄橋も崩落した。

張作霖は両手両足を吹き飛ばされた。現場で虫の息ながら「日本軍がやった」と言い遺したという。奉天城内の統帥府にかつぎこまれたときには絶命していたが、関東軍に新政府を作らせまいと6月21日に発表した。


また警備、側近ら17名が死亡した。同列車には張作霖の元に日本から派遣された軍事顧問儀我誠也少佐も同乗していたがかすり傷程度で難を逃れた。事件直後に張作霖配下の荒木五郎奉天警備司令に激怒した話が伝わっている[6]
張作霖の私的軍事顧問で予備役大佐の町野武馬は張作霖に要請されて同道したが、天津で下車した。また
山東省督軍の張宗昌将軍も天津で下車した。常蔭槐は先行列車に乗り換えた。

車両に乗車していた奉天軍側警備と線路を守っていた奉天軍兵士は爆発の直後やたらと発砲し始めたが日本人将校の指示によって落ち着き、射撃を中止した[7]

同乗していた儀我が事件直後に語ったところによると、列車は全部で20輌であり、張作霖の乗っていたのは8輌目であったが[8]、爆破によりその前側車輌が大破し、先頭部の6輌は200メートル程走行して転覆し、列車の後半部は火災を起こした。

8輌目では張作霖の隣に呉俊陞、その次に儀我が座って会談していたが、呉が張と儀我に寒いからと勧めるので張は外套を着ようと立った瞬間に大爆音と同時にはね上げられ爆発物が頭上から降ってくるために儀我は直ちに列車から飛び降り、張は鼻柱と他にも軽症を負い護衛の兵に助けられて降りた。


近くに日本の国旗を立てている小屋があるので儀我は張にそこで休むことを勧めたがこの時には「何、大丈夫だ」と答えていた。やがて奉天軍憲兵司令が馬で到着し、現場は憲兵で警護され、自動車が到着すると張は自動車でその場を離れ、大師府に入った[9]


関東軍司令部では、国民党の犯行に見せ掛けて張作霖を暗殺する計画を、関東軍司令官村岡長太郎中将が発案、河本大作大佐が全責任を負って決行する。河本からの指示に基づき、6月4日早朝、爆薬の準備は、現場の守備担当であった独立守備隊第四中隊長の東宮鉄男大尉、同第二大隊付の神田泰之助中尉朝鮮軍から関東軍に派遣されていた桐原貞寿工兵中尉らが協力して行った。

現場指揮は、現場付近の鉄道警備を担当する独立守備隊の東宮鉄男大尉がとった。2人は張作霖が乗っていると思われる第二列車中央の貴賓車を狙って、独立守備隊の監視所から爆薬に点火した。そのため、爆風で上から鉄橋(南満洲鉄道所有)が崩落して客車が押しつぶされた上に炎上したものである。なお張作霖乗車の車両は貴賓車であり、かつては清朝末期に権勢を振るっていた西太后お召し列車として使用していたものだった[10]

河本らは、予め買収しておいた中国人アヘン中毒患者3名を現場近くに連れ出して銃剣で刺突、死体を放置し「犯行は蒋介石軍の便衣隊(ゲリラ)によるものである」と発表、この事件が国民党の工作隊によるものであるとの偽装工作を行っていた[11][12]
しかし3名のうち1名は死んだふりをして現場から逃亡し、張学良のもとに駆け込んで事情を話したため真相が中国側に伝わったのである。なお、張作霖の側近として同列車に同乗して事件で負傷した張景恵は後に満洲国国務総理大臣に就任している。

爆破事件の直接首謀者

  • 関東軍参謀 河本大作大佐(計画立案)
  • 奉天独立守備隊 東宮鉄男大尉(直接担当)
  • 朝鮮軍龍山の亀山工兵隊 桐原貞寿工兵中尉(爆弾設置工事等)

事後調査

爆破箇所における現場検証(交差していた鉄橋は崩落している)
林久治郎奉天総領事は6月4日の事件発生直後、内田五郎領事に対し、現場へ急行し奉天警察側との合同調査班を結成するよう命じた。内田は八ヶ代副領事らとともに、奉天交渉署関第一科長、安第三科長らとの合同現場検証チームを編成した。

日本と奉天軍閥の共同調査が行われ、爆発後に集めた破片から爆弾はロシア製と判断された[7]
事件当初から「日本軍の仕業」とする説が流布された。

当初は国民党の便衣兵による犯行であるとされたこと[13]、また現場は張作霖の通過ということで奉天軍側は前日に警備の交替を日本側に申し出て奉天軍閥兵士50名で張が利用する京奉鉄道側を守り[14]、日本軍は満洲鉄道側を警備していたため無関係との理解が得られ、日本に対する疑念は薄らいだ[15]

奉天軍閥側は事件の発生した場所が本来日本側の管理区域であることから日本側の責任を主張したが、日本側は奉天軍閥側が自ら求めて張の到着のために警備を行った点を主張した。6月15日には日中共同調査の報告書に調印されることとなっていたが、奉天軍閥側は折衝を重ねた経緯があるにも関わらず当日調印を拒否した[16]


日本側の記録には事件の際に外部の爆弾を用いて張作霖のいる車両のみならず、その場所まで特定して暗殺することは不可能であり、予め車両の天井部分に用意した爆弾を走行中に機関車からの電気配線を用いて爆破させた方法が実施されたとする根拠が記されている[17]

現場調査を行った民政党代議士松村謙三は、爆破に使用した電線が橋台から日本軍の監視所まで引き込まれていることを奉天軍閥側に指摘されて、「これで完全に参った」との記述を残している[18]

事件直後現場に行って、事件に関わった安達隆成から詳細な話を聞いた工藤鉄三郎(工藤忠。のち溥儀から「忠」名を与えられて改名)が急いで帰国し、小川平吉鉄道大臣に対し、口頭説明の後、書簡「奉天に於ける爆発事件の真相」でも説明し、田中首相にも口頭説明をした。

白川義則陸相がなかなか信じなかったため、
田中首相・小川鉄相・森恪外務政務次官が連携したとみられるが、「特別調査委員会」を設置し[17]、陸軍に調査を促した結果、峯憲兵司令官が派遣され調査し、現場で発見された「中国人2人」の死体は実は日本側の工作であったことなどが確認された。

工藤は、田中首相・小川鉄相・白川陸相・森次官のいずれとも関係があった人物であり、工藤の報告は田中内閣の実情調査・事実確認で決定的な意味をもった[19]。峯憲兵司令官も朝鮮にて桐原中尉を尋問、事件の主犯は河本大佐ら日本側軍人であるとの確証を得、その旨を田中首相に報告した。
(中略)

内田五郎領事の報告書[21]では、爆薬は、展望車後方部か食堂車前部の車内上部か、または橋脚鉄桁と石崖との間の空隙個所に装置されたものと認められる、とされている。さらに、松村謙三は、爆破の状況をみるに、上のガードの下に火薬を装充して爆破したものらしい、と述べている[22]

しかし、河本大作は線路脇の土嚢の土を火薬にすりかえたと証言しており[23]秦郁彦は、線路脇の資材置場に積んであった土嚢と黄色火薬詰めの麻袋と差し替えたとしており[24]、満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点としている[25]。また、松本清張は、満鉄路線脇の歩哨のトーチカに麻袋3個分の火薬がつめこまれたとしている[26]。さらに、相良俊輔は、陸橋の橋脚から15メートル手前の線路際に積んであった土嚢の土をのぞき、火薬をつめたとしている[27]

田中内閣総辞職

東京裁判関係資料から発見された「厳秘 内奏写」(栗谷憲太郎『東京裁判論』所収、大月書店)によれば、田中首相は昭和天皇にたいし同年12月24日「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、其計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と河本大佐の犯行を認めたうえで、関係者の処分を行う旨の上奏を行った。

しかし田中はその後、陸軍ならびに閣僚・重臣らの強い反対にあった。
白川義則陸相は三回にわたって天皇に関東軍に大きな問題はない旨を上奏し、陸軍は軍法会議開廷を回避して行政処分で済ませるため、5月14日付で河本高級参謀を内地へ異動させたので、河本をふくめた関係者の処分を断念。「この問題はうやむやに葬りたい」との上奏を行うこととなった。

6月27日、田中首相は「陸相が奏上いたしましたように関東軍は爆殺には無関係と判明致しましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分致します」と上奏した。
これに対し天皇は「それでは前と話が違ふではないか」と田中を叱責し、田中首相が恐懼し弁解をしようとしたが、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」と話す[28]

鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中は引責辞任の腹を決め、7月1日付で村岡長太郎関東軍司令官を依願予備役、河本大作陸軍歩兵大佐を停職、斉藤恒前関東軍参謀長を譴責、水町竹三満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、7月2日に田中内閣は総辞職した。

しかし、大佐クラスの独断で出来る規模の謀略ではなく関東軍司令官からの命令であったと言われていたにも係らず、河本は主な責任を問われ、1929年4月に予備役、第九師団司令部附となり金沢に講せられ、同年8月停職処分と言う形で軍を追われた。

易幟(えきし)

また、奉天軍閥を継いだ張作霖の息子・張学良も程なく真相を知って激怒し、国民政府と和解して日本と対抗する政策に転換。1928年12月29日朝、奉天城内外に一斉に青天白日満地紅旗が掲げられた(易幟)。結果、日本は満洲への影響力を弱める結果となった。これが後の満洲事変の背景の1つとなる。

易幟(えきし、簡体字標記:东北易帜)とは、1928年6月4日に発生した張作霖爆殺事件の後、父・張作霖の後を継いだ奉天派の張学良が、北洋政府が使用していた五色旗から、蒋介石率いる国民政府の旗である青天白日満地紅旗に旗を換え、国民政府に降伏した事件のことを指す。 1928年12月29日、国民政府はこれを受け入れた。 この易幟により、蒋介石の北伐は終了し、中国国民党が形式的に中国を統一した。

歴史認識を考えてみる(16-3)

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南米移民激増~不安と生活苦と恐慌と戦争
             満州事変前夜まで

野口英世済南事件張作霖爆殺事件パリ不戦条約衆議院普通選挙/暗黒街とベン・ハーとミッキーマウス/北伐の終わり

背景は朝鮮総督府、右側はブラジル移民募集ポスター、人物は野口英世
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1928年までの出来事

19世紀後半から20世紀初めにかけて、日本の対外的脅威は列強諸国のアジア侵略。特に帝政ロシアの南下でした。
1900年、義和団の事件に乗じてロシアが満州を占領すると、隣接する朝鮮半島が侵略されることを恐れた日本はイギリスとの日英同盟で対抗。
日露戦争(1904~5年)にかろうじて勝利した日本は、遼東半島と東清鉄道南部の租借権を確保するに至りました。
一方満州の地は、清王朝の帝室の聖地として漢民族の入部が禁止されていましたが、日清戦争後はこれが解禁となり辛亥革命後は満州に中国人や朝鮮人の 『移民』 が急激に増加するようになります。

特に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の3省)は日本の開発もあって目覚しい発展を遂げていました。
これに目をつけた袁世凱(清朝時代)は
1907年、腹心の徐世昌(後に段芝貴)を東三省総督にし、自軍の一部を送り込み東三省を勢力下におさめると共に、ロシア、日本などの権益を押さえ込もうと画策します。


1911年辛亥革命


1911年10月10日に発生した武昌起義から、1912年2月12日宣統帝(溥儀)の退位、

1912
年1月1日、孫文が南京で中華民国の建国宣言を行い、みずから臨時大総統に就任。
2月12日、宣統帝が退位し清朝が滅亡した。
翌日、孫文に代わって袁世凱が臨時大総統となる。
その経緯は
孫文は、中華民国の臨時大総統になった3週間後、清朝の総理大臣・袁世凱にこんな提案をしている。
 「(袁世凱が)清朝の皇帝を退位させてくれたら、大総統の地位を袁世凱に譲る」
 大義のためなら、私欲を捨てる、正しいとわかっていても、誰かれできることではない。
 

 袁世凱と孫文の密約は成立し、1912年2月12日、宣統帝は退位した。

 こうして、袁世凱の北京政府(北洋軍閥)と、孫文の南京政府(旧・中華民国)が合体し、新しい「中華民国」が成立した。
中国が再統一されたのである。そして、その頂点に立ったのが臨時大総統の袁世凱だった。
これを、「第一革命」とよんでいる。http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-191.htm
日本は国家としてこれを承認します。
ところが、、内情はとても国家として存続を続けたとはいえないものでした。

 中華民国が建国された後、1912年8月25日、孫文の中国同盟会が中心になって、「国民党」が結成された。党首は孫文で、ナンバー2は宋教仁である。ところが、実務を仕切ったのは宋教仁だった。
 宋教仁は、中国で「士大夫」とよばれる科挙(官僚)、地主、文人の三者を兼ね備えたエリートである。ところが、革命で科挙が廃止されたため、革命家に転身した。
宋教仁は、他の革命家同様、日本に亡命したことがあり、その時は法政大学で学んでいる。

 宋教仁と孫文は、ともに高い志をもつ革命家だったが、方法論に大きな違いがあった。
政治制度では、孫文は大総統制、宋教仁は議院内閣制。

最終的なよりどころは、孫文は「軍事力」、宋教仁は「法律」である。


 1912年12月の中国初の国会選挙では、宋教仁は徹底した多数派工作を展開した。結果、国民党を勝利に導いたのである。
そのままいけば、中国初、いやアジア初の議院内閣制の民主国家が誕生するはずだった。
 ところが ・・・
 1913年3月20日、宋教仁は上海駅で狙撃される。そして、2日後に死んだのである。

まだ、31歳の若さだった。 では、暗殺の首謀者は誰か? 袁世凱。 動機は?


 宋教仁が大総統制を廃止しようとしたから。

1913年孫文の武装蜂起

 そして、1913年7月、孫文は独裁を強める袁世凱に対し、武装蜂起する
これが、「第二革命」である。ところが、革命軍は北洋軍閥の軍によって簡単に鎮圧される。
1913年11月、袁世凱は「臨時大総統」を廃し、「大総統」に就任した。その後、孫文の国民党を解散させ、国民党員の議員資格まで剥奪した。さらに、国会そのものも解散してしまう。
この時点で、中華民国は共和制どころか、立憲君主制でもない、完全な独裁制に変質したのである。

そこで、孫文は国民党を解体し、1914年7月8日、東京で「中華革命党」を結成した。もっとも、党といっても、国会が存在しないので、政治結社にすぎないのだが。


 中華革命党は党首(総理)は孫文だったが、実務を取り仕切ったのは、陳其美(ちんきび)だった。

 陳其美は、辛亥革命のとき、南京占領に成功している。陳其美は中華民国建国の大功労者だった。その陳其美を師と仰いでいたのが蒋介石だった。この二人は全幅の信頼を寄せ合っており、それは生涯変わることがなかった。


 孫文が東京で「中華革命党」を立ち上げた後、陳其美は帰国し、袁世凱討伐を画策した。そして、上海で挙兵するも失敗。http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-191.htm

1915年二十一カ条要求と中華帝国と地方軍閥

 
いっぽう、第一次世界大戦が始まると日本はそんな苦しい立場の袁世凱に。。
1914年12月3日加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、
1915年大正4年)1月18日大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。
見返りは袁世凱政権の承認。(詳細は下の方で)


袁世凱は日本の二十一カ条要求に屈したため、反発が強まる。
そこで、袁世凱は大勝負に出る。
1915年12月12日、国号を「中華帝国」に改め、帝位に就いたのである(洪憲帝)。すべての権力を袁世凱一人に集中し、絶大な皇帝パワーで反乱分子を根絶やしにする ・・・

すると。
北京では学生デモが吹き荒れ、南方では、地方軍閥が次々と独立を宣言し、大混乱に陥ったのである。これが「第三革命」で、護国戦争ともよばれている。

 南方の地方軍閥「雲南派」は、雲南省で独立を宣言したが、事はそれでおさまらなかった。袁世凱討伐軍を編成し(護国軍)、北京に進軍させたのである。

 一方、袁世凱も曹コンを総司令官とする10万の北洋軍を派遣。ところが、四川省で護国軍に大敗。

その余勢を駆って、貴州省と広西省の地方軍閥まで独立宣言した。さらに、袁世凱を支える北洋軍閥内部にも離反者がでる始末だった。

 袁世凱、万事休す ・・・

1916年袁世凱後の北京政府と張作霖の満州

 1916年3月22日、袁世凱は帝位を退き、大総統にもどった。ところが、地方軍閥はそれでも納得しなかった。袁世凱が完全に退くことを求めたのである。その後、広東省、浙江省の軍閥までが独立を宣言、袁世凱は「徹底抗戦」か「完全退陣」かを迫られた。ところが、1916年6月6日、袁世凱は病死したのである。

(中略)

北京政府」の新体制が決まった。
【大総統】:黎元洪(傀儡)
【副総統】:馮国璋(北洋軍閥の長老)
【国務総理】:段祺瑞(北洋軍閥の実力者)http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-191.htm


1916年、袁世凱が死去すると満州出身の軍閥・張作霖は、東三省での勢力拡大を画策する日本に協力し、袁世凱の配下で総督の段芝貴を失脚させ、東三省全域を勢力下にすることに成功。


1917年ロシア革命/米、独に宣戦布告

1917年ロシア革命が起こりソビエト連邦が生まれると、共産勢力が広まることを恐れた日本はアメリカ、イギリス等の連合国とシベリアに共同出兵し、内政干渉を目論むも失敗。しかし、これによって満州の地は共産主義への防衛基地としての重要度が高まり、日本の生命線といわれるようになる。

これ以降、満州は日本をバックにする張作霖と、アメリカ、イギリスをバックにする呉佩孚(ご・はいふ)の戦いが展開される。張作霖が北京を制圧するがそこに蒋介石率いる国民党軍が侵攻(北伐)する。


 第一次世界大戦が始まった頃、中華民国(中国)は中立を守っていた。

ところが、1917年2月、ドイツがUボートによる無差別潜水艦攻撃を再開すると、アメリカはドイツと国交を断絶した。この時、中華民国も連合国側についての参戦すべし、と主張したのが段祺瑞で、それに反対したのが大総統の黎元洪だった。
 業を煮やした段祺瑞は、内閣総辞職して、黎元洪に圧力をかける。そこで、黎元洪は妥協して、
1917年3月14日、ドイツとの国交を断絶した。1917年4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告した。

 焦った段祺瑞は最終手段に打って出る。北洋軍閥内で息のかかった軍を使い、国会に圧力をかけた。もちろん、民主主義を逸脱する為、議員たちは猛反対した。

そこで、1917年5月23日、黎元洪は段祺瑞を罷免する。これで、議員たちはおさまるだろうし、中立も守れるし一石二鳥、というわけだ。

 ところが ・・・

 段祺瑞が下野するやいなや、北洋軍閥の督軍(省に属する地方軍)が続々と中華民国からの独立を宣言した。慌てた黎元洪は、北洋軍閥の中で参戦に反対する張勲(ちょうくん)に事態の収拾を依頼する。

1917年6月7日、張勲は軍を率いて、北京を制圧した。そこで、一件落着と思いきや ・・・

 翌日の6月8日、張勲は黎元洪に対して国会の解散を要求したのである。体のいいクーデターだが、力の背景のない黎元洪は呑むしかなかった。ところが、これがきっかけで、政局は想定外の方向に転がり出す。
 1917年7月1日、極保守派の張勲は、立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、なんと、清朝「宣統帝」を復位させたのである。
仰天した黎元洪は、罷免したばかりの段祺瑞と馮国璋に泣きつき、張勲の軍を追っ払うよう頼んだ。

そして、7月5日、段祺瑞を国務総理に戻し、7日には馮国璋を大総統代理に任命したのである。
 実権を取り戻した段祺瑞は北洋軍閥の軍団を率い張勲の軍を打ち破り、7月14日、悠々と北京に入城した。

段祺瑞との圧倒的な実力差を見せつけられた黎元洪は、意気消沈し、大総統を辞任、政治の第一線から退いた。ところが、事はそれでおさまらなかった。北洋軍閥が3つに大分裂したのである。

その後の北京政府は北洋軍閥を継承した軍閥(安徽派、直隷派、奉天派など)が対立、中華民国大総統はめまぐるしく交替、各地にも軍閥が自立し抗争が続いた。

それに対して孫文らは広東軍政府をつくって中国統一をめざす戦いを開始した。

1919年パリ講和条約


1919年、パリ講和会議が日本の山東半島権益の継承を認めると反発した学生と民衆が五・四運動を起こす。北京政府もやむなくヴェルサイユ条約調印を拒否(ただし後に調印、国際連盟にも加盟)した。

民族運動が活発となったことを受けて孫文は中国国民党を結成、

1921年中国共産党


1921年に結成された中国共産党との間で1924年には第1次国共合作を成立させた。次の課題は国共合作によって北京の軍閥政府を倒し、民族統一という国民革命を実現することであったが、
孫文はその前の1925年3月に死去した。

1924年第二次奉直戦争で張作霖北京制圧


1926年12月勝利した張作霖は北京で大元帥となり、中華民国の主権者であることを宣言。

1925年孫文死去、蒋介石が引き継ぐ


1925年5月には上海でストライキ中の中国労働者がイギリス警察に殺害されるという事件をきっかけに五・三〇運動が始まってナショナリズムが高揚し、それを受けた中国国民党は広東国民政府(広州国民政府)を成立させ、国民革命軍を組織して蔣介石がその司令官に任命された。
しかし最初国民党はアメリカやイギリスの支持を得られず、一時的に撤退。

1926年蒋介石、北伐開始(対張作霖)

1926~28年。中国国民党の蒋介石は1926年から「北伐」を開始した。北伐軍には共産党員も参加し、ソ連からの軍事顧問もついていたが、次第に蒋介石は共産党を排除するようになった。

1927年上海クーデターで共産党排除


上海などの民族資本家がその排除を要求したので北伐の途中の1927年、ついに蒋介石は上海クーデターで共産党を排除して「南京国民政府」を樹立、自ら主席となった。

1928年第二次北伐


一旦中断した北伐を再開し、1928年には北京に入場して軍閥政権を倒すことに成功した。北京から逃れた奉天軍閥の張作霖は日本の関東軍張作霖爆殺事件の謀略で殺害されたが、同年12月にはその子の張学良が中華民国支持を打ち出して易幟を行い、東三省も中華民国に帰順して、国民政府による中国統一が完成した。

04.20 第2次山東出兵を決定 第二次山東出兵
05.03 済南事件

日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。
  ハーグ陸戦条約
  「交戦者」の要件

 5月16日、日本はもし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した[3]
  • 1928年、以下のような記事が新聞発表された。

電報 昭和3年6月1日
参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
第47号

5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり

一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
三.尚日本は満州に於ける鉄道の施設権の占有を受く Wiki 満州事変より


1928年6月4日。
敗れた張作霖が北京から撤退する途中、奉天(瀋陽)駅から1キロの地点で、乗った列車が爆破され張作霖は死亡。張作霖爆殺事件
中国軍のしわざにしようとした関東軍の隠蔽工作はすぐばれて張作霖の子、張学良を中心に大規模な抗日運動が巻き起こる。 

これにより張作霖の息子の張学良が国民党軍側について北伐が終わります。

1928年 北伐後の中国


  統一なった中華民国の首都は南京と定まった。共産党を排除し、北伐を完成させたことによって、アメリカは蔣介石の南京国民党政府を中国の政府と承認し、1928年に関税自主権の回復を認める条約改正に応じた。
同年12月までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。日本は北伐から居留民を保護する口実で山東出兵を行い、済南事件で国民政府軍と衝突するという敵対関係にあったため、国民政府の承認、関税自主権の回復承認は1930年に持ち越された。http://www.y-history.net/appendix/wh1403-091.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90
イメージ 2

北伐後の中華民国の情勢藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配が強い領域。満州張学良奉天派支配地域山西省閻錫山山西派支配地域、陝西省寧夏等の北西部は馮玉祥西北派支配地域、広東省広西等の南部は李宗仁新広西派支配地域、雲南省竜雲雲南派支配地域

http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/manshu.htm

21箇条要求とパリ講和条約

第一次世界大戦が欧州で始まり、日本は第三回日英同盟協約により1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦した。参戦に際し日本政府はドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を8月15日に発し、その中で膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求した[1]。(中略)


欧州では第一次世界大戦が継続中であり、日本政府としてはドイツとの休戦・講和が成立するまで山東膠州湾のドイツ権益を占領する必要があり、膠済鉄道や青島税関は日本が戦時接収していた。軍事占領は権益の帰属を確定させるものではなく、日本政府が一方的に中華民国に返還した場合、戦争の推移や講和条件の如何によっては日本政府がドイツあるいは中華民国に対して山東の一方的返還について多額の賠償義務を負う可能性がある。


日本政府は袁世凱大統領と直接交渉することで事態の打開に動いた。
1914年12月3日加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、
1915年大正4年)1月18日大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった[8]
  • 第1号 山東省について
    • ドイツ山東省に持っていた権益を日本が継承すること
    • 山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
    • 芝罘または竜口膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
    • 山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
  • 第2号 南満州及び東部内蒙古について
    • 旅順大連関東州)の租借期限、満鉄安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
    • 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
    • 日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
    • 日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
    • 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
    • 政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
    • 吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
  • 第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
    • 漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
    • 漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
  • 第4号 中国の領土保全について
    • 沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと
  • 第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他

日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、アメリカとドイツは承認していなかった。



日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。

在中ドイツ系機関紙である北京ガゼットや独華日報は山東問題に関する袁世凱との直接交渉を攻撃しはじめ、20余紙はドイツの新任公使ヒンツェに買収されたなどと言われた[11]。排日派や宣教師らは日本軍の暴行を喧伝し日本軍の撤兵を要求した[12]とされる。


駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。

会談の初期、中国側は会議遷延策をとっていたが、2月6日には、第1号、第2号に関し十分に考慮し、第2号は吉長線に関することを除きできる限り譲歩すると返答した。ただ、第5号については応じられないという姿勢であった。

また中国側は、第2号の第2条と第3条は南満州についてだけ認め、東蒙古を除外しようとしたが、日本側は、東部内蒙古は、地理上南満州と分離できない一地域を形成し、歴史上、行政上、経済上ならびに交通上、互いに密接な関係を有しており、また1912年露蒙協定付属通商議定書において、第1条は「ロシア人は蒙古内において随所に居住し、自由に移転し、商工業その他の業務に従事できる」、第6条は「ロシア人は蒙古の随所で商工業上の経営所を創設し、諸家屋、店舗および倉庫を建設するため、指定地を賃借することができる」となっており、日本に対してこれと同じことを東蒙古で認めないのは到底承認できない、と主張した[10]

3月3日、日置公使は第6回会議で、「元来、革命の乱が勃発した当時、シナの大半は粉々としてあたかも鼎の沸くような情勢であったにもかかわらず、南満州と東部蒙古が乱離の禍から免れえたのは、まったく日本が何らの野心をも抱かないで、終始公明正大な態度を持し、努めてこの両地方の秩序維持に留意したことと、日本がこの方面において特殊の地位を保有していた結果にほかならない。もし万一、日本がこの機会に乗じてある種の行動をとった場合には、南満州も東蒙もあるいは今日の外蒙古と同様の運命に遭遇したかもわからない。ついては日本国のこの公明正大な心事とその優越する特殊地位に顧みて、中国政府は速やかに満蒙におけるわが優越なる地位を確認し、第2号から東蒙を除外する考えを翻してほしい」と述べた。


全権の陸徴祥外交総長は「革命の乱当時における事情、ならびに日本国の態度は、まことに貴説の通りである。これらの事情からして中国は、今回南満洲に関し条約締結の商議に応ずる次第である」と答えた[10]

5号条項は秘密・希望条項とされていたがただちにリークされ、報道は中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。
日本は5号条項を後に撤回した[13]。中国国内でも反対運動が起こったが、中国側に日本軍を実力で排除する力は無く、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。袁世凱は自己の地位を強固にするために、日本の横暴を内外に宣伝して中国国民の団結を訴えた。

中国国民はこれを非難し、要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と呼んだ。

3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。

自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた[10]


アメリカは、満洲における租借地と鉄道の租借期限延長に対しては、特別の反対はなかったが、山東省を満洲と同様な日本の勢力範囲とすることに対しては絶対反対であった。

イギリスも、満洲における租借地と鉄道の租借期限の延長には賛成協力したが、長城以南においては最大の競争相手と考える日本を強く警戒し、第5号案を同盟国にも秘密にしたことで不信感を強くし、武昌・九江間の鉄道、南昌・潮州間の鉄道に関する要求に対しては、イギリスの利益を侵害するものとして、3月10日に日本政府に考慮を求めた[14]


アメリカは3月15日に、日本の提案第1号と第2号とはこれを問題にする考えはないという書簡を送ってきたが、5月6日ブライアン国務長官は、英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議して、三国当局から拒絶されると、5月13日、中国の領土保全、門戸開放の原則、および中国におけるアメリカやアメリカ人の権利と抵触する条約・協定・了解はすべて、アメリカとして承認しない、と通告した。

5月7日、イギリスのグレイ外相は駐英井上勝之助大使に対し、「北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と述べ、また5月10日、「5月7日朝ジョルダン公使に電報して、日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、非公式に強い勧告を与えるよう訓令した」と述べた。
一方、ロシアマレヴィッチ大使は5月6日、「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」と加藤高明外相に述べた。さらに、日本の対華21カ条要求に対し特に異議のなかったフランスに、石井菊次郎大使が最後通牒の説明を行った際、デルカッセ仏外相は「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と述べた[10]

一方、孫文は3月中旬、外務省の小池張造に書簡を送り、日中盟約案として提案した。その内容は第五号の4、5、6条の趣旨に符合するものであった。まだ日本に期待していた孫文にとって、苦渋の選択だった。また、進歩派知識人の代表格であった吉野作造は「事ここに至れば最後通牒を発するの他にとるべき手段はない」と断じた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BE%E8%8F%AF21%E3%82%AB%E6%9D%A1%E8%A6%81%E6%B1%82

1919年パリ講和条約 ドイツの国外財産・植民地

第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、膠州湾租借地と、それに関連する特権は日本に譲渡する(山東問題)。また従来の植民地はすべて放棄する。

これを不満として五・四運動が起きる。


                                        
小池張蔵。1873-1921。,ニューヨーク,奉天などの総領事をつとめる。大正2年外務省政務局長となり,加藤外相のもとで対華二十一ヵ条要求の原案作成にあたった。

昭和三年

1928
1928年(昭和3年)の社会
【出版】
何が彼女をさうさせたか(藤森成吉)
 赤穂浪士(大仏次郎)
 河童・或阿呆の一生 (芥川龍之介)
02.04 芥川竜之介、小説「蜃気楼」を脱稿
03.05 新潮社、「世界文学全集」(全57巻)刊行開始 予約殺到
05.14 東京日日新聞で大佛次郎「赤穂浪士」の連載を開始
10.15 大阪毎日新聞で林不忘「新版大岡政談」の連載を開始(丹下左膳が登場)
12.01 主婦之友、「オギノ式避妊法」

【世相】 
  チャンバラごっこ流行 シェパード人気
 ちゃぶ台普及 受験戦争のはしり
 南米移民激増
 松竹家庭劇(松竹新喜劇)旗揚げ
 渋谷天外
03.25 全日本無産者芸術連盟結成
04.04 新型旅客用蒸気機関車C53型完成
11.10 ダンスホール18歳未満入場禁止
11.17 湯元温泉で火災、温泉街ほぼ壊滅
12.24 利根川河口にゴンドウクジラの大群
02.11 日本、第2回冬季オリンピック・サンモリッツ大会(サンモリッツオリンピック)に初参加 6人がノルディック複合に参加した
05.26 第1回全国日本学生陸上競技大会
06.10 オーストラリアのキングスフィールド・スミス、初の太平洋横断飛行に成功
06.18 米の女性初の大西洋横断飛行
07.28 第9回オリンピック・アムステルダム大会開催
織田幹雄(23)三段跳びで金(08.02)
 鶴田義行(25)200m平泳ぎで金(08.08)
 人見絹枝(21)女子陸上800m銀(08.02)
10.13 中国で、殷墟の発掘が始まる
11.23 札幌郊外に世界的なジャンプ台が建設(大倉山シャンツェ)

【映画】
第5回(1928年度)キネマ旬報ベストテン
 外国映画
第1位 サンライズ 監督:F・W・ムルナウ
第2位 暗黒街 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第3位 サーカス 監督:チャールズ・チャップリン
第4位 ベン・ハー 監督:フレッド・ニブロ
第5位 つばさ 監督:ウィリアム・ウエルマン
第6位 街の天使 監督:フランク・ボーサージ
第7位 煩悩 監督:ジョージ・フィツモーリス
第8位 アンクル・トムズ・ケビン 監督:ハリー・ポラード
第9位 結婚行進曲 監督:エリッヒ・シュトロハイム
第10位 ムーラン・ルージュ 監督:E・A・デュポン
 日本映画
第1位 浪人街 監督:マキノ正博
第2位 陸の王者 監督:牛原虚彦
第3位新版大岡政談 監督:伊藤大輔
第4位 崇禅寺馬場 監督:マキノ正博
第5位 彼と東京 監督:牛原虚彦
第6位 村の花嫁 監督:五所平之助
第7位 蹴合鶏 監督:マキノ正博
第8位 結婚二重奏 監督:村田実
第9位 平手造酒 監督:志波西果
第10位 十字路 監督:衣笠貞之助
04.29 笠智衆小津安二郎監督の「若人の夢」で映画デビュー
06.15 ツキガタプロ第1回作品「酒毒の剣法」
06.15 片岡千恵蔵プロ第1回作「天下太平記」
07.12 嵐寛寿郎プロ第1回作「鞍馬天狗」
12.14 新宿で映画館「武蔵野館」開館
【流行歌】
波浮の港 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 歌:佐藤千夜子 歌:藤原義江
出船作詞:勝田香月 作曲:杉山長谷夫
 歌:
藤原義江
君恋し
 二村定一

【アカデミー賞】 第1回作品賞
 「つばさ」
 芸術作品賞 「サンライズ」
 主演男優賞 エミール・ヤニングス 
 主演女優賞 ジャネット・ゲイナー 
特別賞 チャールズ・チャップリン ワーナー・ブラザーズ
 【流行語】
ママさん 狭いながらも楽しい我が家 ラジオ体操 インテリ テレビジョン 彼氏 陸の王者 電光ニュース ハンドバック マネキンガール フラッパー 人民の名において

1928年(昭和3年)の経済1928年(昭和3年)の政治

03.13 神田にある巌松堂の少年店員42人、
丁稚奉公制度に反対して争議
04.10 日本商工会議所創立

05.15 タイで、日本軍の山東省派兵に抗議して日本製品のボイコット運動を開始

05.16 中国の反日高揚のため、絹布輸出の契約破棄が続出

05.21 野口英世(51)、ガーナで黄熱病に感染して死亡

10.12 東京松竹楽劇部(SSK)設立
 水の江滝子ら入部

10.27 早稲田大学に、坪内博士記念演劇博物館が開館


09.30
 英の細菌学者フレミング、アオカビから抗菌性の物質を抽出
 1929.05.10
 ペニシリンと命名

02.01
 日本ビクター蓄音器、日本初の電気吹込みレコード「出船の港」(藤原義江)発売

03.21
 田谷力三らのヴォーカル・フォアが初演奏会

05.11
 米で、ゼネラル・エレクトリック社、テレビ実験放送の許可を得て、定時放送を開始

07.06 ワーナー・ブラザース、世界初のオールトーキー映画「ニューヨークの灯」を製作

07.30 米で、イーストマン・コダック社の創立者でロールフィルムを発明したジョージ・イーストマン、カラーフィルムを発明し、世界初の色彩映画を制作

08.31
 ベルリンで、クルト・ワイル作曲「三文オペラ」初演
09.19 米で、ウォルト・ディズニー製作の世界初のトーキー・アニメ映画ミッキーマウスとミニーマウスの「蒸気船ウィリー」が完成
 
11.05 朝日新聞社の社屋側面に電光ニュースが登場 天皇の即位礼流れる

11.28
 高柳健次郎、浜松高等工業学校でブラウン管方式によるテレビジョンの公開実験を実施
12.19
 日本蓄音機、ラミネーテッド盤レコードを発売

【ラジオ】
01.12 大相撲の実況放送開始
05.21 大阪中央放送局、初のラジオドラマを放送
08.01 NHK大阪放送局、ラジオ体操の放送開始
11.01 NHK東京放送局、ラジオ体操の放送開始
11.05 NHKの全国放送網が完成

02.20
 普通選挙制による初の衆議院議員選挙

03.15
 3.15事件
 共産党員の大量検挙が始まる

4月 蒋介石、第二次北伐(北京支配の張作霖に対して)
済南には邦人が1810人(うち女性829人)いたが、第二の南京事件が起こる危険性が出てきた。南京事件(1927年)


04.20
 第2次山東出兵を決定 第二次山東出兵

日本は済南に軍隊を送り(第二次山東出兵)、守備地区を設けて居留民保護の体勢をとった。

これに対し、南軍総司令である蒋介石より日本軍に対して「治安は北伐軍が責任を持って確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去してほしい」との要請があった。日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。

ここで恐ろしい虐殺事件・済南事件が発生する。

05.03
 済南事件
北伐軍が居留民を襲撃。各所で多数の男女日本人居留民が北伐軍の暴兵の手で虐殺されていった。略奪などを含めると被害者は400人にのぼった。出典

済南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、日本側が防戦、そこにたまたま国民党の外交官がいた、この事件後、支那側は「外交官虐殺事件」と宣伝し、排日感情を煽る材料にした。。

日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。

  ハーグ陸戦条約
  「交戦者」の要件
出典

05.07
 第3次山東出兵を決定

06.04
 張作霖爆殺事件
 奉天に引き揚げ途中の張作霖(53)を乗せた特別列車が関東軍参謀・河本大作大佐らによって爆破
06.09 国民革命軍が北京に入城し、北伐が完了
06.29 治安維持法改正公布

7月19日 - 中華民国国民政府日華通商条約の廃棄を通告

7月25日 - アメリカ合衆国中華民国から撤兵

08.27
 パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)調印
 米英仏日など15カ国が署名

10.01 ソ連、第1次5カ年計画開始

10.08
蒋介石、国民政府主席に就任
11.10
 昭和天皇即位大礼式(京都御所紫宸殿) 迪宮裕仁親王(27)、第124代天皇に

12.20 日本大衆党結成

 

歴史認識を考えてみる(16-4)

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            大恐慌~満州国設立まで

ガンジー柳条湖事件五・一五事件世界恐慌昭和大飢饉農業恐慌ムーランルージュ・山下公園/電気冷蔵庫・電気洗濯機

左地図は満州国 画像元 右画像は満州開拓団
イメージ 1

1929~1932

3.南京国民政府:国共内戦期(大戦前)
1929~1936年。南京国民政府は蒋介石独裁の性格が強かったため、しばらく反蒋介石勢力との間で内戦が続いた。
また国共合作崩壊後は中国共産党は独自の根拠地造りに進み、対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。共産党は根拠地を井崗山から1931年に瑞金に移して
中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。その間、毛沢東が主導権を握り、党勢を拡大していった。
その間、1931年の満州事変から日本の満州侵略が始まり、東北地方に「満州国」を成立させたが、蒋介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させた。
その間に日本は中国本土への侵攻を開始する勢いを見せ、
危機感を持った東北軍の張学良が蒋介石を監禁して内戦停止を迫り(1936年西安事件)、蒋介石もそれを受け入れた。
1929年~日中戦争までの経緯
満州事変
柳条湖事件[注釈 2])に端を発し、関東軍による満州(現中国東北部)全土の占領を経て、1933年5月31日塘沽協定成立に至る、日本中華民国との間の武力紛争事変)である。
柳条湖事件
1931年9月18日。
柳条湖において南満州鉄道の線路が爆破されると、関東軍はこれを中国軍の仕業と断定。実際は関東軍の謀略でしたが、関東軍は直ちに出動し、わずか5ヵ月で満州全域を占領してしまうのです(満州事変)。この作戦計画の立案者は石原莞爾。総司令官は板垣征四郎でした。 (転載ここまで)

上海事変
リットン調査団
1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。翌年関東軍清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により連盟からリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3カ月にわたり満州を調査、9月に報告書(リットン報告書)を提出した。
1932年1月、リットン調査団が結成された。委員は下記の5名。
また上記の他に、紛争当事国からのオブザーバーとして、
も参加していた。調査団の日程中の諸経費はすべて日本および中華民国の負担とされた。
正式書名『国際連盟日支紛争調査委員会報告書』(「Report of the Commission of Enquiry into the Sino-Japanese.」
1932年10月2日に公表された報告書は序説および10箇条からなり、その内容は下記のとおり。
(中略)

結論

報告書では、もと不毛の荒野であった満州の住人の大半がいまや支那人でありこれは日本の地域経営の成果である、この地域の主要勢力であった張作霖はこの地域の独立を志向していたのではなくあくまで支那の政権であると自認していた、支那中央政府の権力が極めて微弱であり日本人が保護されていない、といった中華民国と満洲国の実情を述べた後、下記のように論じている。
  • 柳条湖事件及びその後の日本軍の活動は、自衛的行為とは言い難い。
  • 満洲国は、地元住民の自発的な意志による独立とは言い難く、その存在自体が日本軍に支えられている。
と、中華民国側の主張を支持しながらも、
  • 満洲に日本が持つ条約上の権益、居住権、商権は尊重されるべきである。国際社会や日本は支那政府の近代化に貢献できるのであり、居留民の安全を目的とした治外法権はその成果により見直せばよい。一方が武力を、他方が「不買運動」という経済的武力や挑発(irritation)を行使している限り、平和は訪れない。
などの日本側への配慮も見られる。

紛争解決に向けた提言

また、日中両国の紛争解決に向けて、下記のような提言を行っている。
  • 「柳条湖事件以前への回復(中国側の主張)」「満洲国の承認(日本側の主張)」は、いずれも問題解決とはならない。
  • 満洲には、中国の主権下に自治政府を樹立する。この自治政権は国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下、充分な行政権を持つものとする。
  • 満洲は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う。
  • 日中両国は「不可侵条約」「通商条約」を結ぶ。ソ連がこれに参加を求めるのであれば、別途三国条約を締結する。
塘沽協定(たんくーきょうてい)は、1933年(昭和8年)5月31日河北省塘沽において日本軍と中国軍との間に締結された停戦協定である。これにより柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的衝突は停止された。塘沽停戦協定とも呼ばれる。

満州開拓とは?
Q
満洲国維持の為に何人くらいの中国人を殺しましたか、また、その財産を奪いましたか?客観的な事実を知りたいのですが。
補足勿論、主に満州人の事です。
A

客観的な史実ですか?
元々満州には漢民族は清の政策もあり殆ど住んでなかったので殺す必要がなかったということもありそうした事実はありません。
満州事変前後に起こったのはそれまで制限されていた漢民族の殖民が無くなりそれを利用した国民党が勢力拡大をはかり貧民を扇動して大量に満州に漢民族を流入させたことで治安が悪化して馬賊上がり自治軍を大量に生んだのであり日本人がそうした行為をしたのではないです。
どちらかといえば当時そうした馬賊軍に日本人コミニティーが襲撃され虐殺されるケースの方が多いといえます。
満州国が日本陸軍の関東軍による傀儡政権というのは否定しませんが決して民間人を殺したりして支配したのではありません。
満州国の軍官学校では満州人・漢民族・朝鮮人などが数多く学んでいたし待遇も悪かったわけではないので。
戦後の韓国軍の中核をなした人間の殆どがこの学校出身者です。
大陸支配の際日本軍は最大限配慮したと思います。
ですが結局儒教的考えの強い人たちには日本支配自体がプライドが許さなかったということでしょう。
ソ連が参戦した時関東軍が総崩れになりますがこれは優遇されていたこれらの朝鮮人・満州人などの軍属が即座に裏切ったからでそのときも多くの日本人の女子供が虐殺されてます。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1142789031

昭和四年
1929
【出版】
蟹工船(小林多喜二)
 東京行進曲(菊池寛)
 転換期の歴史学(羽仁五郎)
 夜明け前(島崎藤村)
 西部戦線異常なし(レマルク) 1.31
 武器よさらば(ヘミングウェイ) 9.27
02.10日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)結成
09.25小林多喜二「蟹工船」発禁処分 

【世相】
麻雀屋出現 賭博横行
 電髪(パーマネント-ウエーブ)流行
ロイドメガネが流行/兎の襟巻き流行
 ロイドメガネとは、ハロルド・ロイドが映画の中でかけていたセルロイド製のメガネのことをいう
 ステッキ・ガールが登場
 ステッキ・ガールとは、銀座などを散策する文士などと一緒に食事や映画に出かけたりする女性(モガ) 
乳房バンド(乳バンド、乳おさえ)発売
 大卒の就職難が深刻
 特売が日常的に
01.13 奥多摩スケートリンク開業
02.23 説教強盗逮捕
 犯人は左官職人の妻木松吉
03.21 初の麻雀全国大会開催
 日本麻雀協会設立
04.14 第1回モナコ・グランプリ開催
4.1 サントリーウィスキー白札4円50銭
04.21 大日本麦酒「シーズンビール」
04.27 日本ロータリークラブ第1回大会
05.01 時報、「ドン」(皇居の大砲)から「サイレン」(芝、本所、小石川)に
05.12 インドの詩人タゴール、2度目の来日 1916.05.29 初来日
08.18 第1回全国学生庭球選手権大会開催
08.19 独のツェッペリン号、霞ケ浦に着陸
09.15 東京~下関の特急列車の愛称が一般から募集され、「富士」「桜」と命名(列車愛称の始まり)
08.23 嘆きの壁事件
08.19 東京上空経由で霞ヶ浦に着陸
09.28 警視庁不良係、浅草で「サボ学生」を一斉検挙
08.29 独の飛行船ツェッペリン伯号、世界一周を達成 乗客20人 平均時速110km 飛行時間288時間
10.1 さくらフィルム(小西本店)
10.19 日比谷公会堂竣工
11.01 初めての天覧早慶戦
11.23 大日本スケート競技連盟結成
【洋画】
ブロードウェイ・メロディアメリカ
 ミュージカル映画 アカデミー作品賞受賞映画監督:ハリー・ボーモント
  出演:アニタ・ペイジ ベッシー・ラヴ
アンダルシアの犬 監督:ルイス・ブニュエル 出演:サルバドール・ダリ
危険大歓迎(Welcome Danger)アメリカ監督:クライド・ブラックマン
  出演:ハロルド・ロイド 
【邦画】
生ける人形  監督:内田吐夢
  製作:日活(太奏撮影所)
  出演:小杉勇 入江たか子
 東京行進曲 5.31 主題歌「東京行進曲」(作詞:西条八十 作曲:中山晋平 歌:佐藤千夜子)邦画主題歌第1号 原作:菊池寛
  監督:溝口健二 出演:夏川静江
沓掛時次郎 6.14
 監督:辻吉郎 出演:大河内伝次郎
新女性鑑 原作:菊池寛 監督:五所平之助 出演:田中絹代
一殺多生剣 監督:伊藤大輔 出演:市川右太衛門
戻橋 7.5 国産初のディスク式トーキー監督:マキノ正博 出演:南光明 
大学は出たけれど 9.6
  監督:小津安二郎
  製作:松竹キネマ(蒲田撮影所)
  出演:高田稔 田中絹代
親父とその子 9.13 主題歌「蒲田行進曲」(作詞:堀内敬三 作曲:ルドルフ・フリムル 歌:川崎豊・曽我直子)
  監督:五所平之助
不壊の白珠 10.17 主題歌「不壊の白珠」(作詞:西条八十作曲:中山晋平 歌:四家文子) 原作:菊池寛

NHK松内則三アナ「夕闇迫る神宮球場、ネグラに帰るカラスが2羽3羽…」の名調子で人気  
【流行歌】
蒲田行進曲 歌:川崎豊、曽我直子
鞠と殿さま 作詞:西條八十
        作曲:中山晋平
紅屋の娘  作詞:野口雨情
        作曲:中山晋平
東京行進曲 作詞:西条八十
         作曲:中山晋平
【流行語】
大学は出たけれど カジノ ステッキ・ガール ターミナル 国産品愛用 緊縮

1929年の経済
1929年の政治

創刊:
 民俗学
 文学

01.16 東京府代々幡町幡ヶ谷に武蔵野音楽学校(武蔵野音楽学園)開校
03.22 霞ケ浦航空隊の飛行船、名古屋まで夜間飛行
01.17
 シーガーの新聞連載漫画「シンプル・シアター」に「ポパイ」登場
02.04
 大正天皇の第3皇男子・宣仁親王(のぶひとしんのう)、徳川喜久子と結婚
 高松宮家を創設
02.11
 バチカン市国成立(ラテラノ条約

603.04
 山野千枝子、「日本マネキン倶楽部」を結成(日本初のマネキン紹介所)
 マネキン・ガールが登場
04.01 松坂屋上野店にエレベーター・ガールが登場
04.15 阪急百貨店開店(梅田)
 世界初のターミナルデパート
05.10
 映画の主題歌「東京行進曲」(歌:佐藤千夜子)発売

05.23 中央気象台、関東に初の雷予報を出し、的中
06.23 富士山麓電鉄(のちの富士急行)開通式
07.10 榎本健一、浅草水族館にカジノ・フォーリーを旗揚げ
10.21 大蔵省、金解禁の省令を公布
10.24 ニューヨーク株式市場で株価の大暴落(暗黒の木曜日)
 世界恐慌始まる
10.29 日本で初の万国工業会議開催 24カ国が参加
11.08 ニューヨーク近代美術館開館
11.22 花園ラグビー場開場
11.29 米の探検家リチャード・バード、フォード4AT三発機フロイド・ベネット号で南極点往復飛行に初成功
02.14
 聖バレンタインデーの虐殺(聖バレンタインデーの悲劇、血のバレンタイン)
 シカゴで起きたギャング(アル・カポネ一家とバッグズ・モラン一家)の抗争事件
 7人死亡

03.04
 フーバー、第31代米大統領に就任

04.16
 4.16事件
 共産党員が全国で大量に検挙
712.15 大恐慌による生糸相場の崩落で、全国の製糸業者が2週間の一斉休業
12.25 森永製菓鶴見工場キャラメルの自動包装設備が完成
07.02 張作霖爆殺事件(満州某重大事件)で田中義一内閣が総辞職
07.02 浜口雄幸内閣成立
811.16 統計局、都市別人口は1位大阪、2位東京と発表
12.16 東京駅八重洲口開業
12.29東洋一の長さを誇る上越線の清水トンネルが貫通
物価:煙草 7銭 葉書 1銭5厘
11.03
 光州学生運動
昭和五年


30
【出版】
機械(横光利一)
 聖家族(掘辰雄)
 測量船(三好達治)
 昆虫記(ファーブル) 2.5
07.03
 林芙美子の「放浪記」(改造社)刊行

【世相】

07.25
 小田原事件
 佐藤春夫、谷崎潤一郎との話し合いの末、谷崎夫人の千代と結婚することが決まる
失業者増加 自殺者急増
 コリントゲーム流行
 帝都復活祭
 紙芝居に「黄金バット」(鈴木一郎作、            永松建夫画)登場
 マニキュアが流行
 ハリウッドスターたちの影響で流行した
 カラーポリッシュ(マニキュア)は、車の塗装用ラッカーから考案された
 「manicure(マニキュア)」の語源は、ラテン語の“手”を意味する「manus(マヌス)」と“手入れ”を意味する「cure(キュア)」
 ロングスカートが流行
 1938年頃まで続く
 男装の麗人が出現
 09.11
 宝塚歌劇「パリゼット」初演(すみれの花咲く頃、おお宝塚)
 横山エンタツ・花菱アチャコ「大阪玉造三光館」に初出演
01.12 第1回全日本スケート選手権大会開催
04.13 全日本体操連盟設立
04.29 皇居で、天覧相撲
04.29 25年ぶりに早慶対抗ボートレース開催
05.05 第1回日本一健康優良児表彰式(朝日新聞社主催)
05.31 大阪のカフェー「美人座」が銀座に進出 客1人に女給1人がつく濃厚サービスが話題に
07.13 第1回サッカーワールドカップ開催(ウルグアイ)
07.16 東京~福岡に、国内最長の直通電話回線が開通
09.27
 米のボビー・ジョーンズ、ゴルフ界初のグランドスラム達成
09.11 東京松竹楽劇部「第1回東京踊り」公演(浅草松竹座) 水の江滝子が「男装の麗人」として人気
11.09 第1回全日本器械体操選手権大会開催
11.15 第1回全日本柔道選手権大会開催
11.16 「煙突男」出現
11.26 伊豆大地震331人死亡・不明
 東京アメリカ屋靴店、日本初の大衆向け「既成靴」販売(それまでは「注文靴」しかなかった)
【洋画】
嘆きの天使(Der blaue Engel) 4.1 ドイツ 監督:ジョセフ・フォン・スタンバーグ 出演:マレーネ・ディートリッヒ
西部戦線異状なし 監督:ルイス・マイルストン 
 モロッコ  出演:マレーネ・ディートリッヒ ゲイリー・クーパー
【流行歌】
祇園小唄 歌:藤本二三吉
洒落男 歌:二村定一
すみれの花咲く頃 歌:宝塚歌劇団
淡谷のり子、「夜の東京」でレコードデビュー
【流行語】
銀ブラ OK エロ・グロ・ナンセンス アチャラカ 男子の本懐 統帥権干犯 カフェ キス・ガール オンパレード ルンペン 失礼しちゃうわ 流線型

11930年の経済
1930年の政治
3

501.04
 安田銀行(富士銀行)サラリーマン向け小口貸付開始(サラ金の始まり)
01.11
 新百円札(聖徳太子肖像)発行
東京芝浦電気(のちの東芝)、日本初の電気洗濯機・電気冷蔵庫を完成

 独でテープレコーダー開発

05.27
 米のリチャード・ドルー、セロファン透明テープの特許を取得
パチンコ第1号店開店(名古屋)
 東京三越本店の食堂に「御子様洋食」(30銭)登場(お子様ランチの誕生)
狐の衿巻きが流行

芳香浴剤「バスクリン」(津村順天堂)6.6.22日本初の入浴剤 6.22

 リボン型ハイトリ紙「ハイトリリボン」(カモヰのハイトリ製造所)
01.21
 ロンドン海軍軍縮会議開催

02.18
 天文学者のクライド・トンボー、アリゾナ州フラグスタッフのローウェル天文台で冥王星を発見

03.12
 ガンジー、「塩の行進」開始
 04.05
 ガンジー、「塩の行進」で目的地のダンディに到着
 05.05
 ガンジー、「塩の行進」で逮捕

03.28
 トルコ、首都アンゴラをアンカラに、コンスタンチノープルをイスタンブールに正式改称
04.22
 ロンドン海軍軍縮条約調印

04.25
 統帥権干犯問題
703.15
 日本初の臨海公園「山下公園」(神奈川県横浜市中区山下町279)開園

6.22804.01
 上野駅地下連絡通路に東洋初の地下商店街誕生

04.03
 東京駅と上野駅に、切符自動販売機が登場
04.05
 鐘紡、不況のため「温情主義」を捨てて4割減給を発表

9
05.15
 米のユナイテッド航空、初のスチュワーデスを採用
 ナース出身の8人の女性が乗客14人を世話

06.06
 同潤会大塚女子アパートメント誕生(日本初の職業婦人専用アパート) 完成 5階建て1棟 総戸数158戸(大半が独身者向け) 食堂、浴室、日光室、音楽室、応接間あり 1階は店舗 昇降機(エレベータ)付き
 東京市小石川大塚窪町5(東京都文京区 2003取り壊し
07.30 米のNBC、テレビ送信実験局を設置
09.17 新潟空港開港
09.03
 エジソン、実験用電機機関車を製作
10.01 特急つばめ(超特急燕)登場(東京~神戸8時間55分)

10.27
 東京中央放送局(NHK)、初めて海外に電波を送る
11.05 日本初の西洋近代美術館「大原美術館」開館(倉敷)
11.20 日本初の国立癩療養所「長島愛生園」開設
10.27
 霧社事件

10.29
 中国の正式呼称を「支那」から「中華民国」に変更
 (中華民国政府から公式文書に「支那」を入れぬよう申入れがあったため)
11.14
 浜口雄幸首相、銃撃され重傷
 「男子の本懐」

昭和六年


31

【出版】
つゆのあとさき(永井荷風)
 夜間飛行(サン=テグジュペリ)
 大地(パール・バック) 3.2
 野村胡堂の「銭形平次捕物控」、オール読売に連載開始
 平凡社「大百科事典」刊行開始11.25

【世相】
 ビル感(流感)蔓延
 東京市で道路祭(舗装率55%祝う)
01.10 中学校令が改正され、柔道と剣道が必修科目に
04.01 国立公園法公布
04.14 銀座で柳祭 柳並木復活
05.07 山中温泉で大火 800戸焼失
05.22 河原崎長十郎「前進座」を結成

04.29 東都5大学野球連盟創立(中央大学、日本大学、専修大学、國學院大學、東京農業大学)
05.30 吉岡隆徳、100m走で日本新(10秒5)
06.08 第1回相撲選手権大会で、年寄春日野(元横綱栃木山)が現役力士を破って優勝
06.10 早大大隈講堂で、日本初のレスリング試合を開催
06.13 6大学野球で、早大応援にブラスバンドが初登場
07.12 日本卓球会設立
07.18 鎌倉署と葉山署、水着姿で街の散策を禁止
08.11 内務省、自動車の制限速度を時速26キロから48キロに改定
08.20 銀座尾張町と京橋交差点に三色燈(赤青黄)の自動信号機を設置
08.07 神宮で、第1回日米対抗水上競技大会開催
10.27 神宮体育大会で、南部忠平が走り幅跳びで7m98の世界新記録、織田幹雄が三段跳びで15m58の世界新
10.29 読売新聞社の招待で大リーグ選抜チームが来日
【洋画】
魔人ドラキュラ 2.14 アメリカ 
 監督:トッド・ブラウニング
 原作:ブラム・ストーカー「ドラキュラ」
  出演:ベラ・ルゴシ(ドラキュラ伯爵) ヘレン・チャンドラー(ミナ)
 フランケンシュタイン 11.21 アメリカ  監督:ジェームズ・ホエール
  原作:メアリー・シェリー
 出演:ボリス・カーロフ メイ・クラーク
街の灯 2.26 アメリカ 監督 ・出演:チャールズ・チャップリン
【邦画】
難船ス物語 2.10 漫画映画
  監督:政岡憲三
 マダムと女房 8.1 日本初の本格的なトーキー映画
  監督:五所平之助
  出演:田中絹代
 瞼の母 3.13
  監督:稲垣浩
  出演:片岡千恵蔵、山田五十鈴
 御誂次郎吉格子 12.31
  原作:吉川英治「治郎吉格子」
  監督:伊藤大輔
  出演:大河内伝次郎
侍ニッポン 前篇 4.8 後篇 4.15
  監督:伊藤大輔
  出演:大河内伝次郎
 東京の合唱 8.15
  監督:小津安二郎
  出演:岡田時彦、高峰秀子
 心の日月 烈日篇 月光篇 10.30
  原作:菊池寛
【流行歌】
影を慕いて 作詞:古賀政男 作曲:古賀政男 歌:佐藤千夜子
茶切節(ちゃっきり節) 作詞:北原白秋 作曲:町田嘉章 歌:市丸
酒は涙か溜息か 作詞:高橋掬太郎 作曲:古賀政男 歌:藤山一郎
丘を越えて 作詞:島田芳文 作曲:古賀政男 歌:藤山一郎
巴里の屋根の下 映画「巴里の屋根の下」(監督:ルネ・クレール)主題歌
走れトロイカ 作詞:松村又一 作曲:森義八郎 歌:藤山一郎
【流行語】
電光石火 減俸 いやじゃありませんか テクシー ビル感 生理休暇 コップ 農林1号 エア・ガール 生命線
51931年の経済
1931年の政治
10北海道・東北地方で大凶作・大飢饉
欠食児童があふれ、娘たちが都会に身売り
 ソ連で大飢饉
創刊:
 映画之友
 科学 4.1
 プロレタリア文化
03.18
 初の国産飛行機が中島飛行機工場で完成
02.25 東京航空輸送、日本初のエア・ガールの採用試験を実施 3人を採用
04.18
日本窒素延岡工場で銅アンモニア法のレーヨンの製造開始
05.01
 エンパイア・ステート・ビル完成(102階381m)
05.05
 発動機製造で、三輪自動車の本格的生産を開始
05.28
 スイスの物理学者・オーギュスト・ピカール(47)、水素気球で成層圏(16000m)に達し、チロルの山中に着陸(史上初)
06.22 日本空輸航空旅客機、福岡県冷水峠(ひやみずとうげ)付近の山腹に激突・炎上(日本初の旅客機事故)
操縦士・機関士・乗客計3人全員死亡
06.30
 森永製菓、宣伝機で全国訪問飛行を開始
07.01
 アフリカ横断鉄道開通
08.24
 米リンドバーグ夫妻、水上飛行機シリウス号で北大西洋横断に成功、根室港に着水
 前日、濃霧のため根室港に着水できず、国後島東沸湖アンノロ川の川口近くに着水
08.26 霞ヶ浦に着水
08.25
 東京飛行場(羽田空港)開港 大連行きの1番機がスズムシとマツムシ6千匹を乗せて出発
09.01
 世界最長の清水トンネル開通(全長9702m)
09.03
 大丸百貨店、女子店員を第1回服飾研究生としてパリに派遣
09.19
 満州事変勃発で、株式・商品相場が暴落
09.21
 英議会、金本位制停止を決定
11.02
 東京科学博物館(国立博物館)開館式(開館記念日)
11.07
 大阪城(大坂城)天守閣が再建され竣工式
12.14
 金輸出が再び禁止されたため、株式・商品相場が暴騰
12.15
 中島飛行機設立(初の民間飛行機製作所)

12.16
 浅草オペラ館開場
 榎本健一、ピエル・ブリヤントを結成し、旗揚げ公演
12.24
 横山エンタツと花菱アチャコ、満州慰問を終え帰国
12.25
 東京中央郵便局完成
12.29
 米の化学者ハロルド・ユーリー、重水素発見を発表
12.31 新宿ムーラン・ルージュ開業



03.03
 「星条旗」、米国歌に

03.04
 マハトマ・ガンジー、政治犯釈放を条件に不服従運動の停止と円卓会議への出席を約束するデリー協定に調印

03.20
 3月事件

04.14
 第2次若槻礼次郎内閣成立
06.20
 フーヴァー・モラトリアム
06.27
 中村大尉事件

09.18
 柳条溝事件
 奉天の郊外にある柳条湖で、関東軍の陰謀により満鉄の線路を爆破
 満州事変勃発

10.17
 10月事件

11.10
 陸軍兵の名称改正が公布され、一等卒は一等兵に
12.13
 犬養毅内閣成立(最後の政党内閣)

12.13
 犬養毅新内閣、初閣議で金輸出再禁止を決定









07.02
 万宝山事件(まんぽうざんじけん)
 ⇒満州事変
08.25
 英で、マクドナルド挙国一致内閣が成立
12.11
 英議会、ウェストミンスター憲章を可決
 「大英帝国」から「英連邦」へ
昭和七年


32
【出版】
三文オペラ(武田麟太郎)
 万華鏡(寺田寅彦)
 八月の光(フォークナー)
10.28 大槻文彦の「大言海」刊行開始
12.05 田川水泡の「のらくろ上等兵
【世相】
 寄生虫大国

 国民の70~80%が寄生虫持ち
 百貨店での万引きが横行
肉弾三勇士ごっこ満州事変ごっご流行
人絹素材が出回る 人絹(じんけん)とはレーヨンのことで、スフ(ステープル・ファイバー)とも呼ばれる。
エナメルレザーのハンドバッグが流行
 白木屋火災以来、女性の洋風下着が普及
01.09 栃木県の阿久津村で全農組合員ら百数十人、小作争議を妨害する右翼を襲撃して15人を殺傷
01.10代々木練兵場で国防献金による献納機「愛国1号」「愛国2号」の命名式
01.16 大倉山シャンツェ開場式
02.28 朝日新聞と毎日新聞、「肉弾三勇士」の歌を公募
04.07 大日本アマチュア・レスリング協会創立(04.29)
04.24 第1回日本ダービー
05.09 坂田山心中事件
06.03 ニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリック、対アスレチック戦で4打席連続ホームラン
05.21 江戸三座(猿若三座:中村座、河原崎座、市村座)のひとつである市村座が焼失 ⇒市村座跡
05.27 北海道余市町大火300戸焼失
07.30 第10回オリンピック・ロサンゼルス大会開幕
08.04 南部忠平、三段跳びで15m72の世界新記録で金メダルを獲得
08.09 男子競泳800mリレーで、日本が世界新記録で優勝
08.14 陸軍中尉の西竹一(バロン西)、愛馬ウラヌス号に乗り、馬術大障害で金メダル
07.13 勝太郎の「島の娘」が放送禁止
10.06 大森ギャング事件(赤色ギャング事件)
10.22 石川県の小松町で大火1187戸焼失
11.17 玉錦三右衛門、横綱に昇進
11.26 第1回児童唱歌コンクール開催
11.27 日本ヨット協会創立
12.13 大日本国防婦人会発足
12.16 白木屋火災(日本初の高層ビル火災) 14人死亡
12.20 勝太郎の「島の娘」が、ビクターから発売され3カ月で35万枚を売上げ
【洋画】
戦場よさらば 原作:アーネスト・ヘミングウェイ「武器よさらば」出演:ゲイリー・クーパー ヘレン・ヘイズ 
暗黒街の顔役 アメリカ 製作:ハワード・ヒューズ監督:ハワード・ホークス
 グランド・ホテル アメリカ アカデミー最優秀作品賞 出演:グレタ・ガルボ、ジョン・バリモア、ジョン・クロフォード
【邦画】
国士無双 監督:伊丹万作出演:片岡千恵蔵、山田五十鈴、伴淳三郎
銀座の柳 5.20  監督:五所平之助
  出演:田中絹代 
大人の見る絵本 生れてはみたけれど監督:小津安二郎出演:斎藤達雄 吉川満子 菅原秀雄 突貫小僧
 天国に結ぶ恋  監督:五所平之助 出演:津田一郎 竹内良一 藤野秀夫 光川京子 藤山綾子 
 金色夜叉 原作:尾崎紅葉「金色夜叉」出演:林長二郎 田中絹代
また逢ふ日まで 監督:小津安二郎
  出演:岡田嘉子
忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻 後篇 江戸の巻出演:林長二郎、市川右太衛門
【流行歌】
影を慕いて 作詞・作曲:古賀政男歌:藤山一郎
銀座の柳 映画「銀座の柳」主題歌
作詞:西條八十 作曲:中山晋平
涙の渡り鳥
 作詞:西条八十 作曲:佐々木俊一
天国に結ぶ恋 松竹映画「天国に結ぶ恋」主題歌 作詞:柳水巴(西條八十)作曲:林純平(松平信博)
肉弾三勇士の歌 
作詞:与謝野鉄幹 作曲:辻順治、大沼哲
電車ごっこ
 作詞:井上赳 作曲:信時潔
チューリップ
 作詞・作曲:近藤宮子、井上武士
【流行語】
 シャンプー ズロース 生れてはみたけれど 天国に結ぶ恋 欠食児童 寄生虫大国 非常時 自力再生 時局 挙国一致 特高 青年将校 話せばわかる 問答無用 五族協和 王道楽士 肉弾三勇士

11932年の経済
欠食児童増加 20万人突破
家族心中急増 自殺者激増
東京市(人口497万人)、世界第2位の大都市に(第1位はニューヨーク)03.05
創刊:
 受験旬報(のちの蛍雪時代)
 プロレタリア文学
 光画

 三井合名理事長・団琢磨(73)、日本橋三井銀行玄関で血盟団員・菱沼五郎に撃たれ死亡
 ⇒血盟団事件
04.01 京都に日本初のトロリーバス誕生(四条大宮~西大路四条)
04.02上野駅の新築工事が完了1885.開業
04.04 日本アルミニウム製造所、世界初のアルマイト製品の生産開始
04.21東京にダイヤル式公衆電話登場
 花王シャンプー(花王石鹸)
 「シャンプー」という言葉の始まり
 初の婦人用煙草「」発売(10本入20銭) 5.15
06.02 日本楽器(ヤマハ)、国産初のパイプオルガン(2段鍵盤8ストップ)本郷の東京聖テモテ教会に建造 1945 東京大空襲で焼失
創立:
 東京宝塚劇場 8.12
 セーラー万年筆阪田製作所(創業は1911年)
10.08 大雪山・阿寒・十和田・日光・富士・日本アルプス・吉野熊野・瀬戸内海・伯耆大山・阿蘇・雲仙・霧島
 の12カ所が初の国立公園に選定される
05.14 チャップリン、初来日
 3歳年上の異父兄シドニー・チャップリンと高野虎市を伴い来日 翌日、犬養毅と会う予定だったが、気まぐれからか、犬飼健(犬養毅の長男)と相撲観戦に行ったため難を逃れた ⇒五・一五事件

06.12 銀座で服部時計店が新装開店
大正10年以来の時計塔も復活
08.12 小林一三東京宝塚劇場を創立
05.16
 五・一五事件で、株式・商品市場が休会し、円が暴落
10.15 上野動物園に猿山が完成し、初公開
10.17
 早稲田大学で大隈重信像の除幕式
07.21
オタワで、英帝国経済会議開催 ブロック経済形成
07.31 独で、総選挙の結果、ナチスが第1党に
08.18 百貨店に対抗して、全日本商店会連盟設立
英のチャドウィック、中性子を発見
10.03 満州国建設部隊第1次武装移民団416人、東京駅を出発

第1回ラジオ調査
 人気番組:浪花節、講談、落語、人情噺
02.16 ラジオ聴取契約、100万件を突破
06.01 「コドモの時間」の放送開始
06.06 NHK、野鳥の声を初めて中継放送
10.30 小松製作所、国産初のトラクターを完成
11.19 逓信省の曽根式テレビジョンの公開実験に成功
11.26 昭和石炭設立
12.06 日豊本線(小倉~鹿児島)全通
12.31 除夜の鐘を、ラジオ7局の全局リレー中継で放送
1932年の政治
01.01
 蒋介石の南京政府と汪兆銘の広東政府が妥協し、新国民政府が南京に樹立 林森、主席に就任
01.04
 ガンジー死に至る断食」開始
01.07
 米、日中に、日本の満州占領不承認のスティムソン・ドクトリンを通告

01.08
 桜田門事件
 皇居桜田門外で朝鮮人による天皇爆殺未遂事件が発生

01.18
 上海で中国人による日蓮宗日本人僧侶殺傷事件が発生(上海事変のきっかけ)

01.28
 上海事変
 上海で日中両軍が衝突
 05.05
 停戦協定調印

02.05
 関東軍、ハルビンを占領し、東北三省を制圧

02.09
 血盟団事件
 民政党で次期総裁の有力候補だった井上準之助(62)、血盟団員の小沼正に射殺される

02.18
日本、満洲国の独立を宣言

02.22
 上海の廟巷鎮攻撃で、江下、北川、作江の3人の一等兵が鉄条網を爆破しようとして自爆
 「肉弾三勇士」として美化

02.29
 リットン調査団来日

03.01
 中国で、溥儀を執政とする満州国建国を宣言
04.04
 ピッツバーグ大学教授のチャールズ・グレン・キング、レモンジュースからビタミンCの分離に成功
05.15
 1932
 五・一五事件
 海軍青年将校と陸軍士官候補生9人、官邸を襲撃し犬養毅総理を射殺

05.16
 内閣総辞職
 政党政治に終止符
05.26
 斎藤実(海軍大将)挙国一致内閣成立
 政党内閣制崩壊
06.29
 警視庁、特別高等警察(特高)を課から部に昇格

08.25
 焦土外交演説
 内田康哉外務大臣、「満州国」承認決意表明で「国を焦土にしても」と答弁
09.15
 日満議定書調印
 日本政府、満州国を正式に承認
10.02
 外務省、国際連盟が派遣したリットン調査団がまとめた満州事変の調査報告書「リットン報告書」を公表
11.08
 米大統領選挙で、フランクリン・ルーズベルトが当選
11.12
 司法赤化事件










歴史認識を考えてみる(16-5)

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      国際連盟脱退~日中戦争前夜

湯川秀樹/ハチ公/富士フイルム・富士通・キャノン・三菱重工・日産・トヨタ自動車/小林多喜二・中原中也/タイガース・ジャイアンツ


左地図は満州国鉄道路線図 画像元 右画像は満州国特急あじあ 画像元
イメージ 1



1933~1935
満州国をめぐるあれこれ
manshu_map01.jpg
http://mizuhonokuni.sblo.jp/archives/201101-3.html

3.南京国民政府:国共内戦期(大戦前)http://www.y-history.net/appendix/wh1403-091.html
1929~1936年。南京国民政府は蒋介石独裁の性格が強かったため、しばらく反蒋介石勢力との間で内戦が続いた。
また国共合作崩壊後は中国共産党は独自の根拠地造りに進み、対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。共産党は根拠地を井崗山から1931年に瑞金に移して
中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。その間、毛沢東が主導権を握り、党勢を拡大していった。
その間、1931年の満州事変から日本の満州侵略が始まり、東北地方に「満州国」を成立させたが、蒋介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させた。
その間に日本は中国本土への侵攻を開始する勢いを見せ、
危機感を持った東北軍の張学良が蒋介石を監禁して内戦停止を迫り(1936年西安事件)、蒋介石もそれを受け入れた。

明治以降、1932年までの日本と国外との衝突をまとめてみると。。
1894年 旅順虐殺事件  日本側声明
1895年 日清戦争下関条約(朝鮮の清國に対する朝貢の廃止、台湾割譲、重慶などの租界獲得)
1897年 大韓帝国成立
1900年 義和団の乱(これに乗じてロシアが満州に居座る)
1904年 日露戦争 ポーツマス条約(ロシア方式の拡大解釈により結果的に内満州を日本、外満州をロシアと分け合う形になる)
1905年 満州善後条約 (日露戦争後の条約の補完で日本と清との条約。張学良が否認するまで継続)
1909年 日清協約間島問題の解決) 間島とは
1910年 韓国併合 背景とは?
1911年 辛亥革命(清が倒れ中華民国建国孫文来日。
1914年 第一次大戦で日本は地中海、インド洋、青島派兵(第一次大戦下の日本
1915年 孫文との密約に基づく対華21条要求(中国大陸でのドイツの権益を取得)袁世凱の誇張表現で反日気運。その真相 袁世凱とは?
1918年 シベリア出兵
1919年 第一次大戦に対するパリ講和会議五四運動で反日気運高まる)
1922年 山東省膠州湾を中華民国に返還(山東還附
1924年 第二次奉直戦争 第一次国共合作 日本は張作霖の奉天軍を支持した
1926年 蒋介石が北伐開始 直隷派壊滅(欧米が支援していた)、張作霖北京入城 
1927年 南京事件 漢口事件 日本は第一次山東省派兵(日本人居留区を守るため)
1928年 蒋介石が北伐2開始。日本は第二次山東省派兵 張作霖敗北
       張作霖爆殺事件(関東軍の暴走始まる。背景は張作霖を庇護していた関東軍への裏切りと欧米寄りの蒋介石に敗北して満州を取られる危険)ソ連の陰謀説 
1929年 世界恐慌 光州学生事件
1930年 間島共産党暴動 残党が朝鮮人抗日パルチザンとなる
1931年 満州事変 柳条湖事件 関東軍錦州爆撃万宝山事件(朝鮮人vs中国人の水争い)
1932年 リットン調査団 スティムソンドクトリン(1月)上海事変 関東軍ハルビン占領(東北部制圧)
       満州国建国(3月1日)

日本による満州経営の法的根拠と条約

そもそも日露戦争後のポーツマス条約によって、日本が満州に関して得た利権は下の項目の4と5でした。
  1. 日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  2. 日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  3. ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  4. ロシアは東清鉄道の内、旅順長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  5. ロシアは関東州旅順大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  6. ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
その後、清朝との間で、満州善後条約(「中日会議東三省事宜正約」)が北京において結ばれました。

新しい要求には南満洲鉄道の吉林までの延伸と同鉄道を守備するための日本軍の常駐権沿線鉱山の採掘権保障、同鉄道に併行する鉄道建設の禁止安奉鉄道の使用権継続と両国共同事業化営口安東奉天における日本人居留地の設置の許可鴨緑江右岸の森林伐採合弁権獲得などが認められ、以後の満洲経営の基礎となった。

これらの条項は辛亥革命以後も北洋政府奉天軍閥などに継承されたが、満洲某重大事件(張作霖爆殺事件)後に奉天軍閥を継いだ張学良が同条約を否認して併行鉄道の建設を推進し、満州事変の遠因となった。wiki満州善後条約


この張作霖爆殺事件は、日本の軍事行動ではなく犯罪事件でしたが、日本の運命が変わって行きました。
犯人は処罰され、内閣は総辞職しましたが、半分大陸の軍閥のひとつと化していた関東軍の暴走は
止まりません。そしてついに満州事変が。

国際組織の満州に対する調査
前回も紹介したリットン調査団の調査結果の前に、激しい戦闘を経て満州国は建国されます。
そして、ポーツマス条約で得られたのはノーベル平和賞という名誉だけで満州の利権を取り逃がしたアメリカが口をはさみます。
米、日中に、日本の満州占領不承認のスティムソン・ドクトリンを通告

このヘンリー・ルイス・スティムソンは、アメリカの諸葛孔明のような人物で、その明晰さで京都を原爆の被害から守りました。
彼の言動はこちらで (論文PDFボタンをクリック)
彼は「日本陸軍の行動を日本政府が止められないでいる」との認識を持っていました。

満州占領不承認と紛争地域認定に対して満州国成立で対応
満州国成立は成り行きではあったものの、旧清國皇帝が先祖の地に建てた国であることには変わりありませんでした。後ろ盾のついた一種の亡命政権といえるかもしれません。

20世紀初頭の中国に対する国際認識に誤りがあり、「満州国は日本の傀儡国家」にされていますが、満州帝国建設の主体は皇帝溥儀です。
当時、帝師(家庭教師)として溥儀と一緒に行動していたイギリス人、レジナルド・フランクリン・ジョンストンがその著作「紫禁城の黄昏」のなかで、清国皇帝から満州帝国建国を決心するまでを書いています。
1924年に馮玉祥に殺害されかかった溥儀が日本公使館に逃げ込むのですが、「日本が拉致した」という風聞が流れ社会に信じられているのです。
満州帝国建国に当たっては、袁金凱、熙洽、湯玉麟、張景恵らが溥儀を満州の王と認め協力しています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1495648464


世界がなんと言おうと漢族の内輪もめは万里の長城より西で行えば良い、8万人もの血を流してロシアから勝ち取った権益を我々は守リ抜くというのもひとつの考え方ではあります。

満州国の建国は日本の租界に逃げ込んできた皇帝の処遇と、泥沼の戦闘が続く中原の軍閥から満州を守ること、そしていずれは返還しなければならないという租借問題を同時に解決する有効な手段であったかもしれません。そしてそれは計らずも近代化した東アジアブロック経済圏を朝鮮、台湾の自治領とともに築いたことになりました。

しかも、満州を分け合う形になったため日露関係は改善し、南満州は工業地域としても発展を続けていたので、欧米、特に有望な投資先として門戸開放を求めるアメリカからは傀儡国家など許すまじと激しい嫉妬と反発をかうのでした。

満州国の法整備と問題点
関東州にもとから住んでいたのは満州族や漢民族(つまり中国人)だが、朝鮮や台湾、南樺太など他の植民地と違って、日本政府は彼らに日本国籍を与えなかった。関東州はいずれ中国に返す(ことになっている)租借地なので、彼らは中国国籍のままとされた。1925年(大正14年)版『関東庁要覧』の人口統計によれば、日本人8万8336人(うち内地人=現代でいう日本人8万7572人、朝鮮人764人)に対して、支那人(漢民族と満州族、モンゴル族)は63万7110人、他の外国人(主にロシア人)が416人だった。

ところが1932年、関東軍の暴走によって隣に満州国が成立するとヤヤコシイことになる。日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく、民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたので、「そもそも支那(中国)と満州は別である」ということになり、満州や関東州に住む漢民族や満州族、モンゴル族は、それまでの中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられ、中国系住民は関東州の公文書などでの呼称もそれまでの「支那人」から「満州人」になった(※)。関東州も中国から租借していたものが、満州国から租借したことに変更された。 

満州国は日、漢、満、蒙、鮮の「五族協和」を掲げていたが、では残る日本人と朝鮮人も満州国籍に変わったかといえば、こちらは日本国籍のまま。満州国の成立は「五族が団結して王道楽土の新国家を建設する」のが目的なら、日本も関東州を満州国へ「返還」すべきだし、関東州や満州在住の日本人は日本国籍を捨てて満州国籍を取るのが当然のはずだが、そういうことを実際にやろうとしたキトクな日本人はほとんどいなかった。満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は「関東州は廃止して、日本人はみな満州国籍を取るべき」と主張していたが、無視されたうえに左遷された。もっともそう言う彼も、「関東軍を解散して満州の日本兵はすべて満州国軍へ移るべき」とか、「天皇陛下の軍隊はやめて溥儀皇帝だけに忠誠を誓うべき」とは主張しなかったようだ。

かくして満州在住の日本人は、日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き、その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず、義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用して、満州国の警察や裁判所に従おうとせず、都市部では税金が安い満鉄附属地に住んでいた。企業も関東州や満鉄付属地で登記して「日本企業」として税制特権を利用した。満州国は首都・新京をはじめ奉天、撫順、営口、安東、鞍山など主な都市の中心部はほとんどが日本が行政権を持つ満鉄附属地で、満州国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。
日本政府もさすがに在満日本人のこうしたワガママぶりを放置し続けるわけにはいかず、1937年には満州における日本の治外法権を撤廃して、満鉄付属地は満州国へ返還した(※)。そして「満州で営業する日本企業は、日本の法律によって設立されていても、満州の法令に基づく満州企業とみなす」「在満日本人の相続、遺言などに関する判決は満州国の裁判所に従うこと」などの法令を次々と出した。
※満州在住の日本人や日本企業は「満州国の税制が適用されたら税金が上がる」と一斉に猛反発した。そこで満州国は日本企業の法人税を33~66%減免、日本人個人経営者の営業税を50~75%減免する優遇措置を実施し、さらに「国税徴収法」や「租税犯処罰法」によって、日本人や日本企業が脱税しても満州国は拘留や罰金徴収ができないことになった。
一方で、日本人子弟に対する教育や神社の管理は引き続き日本政府の管轄として残されたため、満州国政府は「満州建設」のためにやってきた数百万人の移民の子供に、「満州国民」としての国民教育を施すことはできなかった。
それどころか、満州国は国籍法を制定しなかった。そもそも国家というものは領土と国民、主権があって初めて成り立つものだが、満州国は「誰が満州国民か」を明確にすることができなかった。もし満州国が国籍法を作ると、満州在住の日本人は日本の法律が禁じている二重国籍になり、日本国籍を捨てなければならなくなる。そうすると、政府がいくら宣伝をしても満州へ移民しようとする日本人はいなくなり、せっかく送り込んだ満蒙開拓団も「日本人をやめて満州人になれなんて、話が違うべ!」と逃げ出しかねない。だいいち関東軍が満洲の日本人を徴兵することは不可能になる。そのため満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた。国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず、議会は存在せず、満州国は最後まで憲法を制定できなかった。

  
左:日本語を習う満人(=中国人)の女学生 右:防空演習を見学するハルビンの日本人女性たち。満州へ移民したけど「大日本国防婦人会」

※1942年6月末の関東州の人口統計では、日本人22万6222人(うち朝鮮人約6000人)、満州人131万5790人、外国人1637人で、総人口154万人のうち大連市に74万5000人が居住。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/china/kantosyu.html
満州国全体の地域別人口統計はこちらで。1942年には約4400万人が暮らした。



1933年~1935
昭和八年
1933
【出版】
色ざんげ(宇野千代)
 女の一生(山本有三)
 春琴抄(谷崎潤一郎)
 桃太郎の誕生(柳田国男)
 人生劇場(尾崎士郎)
 ロシア革命史(トロツキー)
04.07 小林多喜二の「蟹工船・工場細胞」発禁処分
 石坂洋次郎の「若い人」、三田文学に連載
島田啓三「冒険ダン吉」、少年倶楽部に連載
02.20 小林多喜二拷問死
03.18 尾崎士郎の「人生劇場・青春編」、都新聞に連載開始
12.10 「岩波全書」刊行
【世相】
ロングスカートが引き続き流行 ワニ革流行
ヨーヨー大流行
三原山投身自殺 1年間で男804人女140人
 サクラ読本使用開始
 喜劇団「笑いの王国」、浅草常盤座で旗揚げ(古川ロッパ・徳川無声・大辻司郎ら)
 浅草軽演劇黄金時代
 横浜に「ちぐさ」開店 日本初のジャズ喫茶
01.09 大島の三原山で、実践女学校専門部の生徒が友人立合いのもと投身自殺(初の三原山投身自殺)
01.13 警視庁、市電の速度を平均時速16キロから20キロに上げることを許可
02.04 教員赤化事件 長野県で、小学校教員を共産党関係者として一斉に検挙
02.09 日比谷公会堂で、パリ音楽院を首席で卒業した原智恵子のピアノ独奏会開催
02.12 大島の三原山で、再び実践女学校専門部の生徒が投身自殺その後自殺者続出
02.27 バーナード・ショー来日
03.03 三陸沖地震(M8.1)3千人死亡・不明
03.22 独のハーゲンベック・サーカス団来日
05.03 独の建築家ブルーノ・タウト来日
05.20 ミス・コロムビア(本名:松原操)、「十九の春」で歌手デビュー
06.17 ゴーストップ事件 大阪市天神橋六丁目交差点で信号無視の兵隊とそれを注意した警官が衝突
06.15 ターキーストライキ 松竹少女歌劇団、待遇改善を要求し、湯河原に篭城
07.06 大リーグで初のオールスター戦(シカゴのコミスキー・スタジアム)
07.10 神兵隊事件
07.25 山形で日本最高気温40.8度を記録
08.17 ニューヨーク・ヤンキースのルー・ゲーリック、連続1.308試合出場の新記録を樹立
08.19 中等学校野球大会準決勝、中京商、明石中と延長25回4時間55分熱戦の末勝利
08.20 前畑秀子、400m平泳ぎで世界新記録
09.23 品川で第1回全日本ヨット選手権大会
10.06 浅草でマッチ売りの少年に児童虐待防止法が初適用
10.22 リンゴ事件 早慶戦で、慶應の水原茂三塁手が早稲田側応援席から投げられたリンゴを投げ返して乱闘に発展
【洋画】
 四十二番街 3.9 アメリカ 監督:ロイド・ベーコン  出演:ビービー・ダニエルズ 
 キング・コング 4.7 アメリカ 監督:メリアン・C・クーパー 出演:フェイ・レイ
【邦画】
 恋の花咲く 伊豆の踊子   原作:川端康成 監督:五所平之助 出演:田中絹代  
 処女よ、さよなら 6.30
  監督:五所平之助  出演:岡田嘉子
滝の白糸 原作:泉鏡花「義血侠血」監督:溝口健二 出演:入江たか子、岡田時彦
 丹下左膳 第一篇 監督:伊藤大輔
  出演:大河内伝次郎
 涙の渡り鳥  監督:野村芳亭
【流行歌】
十九の春 松竹映画「十九の春」主題歌
 作詞:西條八十 作曲:江口夜詩
 歌:ミス・コロムビア
東京音頭 作詞:西條八十 作曲:中山晋平
 歌:小唄勝太郎、三島一声
島の娘 作詞:長田幹彦 作曲:佐々木俊一
 歌:小唄勝太郎
東海林太郎、「河原月夜」で歌手デビュー

1933年の経済
1933年の政治

02.17
 米で、週刊誌「ニューズウィーク(News-Week)」創刊
創刊: 文学 四季 文学界
 行動
創立: 自動車製造(翌年、日産自動車に改称) 12.26
豊田自動織機製作所、自動車部を設置(トヨタ自動車) 9.1
 精機光学研究所(キャノン
 個人組織の田邊五兵衛商店を株式会社に改組(田辺製薬、1678年創業)
 エールフランス(仏) 8.30 
ビスコ(江崎グリコ)
 カゴメトマトジュース(愛知トマト製造、のちのカゴメ)
 丹頂チック(金鶴香水、のちのマンダム)
 「のらくろ」玩具面、爆発的売れ行き
 ブラジルコーヒーの輸入急増
 大日本麦酒、ビタミン麦酒を発売 
02.24 山陰本線全通
03.13 横浜の消防署に日本初の救急車が登場 神奈川県警察部、横浜消防署にキャデラックを改造した初の救急車を配置
04.21 英で、ポリエチレン開発
05.18 王子製紙、富士製紙と樺太工業を吸収・合併し、資本金1億4998万円の製紙トラストが成立
05.20 大阪で初の地下鉄(梅田~心斎橋)
06.19 工業組合中央会設立
06.19 東海道本線の丹那トンネルが貫通
09.15 中央線(東京~中野)で朝夕の混雑時に急行電車運行
09.28
 新宿に、7階建デパート「伊勢丹」開店 アイススケート場を併設
(1886小菅丹治、神田旅籠町(秋葉原)伊勢屋丹治呉服店創業
1923関東大震災により焼失 
1924 再建後、座売を百貨店に
1930 株式会社伊勢丹設立)
10.05 上高地帝国ホテル開業
10.27 日本商工会議所など9団体、全日本商権擁護連盟を結成
11.18 東京府中競馬場開場
11.25 東洋一の芝浦スケートリンク開場
11.27 関東大震災で焼失した湯島聖堂の孔子廟が復元
12.20 草津スキー場に、日本初のナイター設備が設置
12.24 日本劇場(日劇)開場(有楽町)
12.21 日本セメント輸出協会設立 
 テニス選手のルネ・ラコステ、緑色のワニのロゴ ラコステ(LACOSTE)を創業
 生糸が大暴落し蚕糸恐慌が深刻化する.
【没】
堺利彦(62歳 1.23)
 小林多喜二(29歳 2.20)
 吉野作造(55歳 3.18)
 宮沢賢治(37歳 9.21)
 新渡戸稲造(71歳 10.16 カナダ時間10.15)
 片山潜(73歳 11.5)
【流行語】
男装の麗人 転向 非常時 ヨーヨー
 ゴーストップ
03.04 ルーズベルト、米大統領に就任
03.09 ニューディール政策(救済・回復・改革)発表

03.27
 国際連盟脱退国際協調主義時代の終焉)

04.01 独で、ナチスによるユダヤ人商店に対する不買運動が始まる
04.22 滝川事件 鳩山一郎文部大臣、京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授に辞職を要求
05.26 文部省、文官分限令により滝川幸辰教授の休職処分を強行
05.31 塘沽停戦協定  関東軍と北平軍とが停戦協定
06.07 日本共産党幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向を表明 その後、転向者が続出
ソ連、大飢饉 500万人以上死亡 農業集団化計画失敗
 スターリンの独裁
01.30 ヒンデンブルク大統領(ワイマール共和国第2代大統領)、ヒトラーを首相に指名 ナチス、政権獲得 ヒトラー、総統に就任
ユダヤ人・共産党員の追放・弾圧、政党解散、自治権剥奪、思想統制、粛清断行
 03.23 独裁制樹立
 10.14 ベルサイユ条約破棄
 10.19 国際連盟脱退(国際協調主義時代の終焉)
12.05 米、禁酒法撤廃
10.17 アインシュタイン、ナチスの迫害を受けアメリカ移住
12.09 軍民難間声明 陸軍省と海軍省、財界・政党などの軍部批判は軍民難間を狙ったものと抗議
12.23 スパイリンチ事件
12.23 皇太子・継宮明仁親王誕生昼:旗行列 夜:提灯行列









昭和九年


34
【出版】
あにいもうと(室生犀星)
 鶴八鶴次郎(河口松太郎)
 白南風(北原白秋)
 紋章(横光利一)
 山羊の歌(中原中也)
01.14 時事新報、「番町会問題をあばく」の連載を開始(帝人事件の発端)
03.16 東郷青児、宇野千代、麻雀賭博検挙
05.02 出版法が改正され、皇室の尊厳冒涜などの取締まりを強化
05.23 川端康成、越後湯沢を訪問
12.10 中原中也の詩集「山羊の歌」刊行
文化裁縫女学校(文化服装学院)、書籍「洋裁全書」、服装専門雑誌「服装文化」 
【世相】
東北地方で大凶作
 欠食児童・行き倒れ・自殺者増加
東京市内でアパートブーム
 下宿屋廃業続出
パーマネントが普及 開襟シャツが流行
資生堂化粧品部3Fに資生堂美容室を開設
マダム・グレ、パリにメゾンを開店
04.02 法隆寺、昭和の大修理に着手
04.14 大阪府特高課、大人の好奇心を煽るという理由からグリコの景品「恵比寿大国天人形」15万個を押収
04.21 渋谷駅前に、「忠犬ハチ公」の銅像を建立 ハチ公も除幕式に列席
04.25 上方漫才東京進出 吉本興業「特選漫才大会」開催(新橋演舞場)
05.23 ルイジアナ州のハイウェーで待ち伏せ保安官、強盗犯のボニーとクライド射殺 
06.25 築地本願寺落成
 伊東忠太設計の古代インド様式建築
07.04 キューリー夫人白血病で死去
07.08 ウィンブルドン・テニス選手権の混合ダブルスで、三木竜喜が英のラウンドと組んで優勝
09.08 第1回日米対抗陸上競技大会が神宮外苑競技場で開幕
09.24 ベーブ・ルース、最後の試合に出場
11.02 大リーグ選抜チーム来日(ベーブ・ルースルー・ゲーリックら)
11.05 第1回全日本拳闘選手権大会開催
 ピストン堀口
11.29 神宮でアメリカンフットボール初試合
12.12 日本サイクル競技連盟創立
12.26 大日本東京野球倶楽部(読売ジャイアンツ)創立(沢村栄治、スタルヒンら)
【洋画】
或る夜の出来事 2.22 アメリカ 08/29/(日本公開)  出演:クラーク・ゲーブル クローデット・コルベール
 意志の勝利 3.28 ドイツ ナチス党大会の記録映画 1942/03/(日本公開)
 かしこいメンドリ 6.9 アメリカ ディズニーのアニメ 監督:ウィルフレッド・ジャクソン
久遠の誓ひ アメリカ 出演:シャーリー・テンプル ゲイリー・クーパー 
【邦画】
婦系図 監督:野村芳亭 出演:田中絹代
丹下左膳剣戟編 3.29出演:大河内伝次郎
一本刀土俵入 7.14 監督:衣笠貞之助
 金環蝕 11.1 原作:久米正雄
  監督:清水宏 出演:桑野通子
 沓掛時次郎 1.13 原作:長谷川伸
  監督:衣笠貞之助 出演:林長二郎
 生きとし生けるもの  監督:五所平之助
 浮草物語 11.23 監督:小津安二郎
【ラジオ】
01.12 日本放送協会、第1回アナウンサー採用試験を実施 競争率30倍
01.14 第1回全国ラヂオ青年雄弁大会中継
05.12 マニラの第10回極東選手権競技会で、ラジオ初の海外実況中継
11.11 日本放送協会、陸軍特別大演習を実況放送
【流行歌】
山の人気者 歌:中野忠晴
 赤城の子守唄 歌:東海林太郎
 国境の町 歌:東海林太郎
 並木の雨 歌:ミス・コロムビア
 ダイナ 歌:ディック・ミネ(本名:三根徳一)
11934年の経済
1934年の政治
3 クリームキャラメル(明治製菓)
 フランスキャラメル(不二家)
 国産第1号パーマネント機
 精機光学研究所(キャノン)、
国産初35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「KWANONカメラ(カンノン1号)」発売
花王石鹸、洗濯洗剤「ビーズ」
創刊: 神戸っ子(日本初のダウン情報誌)
服装文化(初のスタイルブック)
創立:
01.20 富士写真フイルム設立
01.29 日本製鐵設立
 製鉄業トラスト化
03.28 石油業法公布
     業者の貯油が義務付け
04.11 三菱造船所、三菱重工業と改称
06.01 自動車製造、「日産自動車」と改称
06.21 陸軍省、カーキ色を国防色とし被服統一運動を開始
7.1 ボーイング航空機会社(米)
01.01 有楽町に東京宝塚劇場開場 有楽町、新しい娯楽街に
02. 日比谷映画劇場開場
03.16 内務省、国立公園法により瀬戸内海・雲仙・霧島を日本初の国立公園に指定
03.21 函館で大火(2.000人以上死亡)
08.16 新宿に東洋一のアパート「同潤会江戸川アパート」建設
 エレベーター・集中暖房完備
08.23 阿寒、日光、中部山岳、阿蘇を国立公園に指定
09.14 帝国競馬会が初めて購入した英のサラブレッドが入港
09.21 室戸台風、大阪に上陸
 3.036人死亡・行方不明
10.06 学生・未成年者のカフェバー出入りを禁止
11.01 満鉄、特急あじあ号運転開始(大連~新京8時間20分)
11.17 湯川秀樹、「中間子仮説」発表
12.01 日本のトンネル技術のあけぼの丹那トンネル完成(完成までに16年、67人が犠牲に)
12.08 日米国際無線電話回線開通(東京~サンフランシスコ)
12.30 逓信省、初の年賀電報の取扱を開始
【没】
岡田時彦(32歳 1.16)
 東郷平八郎(88歳 5.30)
 キューリー夫人(66歳 7.4)
 竹久夢二(49歳 9.1)
 高村光雲(82歳 10.10)
【生誕】
 藤子・不二雄・A(3.10)
 田原総一朗(4.15)
 愛川欽也(6.2
 山村美紗(8.25)
 ソフィア・ローレン(9.20)
 筒井康隆(9.24)
 ブリジッド・バルドー(9.28)
 皇后美智子(10.20)
 井上ひさし(11.17)
 石原裕次郎(12.28)
【流行語】
開襟シャツ パーマネント
 国防色 昭和維新
 司法ファッショ 明鏡止水
01.14
 時事新報、「番町会問題をあばく」の連載を開始(帝人事件の発端)

03.01
 満州国が帝国になり、溥儀が皇帝に即位

03.09
 番町会を追及していた時事新報相談役で前鐘紡社長・武藤山治(66)が北鎌倉で狙撃され、翌日、死亡
 犯人の福島新吉はその場で自殺

04.18
 帝人事件 高木帝人社長を背任容疑で逮捕
 疑獄事件に発展

06.05
 東郷平八郎海軍大将(元帥)国葬(初の国葬)
06.30
 レーム事件
 ヒトラー、同志のエルンスト・レーム(47)ら突撃隊幹部77人を処刑
07.03
 斎藤実内閣、帝人事件で総辞職

07.08
 岡田啓介内閣成立
08.02
 アドルフ・ヒトラー、ヒンデンブルク独大統領の死去により、総統(ナチス・ドイツ初代指導者)になる

09.18
 ソ連、国際連盟に加入
10.15
 中国紅軍、瑞金を脱出し、長征(大西遷)を開始
 11.10
 国民政府軍、瑞金を占領
 第5次掃共戦終了
12.01
 キーロフ、トロツキー派の手により暗殺
 ソ連でトロツキー派らに対する血の大粛清始まる
12.03
 ワシントン条約の単独破棄通告を決定
 国際的孤立と侵略戦争の道へ


5

7

8

9

昭和十年


35

【出版】
丹下左膳(林不忘)
人生劇場・青春編(尾崎士郎)
 夜明け前・第2部(島崎藤村)
 風土(和辻哲郎)
 雪国(川端康成)
04.09 美濃部達吉の「憲法撮要」などが発禁処分
07.30 英のボードリ・ヘッド社、「ペンギン・ブックス」発売
08.23 吉川英治「宮本武蔵」朝日新聞連載
高垣眸の「怪傑黒頭巾」、少年倶楽部連載
11.26 日本ペンクラブ結成(会長:島崎藤村)
 第1回芥川賞 石川達三(蒼氓)
 第1回直木賞 川口松太郎(鶴八鶴次郎)
【世相】
丹那トンネル開通の効果で、伊豆・熱海温泉街賑わう  松坂牛
喫茶店流行 ビーズ製バッグが流行
 脱毛剤が流行 月賦販売流行
 漫画家志望の若者増える
女学生に「きみ」「ぼく」などの男言葉流行
江崎グリコ大阪ミナミ戎橋にネオン塔(33m)
国鉄「煙草御遠慮下さい」から「禁煙」に変更
01.28 宮本顕治、中条百合子と獄中結婚
03.16 太宰治、鎌倉山で首吊り自殺未遂
02.11 東京中央卸売市場(築地市場)開場
03.08 忠犬ハチ公、路上で死亡
03.21 吉田岩窟王事件 吉田石松、23年ぶりに秋田刑務所を仮出所
04.04 関東大震災で崩壊した湯島聖堂、鉄筋コンクリート造りで再建
04.21 台湾大地震(M7.1)3.000人以上死亡
05.01 第16回メーデー(戦前最後)
05.13 英空軍を退官したトマス・エドワード・ロレンス(アラビアのロレンス)、オートバイ走行中に事故(6日後、死亡)
08.06 種田山頭火、自殺未遂
06.27 上海の金城大戯院で藍蘋(のちの江青)、イプセンの「人形の家」(ノラ役)に出演
07.15 風呂付特急「富士」(東京~下関)登場 1等・2等客限定 入浴料30銭
08.01警視庁パトカー(無線自動車)の開始
11.03 警視庁初の保険金殺人事件本郷で
11.11 芝浦に日本初の車庫付きのアパート
12.30 日劇地下に日本初のニュース・短編映画専門館「第一地下劇場」開場
02.14 大日本野球倶楽部、米遠征に出発
03.08 初のハンドボール国際試合開催
03.14 東京神宮競技場で、全米学生チームによるアメリカンフットボール競技会開催
05.21 武蔵山、横綱に昇進
05.24 シンシナティで初のナイトゲーム
06.03 ベーブ・ルース、現役引退
06.09 吉岡隆徳、日比対抗競技会で、100m10秒3の世界タイ記録「暁の超特急」
【洋画】
戦艦バウンティ号の叛乱 11.8 アメリカ監督:フランク・ロイド出演:クラーク・ゲーブル
 虚栄の市 6.13 アメリカ 世界初のカラー出演:ミリアム・ホプキンス フランシス・ディ
 フランケンシュタインの花嫁 4.22 アメリカ 1935/07/(日本公開) 監督:ジェームズ・ホエール 出演: エルザ・ランチェスター 
 巨人ゴーレム  チェコ/フランス 1936/02/19/(フランス公開) 1937/07/(日本公開)
 アンナ・カレニナ 8.30 アメリカ 1936/04/30(日本公開) 原作:レフ・トルストイ 監督:クラレンス・ブラウン 出演:グレタ・ガルボ 
 テンプルちゃんお芽出度う 8.2 アメリカ 1935/12/(日本)出演:シャーリー・テンプル
 テンプルの愛国者 11.22 アメリカ 1936/04/(日本公開) 出演:シャーリー・テンプル
 キートンの自由結婚(The E-Flat Man) 8.9 アメリカ  出演:バスター・キートン
【邦画】
貞操問答 高原の巻 2.1 都会の巻 2.14
  原作:菊池寛 監督:鈴木重吉
 忠次売出す 2.28 監督:伊丹万作
  出演:市川朝太郎 月形龍之介 志村喬
 放浪記 6.1 原作:林芙美子
  監督:木村荘十二
  出演:夏川静江、藤原釜足、滝沢修
 春琴抄 お琴と佐助 6.15 監督:島津保次郎 出演:田中絹代、高田浩吉
 丹下左膳餘話 百萬兩の壺 6.15
  監督:山中貞雄 出演:大河内伝次郎
 雪之丞変化 第一篇 6.27 第二篇 10.1
  原作:三上於菟吉 監督:衣笠貞之助
 この子捨てざれば 監督:斎藤寅次郎
  出演:小倉繁 突貫小僧 出雲八重子
 緑の地平線 前篇 10.1 後篇 10.9
  監督:阿部豊 出演:原節子
 エノケンの近藤勇 10.11 監督:山本嘉次郎 出演:榎本健一
 新納鶴千代 10.15 原作:郡司次郎正「侍ニッポン」 監督:伊藤大輔 出演:阪東妻三郎、山田五十鈴、月形龍之介
 東京の宿 11.21 監督:小津安二郎
  出演:岡田嘉子、飯田蝶子、笠智衆
【流行語】
暁の超特急 天皇機関説 国体明徴
 人民戦線 ソシアル・ダンピング
昭和の岩窟王

51935年の経済
1935年の政治
1創刊: 漫画の国 日本映画 11.8 世界文化 2.1 日本浪漫派
 歴程

山野愛子、国産パーマ機「ヤマノスター号」を開発
 ドレスメーカー女学院、日比谷公会堂で創立10周年記念の日本人による初の本格的なファッションショーを開催 
 文化裁縫女学校
、「財団法人並木学園」を設置
吉田カバン(株式会社吉田)神田須田町に吉田鞄製作所設立 
精機光学研究所(のちのキャノン)、近江屋写真用品株式会社の名前で「ハンザキヤノンカメラ」発売 
 米のファッション雑誌「ヴォーグ誌」、リーバイスの広告を掲載
01.24 米のクルーガー・ビール、世界初の缶ビール発売
02.28 米のデュポン社、ナイロンの開発成功(デュポン社のカロザース、ナイロンの特許取得)
02.26 秀英舎が日清印刷と合併し、大日本印刷と改称
03.20 秋田市八橋で採掘の日本鉱業会社の油井で大噴出
05.01 株式会社早川金属工業研究所(シャープ株式会社)設立
08.17 池上鉄工所、超硬合金刃物の超高速旋盤を発表
06.20 富士通信機製造株式会社(富士通株式会社)設立
06.21 三井・三菱・古河・安田・大倉の共同出資で日本アルミニウム(株)設立
08.21 スイング・ジャズ ベニー・グッドマン、レコード・デビュー
11.13 浜松高工教授の高柳健次郎、アイコノスコープ式テレビの送受信機を完成し公開実験
11.29 小淵沢-小諸間の「高原鉄道」小海線が全通
12.14 豊田自動織機、愛知県挙母町に58万坪の土地を購入
12.15 松下電器産業株式会社設立
12.01 日本初の年賀切手(昭和11年用)発行(1銭5厘)
 渡辺華山の「富士」 年賀印は「波に鶴」
12.21 ダグラス社の双発プロペラ機(DC3)が初飛行
創立:
 大阪野球倶楽部(大阪タイガース、阪神タイガース) 12.10
 早川金属工業研究所(シャープ、創業は1912年)
 松下電器産業(創業は1918年)
富士通信機製造(富士通) 6.20
【没】
 坪内逍遥(75歳 2.28)
 与謝鉄幹(62歳 3.26)
 ロレンス(46歳 5.19)
 林不忘(35歳 6.29)
 寺田寅彦(57歳 12.31)
【生誕】
 倉本聰(1.1)
 プレスリー(1.8)
 阿刀田高(1.13)
 小山明子(1.27)
 大江健三郎(1.31)
 大藪春彦(2.22)
 畑正憲(4.17)
 久世光彦(4.19)
 美輪明宏(5.15)
 松尾和子(5.17)
 ジェームス三木(6.10)
 辰巳ヨシヒロ(6.10)
 フランソワーズ・サガン(6.21)
 筑紫哲也(6.23)
 野村克也(6.29)
 ダライ・ラマ14世(7.6)
 矢追純一(7.17)
 朝丘雪路(7.23)
 小澤征爾(9.1)
 赤塚不二夫(9.14)
 ジュリー・アンドリュース(10.1)
 常陸宮正仁親王(11.28)
 ウッディ・アレン(12.1)
 寺山修司(12.10)
【ラジオ】
04.15 学校向けラジオ放送開始
06.16 東京日日新聞、ブッポーソーと鳴く鳥が、実は仏法僧ではなくコノハズクであったことが判明したと報道 ラジオで仏法僧の鳴き声を放送したところこれに合わせて飼われていたコノハズクが鳴いたことから。
01.13 中国共産党大会で毛沢東の指導体制が確立

02.18 貴族院本会議で、菊池武夫議員(陸軍中将)、美濃部達吉議員(東京帝国大学名誉教授)の「天皇機関説」を非難

02.20 日本共産党の機関誌「赤旗」、187号で廃刊

02.25 美濃部達吉、貴族院本会議で「天皇機関説」攻撃に反論
03.16 独、ベルサイユ条約の破棄と再軍備を宣言

03.21 ペルシャ、国名をイランとする

03.23 衆議院「天皇機関説」排撃の国体明徴決議案を可決

04.06 満州国皇帝「溥儀来日

05.15 モスクワ地下鉄開通 ソコーリニキとゴーリキー公園を結ぶ路線が最初に開通

05.19 独で、アウトバーン(フランクフルト~ダルムシュタット)開通

08.03 岡田啓介内閣、天皇機関説は「万邦無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るもの」とする国体明徴声明を発表

08.12 永田鉄山暗殺事件

07.05 米で、ワグナー法成立

09.15 独で、ニュルンベルク法公布 ユダヤ人市民権を剥奪

10.03 伊、エチオピア侵略開始
12.09 日英米仏伊による第2次ロンドン海軍軍縮会議開催

【流行歌】
旅笠道中
歌:東海林太郎

 野崎小唄
 歌:東海林太郎

 ハイキングの唄
 作曲:古賀政男
 歌:楠木繁夫

 むらさき小唄
 歌:東海林太郎

 二人は若い
 作詞:サトウハチロウ 作曲:古賀政男
 歌:ディック・ミネ、星玲子

 おしゃれ娘
 作曲:服部良一
 歌:淡谷のり子

 緑の地平線 日活映画「緑の地平線」主題歌 作曲:古賀政男 歌:楠木繁夫

もずが枯木で
作詞:サトウハチロー作曲:徳富繁


昭和十一年


36

11936年の経済
1936年の政治



6

7

11

昭和十二年


37

8

9

1
1


12

昭和十三年1
937


1



歴史認識を考えてみる(16-6)

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        2.26事件~日中戦争へ

2.26事件・戒厳令/木炭自動車D51/ガソリン不足・/日本・ブラジル国際電話盧溝橋事件廊坊事件通州事件朝日新聞社神風号仏政府から叙勲/前畑がんばれヘレン・ケラー来日



1936~1937
日中戦争の開始
画像は盧溝橋事件の地域
盧溝橋付近.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6

中国軍の戦力の拡大
中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、当時世界一といわれたチェコ製の軽機関銃などを装備し、火力では日本軍をはるかに上回り、第36師、第87師、第88師、教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けていた。1934年(昭和9年)、上海・南京間の陣地構築が始まり、1936年には陣地構築が急ピッチで進んだ。福山と呉県の間(呉福線)、江陰と無錫の間(錫澄線)、呉淞と竜華の間(淞滬線)、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された[2]
ゼークト大将とファルケンハウゼン中将は戦術だけでなく、戦争指導にまでかかわり、対日敵視政策、対日強硬策を蒋介石に進言した。ファルケンハウゼンは中国の敵は日本が第一、共産党を第二と考え、昭和10年1935年)10月には、漢口上海にある租界の日本軍を奇襲することを提案し、昭和11年1936年)4月には、いまこそ対日開戦のチャンスだと進言した[2]http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E4%BA%8B%E5%A4%89
日中戦争とは

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年昭和12年、民国紀元26年)から1945年まで、大日本帝国中華民国の間で行われた戦争である。大日本帝国政府は、勃発当時は支那事変としたが[2]1941年12月の対米英蘭の太平洋戦争開戦に伴い支那事変から対英米戦までを大東亜戦争とした[3]。 中国側は、抗日戦争と呼称している[4]
日本は国際社会から経済制裁を受ける
1937年7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日中間が全面戦争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では9月28日に中国の都市に対する無差別爆撃に対する23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。日本が支那における問題で国際的に孤立していく中、1938年9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始された。WikiABCD包囲網
※日本国内ではガソリンや金属などの物資が不足します。赤字公債を発行し、戦時体制の厳しい国家経営を強いられ、国内で自殺者が急増します。
http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=75&outputScale=4


これまでのまとめ
1924年 第二次奉直戦争 第一次国共合作 日本は張作霖の奉天軍を支持した。
1926年 蒋介石が北伐開始 直隷派壊滅(欧米が支援していた)、張作霖北京入城 
1927年 南京事件 漢口事件 日本は第一次山東省派兵(日本人居留区を守るため)
       蒋介石が北伐の途中大敗し最大の危機を迎えると松井石根は蒋を日本に呼び、
       時の田中義一首相に引き合わせ会談の結果、(蒙古・満洲問題を引き換えに)
       日本は蒋の北伐を援助し張作霖を満洲に引き上げさせた。
1928年 蒋介石が北伐2開始済南事件。日本は第二次山東省派兵 張作霖敗北 北伐完了
       張作霖爆殺事件(関東軍の暴走始まる。背景は張作霖を庇護していた関東軍への裏切りと
       欧米寄りの蒋介石に敗北して満州を取られる危険)ソ連の陰謀説 

1929年 中華民国は中ソ紛争を起こすが、ソ連に敗北してハバロフスク議定書が締結されて
      、中東鉄道及びその付属地からソ連の共産主義者を追い出す試みは失敗に終わった。
       世界恐慌 光州学生事件

1930年 間島共産党暴動 残党が朝鮮人抗日パルチザンとなる
       国共合作崩壊後は中国共産党は独自の根拠地造りに進み、
       対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。

1931年 満州事変 柳条湖事件 関東軍錦州爆撃万宝山事件(朝鮮人vs中国人の水争い)
       共産党は根拠地を井崗山から瑞金に移して中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、
       毛沢東を主席としたが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。
       その間、毛沢東が主導権を握り、党勢を拡大していった。

1932年 リットン調査団 スティムソンドクトリン(1月)第一次上海事変 関東軍ハルビン占領(東北部制圧)
       満州国建国(3月1日)
       満州国が誕生すると、蒋介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させた。

1933年 関東軍が山海関を占領 日本軍による北京攻略の東部回廊が確保され、
       2月に熱河作戦が実施されて熱河省は満洲国に併合された。
       日本政府が国際連盟脱退の詔書を発布 
       満州国が非承認国に対して門戸閉鎖  関東軍が長城線を越えて華北に進撃開始 
       蒋介石南昌で第5次共掃戦(共産党掃討戦)を準備開始
       関東軍に長城線への帰還命令  陸軍少年航空兵制度始る 
       日本が中国国民党との間で塘沽協定を結ぶ(満州事変の終結)。

1934年 満州国にて帝政実施。執政溥儀が皇帝となる。 海軍航海学校開校(横須賀市
       東郷平八郎元帥死去。東郷神社建設の声が全国で起る。  南京蔵本書記生失踪事件   
       陸軍省がパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を配布、社会主義国家創立を提唱 
       日米間に国際無線電話開通 日本が米国にワシントン海軍軍縮条約の単独破棄を通告。
       満州国は1934年に白系露人事務局を設立し、1935年にはソ連と北満鉄道讓渡協定を結んで
       ソ連から中東鉄道及びその付属地を買収した。
       1934年12月7日、日本の陸海外三相関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で
       北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、
       および親日的な傀儡政権の樹立、排日感情の抑制などが目標に掲げられた。          
       1934年冬から1935年1月にかけて塘沽協定の停戦ラインで中国軍と日本軍の小規模な衝突が
       たびたび発生しており、日本軍は北支から抗日勢力を一掃する必要があると認識していた。

1935年  国民政府華北満洲国間の通郵実施 満洲国皇帝溥儀が来日。靖国神社参拝
       梅津・何応欽協定成立(日本軍による華北分離工作の開始) オラホドガ事件
--------------------------------------------------------------------------
1936年 2.26事件で戒厳令 ソ蒙相互援助議定書(日本を仮想敵国とみなす同盟) 成都事件 
       北海事件  漢江邦人巡査射殺事件 上海日本人水兵狙撃事件 日独防共協定 綏遠事件 西安事件

1937年 廊坊事件 通州事件   第二次上海事変 中国空軍の上海爆撃 南京攻略戦 盧溝橋事件

 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][5]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[6]
1937年(昭和12年)7月7日、当時北支に駐屯していた日本軍の演習中に実弾が二度発射され、日本軍と中国国民党軍が衝突し、盧溝橋事件が勃発する[74]。この盧溝橋の地区の日本軍の駐屯は、義和団の乱の事後処理を定めた北京議定書に基づいている。北京議定書によると、当時この地区の居留民保護のため駐留していた外国部隊は日本兵4080、フランス兵1839、米兵1227、英兵999、イタリア兵384であり、日本人居留民は17000人、米欧居留民は計10338人であった[75]。 日中戦争の端緒となった。
盧溝橋事件後、日中両国間で停戦協定が結ばれながらも、廊坊事件広安門事件など数々の衝突が続く。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BA%AC%E8%AD%B0%E5%AE%9A%E6%9B%B8

廊坊事件(ろうぼうじけん)は、1937年昭和12年)7月25日から26日中華民国の北平(北京市)近郊にある廊坊駅(廊坊)で発生した日中間の武力衝突。郎坊事件と表記される場合もある。廊坊事件

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に中国の通州において冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が日本軍部隊・特務機関及び日本人居留民を襲撃し、大量虐殺した事件。日本軍は壊滅し、日本人居留民のうち女性はほとんど強姦されて殺害され、殺害方法も猟奇的なものがおおかった[1]

※この通州事件の殺害画像が南京虐殺画像とされる。また、済南事件 被害者検死画像が731部隊画像とされる
中国、南京大虐殺資料をユネスコ記憶遺産申請

支那事変実記. 第1輯 大東亞戰史 〓編


デジタルライブラリー http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041954/8
日本軍北平(北京)入城


http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=81&outputScale=4

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=82&outputScale=4

第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん)は、1937年昭和12年)8月13日から始まる中華民国軍の上海への進駐とそれに続く日本軍との交戦である。1932年(昭和7年)1月28日に起きた第一次上海事変に対してこう呼ぶ。上海戦(シャンハイせん)とも[1]。中国側の呼称は淞滬會戰(淞沪会战)
盧溝橋事件により始まった華北(北支)での戦闘は、いったんは停戦協定が結ばれたものの、7月25日の郎坊事件で停戦が破られると、26日の広安門事件で日本人に犠牲者が発生し、29日の通州事件では民間人を含む230名が虐殺されたことにより、武藤章田中新一ら拡大派が、石原莞爾河辺虎四郎ら不拡大派を押し切った。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった。
当時の上海はフランス租界、日英米の共同租界、上海特別市の三行政区域に分かれていた。自国民を守るため、米軍2800人、英国軍2600人、日本海軍陸戦隊2500人、仏軍2050人、伊軍770人がいた。


http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=95&outputScale=4

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=100&outputScale=4

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=106&outputScale=4
「ルーズベルト大統領夫人は14日蒋介石夫人宋美齢に対して電報を発し上海に対する非人道的爆撃を即時停止するよう勧告した」と書かれています。

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1041954&contentNo=154&outputScale=4

上海での空中戦のようすhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041954/8
蒋介石軍はマーチン重爆撃機、カーチス・ホーク戦闘機、ダグラス重爆撃機と、スゴイ装備です。

支那事変に於ける帝国海軍の行動. [その1] (発端より南京攻略迄)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454527/37?viewMode=

http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1454527&contentNo=40&outputScale=4
パナイ号事件 について説明。アメリカとイギリスの船を誤爆したそうです。

日本は南京攻略に先立って各国に対し、揚子江に停泊中の艦船を上流の安全地帯へ退避させるよう勧告していた
パネー号は沈没、他の三隻も沈没あるいは大破、アメリカ人死者3人を出した。
日本はただちにアメリカに対して陳謝、事件はすぐに解決した。
パネー号が護送してた米国タンカーは支那空軍基地へ送るためのガソリンを積載していたといわれる。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1931-40/1937_panegou_jiken.html

南京攻略戦(なんきんこうりゃくせん)は、日中戦争における戦闘の1つ。日本軍は、中華民国の首都南京陥落させた。中国側の呼称は南京保衛戰(南京保卫战)。略称として南京戦 (なんきんせん)とも[4]
11月16日国民政府重慶への遷都を宣言。 11月24日大本営は中支那方面軍の作戦制限区域を解除し、12月1日には南京攻略を命令する。その6日後、いわゆる南京大虐殺が起きたとされるが異論もある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E6%94%BB%E7%95%A5%E6%88%A6
http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1454527&contentNo=33&outputScale=4
南京攻略戦の前に川の中の機雷や沈船除去を行ったこと、南京政府が遷都を行ったことが書かれています。http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1454527&contentNo=33&outputScale=4

南京攻略戦詳細
11月7日 臨参命第百三十八号「中支那方面軍」(第10軍上海派遣軍を隷下に置く)編合(戦闘序列ではない)
      の下令[6]が出され、臨命600号により作戦地域は「蘇州・嘉興ヲ連ネル線以東」に制限される。
11月9日 上海戦線の中国軍は退却開始。
11月16日 中国国民政府は重慶への遷都を宣言。
11月19日 中支那方面軍は独断で作戦地域を越え、無錫湖州の攻撃準備。
11月20日 皇居内に大本営設置。参謀本部に第十軍より南京追撃命令の報が届き、これに対して
       中支那方面軍参謀長に臨命600号の指示範囲を逸脱すると打電。
11月21日 陸軍参謀本部第一部第二課より対支那中央政権方策提示。現下時局解決のため現状に於ては
       尚中央政権をして翻意我に提携せしめ全支の問題を統一処理するの方針を堅持す。
       (蒋政権の)面子を保持して講和に移行する如く我諸般の措置を講ずるを要するものとす。
  中華民国のエースパイロット高志航戦死Gao Zhihang.jpg

11月22日 中支那方面軍が「南京攻略の必要性」を上申。
11月24日 第1回大本営御前会議で中支那方面軍の作戦地域の制限が解除される。ただし多田次長より
       南京方面への進撃はしないよう打電される。
11月24日 唐生智が南京の防衛司令長官に任命される。
       唐生智司令官は、蒋介石の撤退命令を受け、最高幕僚・指揮官会議において、死守を断念し、
       12月12日午後5時半頃までに撤退命令を出していた。しかし、当時、敗戦の混乱の中、この撤退命令は
       末端まで行き届かず、持ち場を固守せよとする前命令を信じた部隊と撤退をしようとする部隊の間に一        部同士討ちを行うような混乱が生じたり、独自行動を執った部隊もあったようである。
       翌日南京は陥落した。(中国語翻訳文)
     
11月25日 中支那方面軍が独断で南京へ進撃開始。
11月28日 下村定作戦部長が多田駿参謀次長に南京攻略を同意させる
12月1日  大本営は大陸命第七号を発令し中支那方面軍戦闘序列を編成、
       大陸命第八号「中支那方面軍司令官ハ海軍ト協同シテ敵国首都南京ヲ攻略スヘシ」を発令し
       南京攻略を命令[7]南京安全区国際委員会、事務所開設。
12月4日  日本軍、南京市郊外まで進軍。
12月7日  日本軍、南京防衛軍の外郭防御陣を突破。午後一時に南京市へ攻撃を開始。
       中国軍は防衛司令長官唐生智を残して総統蒋介石ら中国軍首脳陣が南京を脱出。
       続いて中国政府要人や地方公務員等が南京を脱出した為、無政府状態となり市民は混乱状態に
       陥る。これにより電話不通、電気水道が停止。中支那方面軍は「南京城攻略要領」を示達[8]

南京城攻略要領(なんきんじょうこうりゃくようりょう)は、支那事変中の1937年昭和12年、民国25年)
12月7日中支那方面軍南京攻略戦にあたり隷下の部隊へ示達した文[1]である。不法行為を厳禁し、
外国の権益の保護することなどを求めている。

12月9日  南京城を包囲した日本軍(松井最高指揮官)は9日の正午、飛行機で南京城内にビラ
       (和平開城勧告文)を撒き、中国軍(唐生智南京防衛司令官)に対し降伏勧告を行なう。
日本軍による南京城への入城式
(1937年12月17日)[9]
「日本軍万歳」を叫ぶ南京の避難民
(日本側撮影、1937年12月17日)[10]
12月10日 和平開城勧告文の回答期限の午後一時、中国軍からの反応なく、日本軍は総攻撃を開始。
       夕方には、速くも光華門を確保した[11]
12月11日 日本国内で南京陥落の祝賀行事を挙行。
12月12日 午後8時、唐生智は全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」と指令し、
       無秩序な状況で南京城を脱出したが、兵は逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ、
  長江への逃げ道になる南京城の邑江門には督戦隊を置いていった。
       明確な撤退命令を出さなかったため、その後も散発的に戦闘が続く。
12月13日 南京城陥落。日本軍が南京城内へ入城。(写真)
南京入城時39コマ/62  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454527/37?viewMode=
http://dl.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1454527&contentNo=39&outputScale=4
上記文書のリンク  その他資料
支那事変海軍作戦記録
日中戦争(支那事変)における大日本帝国海軍の作戦行動を記録した映画である。内容は蘆溝橋事件から武漢作戦までに及んでいる。

南京攻略時の南京城(市内)
南京の当時の人口推移についてはこちらで。日本軍は1899年の義和団事件以来、租界の人々を守ってきたので、住民の多くは日本軍の支配する地域に逃れた。また南京安全区国際委員会 が設立された。

南京入城にあたって、日本軍司令官より厳しい軍律の注意事項が出された。これを破るものは軍律違反。


http://www10.ocn.ne.jp/~war/nyuujou.htm

 

「南京城の攻略及入城に関する注意事項」


一.皇軍が外国の首都に入城するは有史以来の盛事にて、永く竹帛(歴史書)に垂るべき事績たりと世界の済しく注目しある大事件なるに鑑み、正々堂々、将来の模範たるべき心組をもって各部隊の乱入友軍の相撃不法行為など絶対に無からしむを要す


二.部隊の軍紀風紀を特に厳粛にし支那軍民をして皇軍の威風に敬仰帰服せしめ苟も名誉を毀損するがごとき行為の絶無を期するを要す


三.別に示す要図に基き外国権益特に外交機関には絶対に接近せざるは固より特に外交団が設定を提議し我軍に拒否せられたる中立地帯には必要の外立ち入りを禁じ所要の地点に歩哨を配置す

又城外に於ける中山陵其他革命志士の墓及明考陵には立入ることを禁ず


四.入城部隊は師団長が特に選抜せるものにて予め注意事項特に城内権益の位置等を徹底せしめ絶対に過誤なきを期し要すれば歩哨を配置す


五.掠奪行為を為し又不注意と雖も火を失するものは厳罰に処す

軍隊と同時に多数の憲兵補助憲兵を入城せしめ不正行為を摘発せしむ

 

「南京城攻略要領」

一.両軍は中方作命第二十七号に示す線に進出して爾後の攻略を準備す

二.南京守城司令官若しくは市政府当局尚残留しある場合には開城を勧告して平和裡に入城することを図る

此際各師団は各々選抜せる歩兵一大隊を基幹とする部隊を先ず入城せしめ城内を地域を分ちて掃蕩す

三.敵の残兵尚城壁に拠り抵抗を行ふ場合には戦場に到着しある全砲兵を展開して砲撃して城壁を奪取し各師団は歩兵一連隊を基幹とする部隊を以て城内を掃蕩す

右以外の主力は城外適宣の地点に集結す(以下略)

(偕行社「南京戦史資料集」P-539540
東京裁判では

 南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。
 「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」
 戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。http://www.sankei.com/life/news/150218/lif1502180008-n1.html


歴史認識を考えてみる(16-7)

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        2.26事件~日中戦争へ
         1936~1938年表

ゲルニカモルガンお雪阿部サダ少年探偵団テンプルちゃんキューピー人形ブリキおもちゃ禁止ガソリン切符シャリアピン・ステーキパーマネントはやめましようフロイト亡命


左から少年探偵団表紙 南京入城式 神風号 蒋介石国民党旗 モルガンお雪 
イメージ 1


国民政府軍に対する降伏勧告ビラの内容
 支那事変経過の概要より

http://kindai.ndl.go.jp/view/jpegOutput?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F1220100&contentNo=72&outputScale=4


南京入城式動画


南京入城式の後の日本軍の行動は以下の文書に従うものとなる

 

従って、南京大虐殺は無かったことになります。

日中戦争から太平洋戦争まで、日本軍は何のために戦ったのか。
もしかしたら徳川家康が敵に追い詰められ、先祖の墓の前で自決を図ろうとした時に19歳の彼を諭し導いた住職の言葉がヒントになるかもしれません。それは

「厭離穢土欣求浄土」(おんりえどごんぐじょうど)
~穢れた世界を離れ平和な世界をつくること~
家康はその後この言葉を旗印に掲げて戦に出てゆき戦国時代を終わらせ平和な江戸の街をつくりました。
(ぶっちゃけ寺3時間スペシャルより(=^・^=;)

http://blog.goo.ne.jp/syokuson/e/ed27e05df7f13d11b72f3983ef42c1b6

南京大虐殺と言われている当時の南京の画像はこちらで。「昭和12年 アサヒグラフ 毎日グラフ 南京」の検索結果です。鉄兜の兵士は日本軍ではありません。
日中戦争までの攻防~仕掛けられたり仕掛けたり

関東軍の工作

柳条湖事件
1931年昭和6年、民国20年)9月18日満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)付近で、日本の所有する南満州鉄道(満鉄)の線路が爆破された事件である[2]。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用した。

第一次上海事変
第一次上海事変(だいいちじしゃんはいじへん)は、1932年昭和7年)1月~3月に中国上海共同租界周辺で起きた日華両軍の衝突である。

中国共産党/ソビエト共産党の工作
張作霖爆殺事件
わざわざ犯人とした中国人を張学良に通報するよう逃している。
爆弾を仕掛けた場所が鉄道の鉄橋で戦時下で再建するのが困難で物資の運搬に支障をきたす場所である。
毛沢東が共産党の策謀であったと認めている。

盧溝橋事件
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。中国では一般的に七七事変と呼ばれる。
Wiki盧溝橋事件
共産党軍の兵士向けのパンフレットには、
「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきりと記述されていました。又、昭和24(1949)年10月1日、「中華人民共和国」成立のその日、周恩来首相も、「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。共産党自らが「自白」しているのですから、これ以上の証拠はありません。
http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/rokokyo.html

蒋介石国民軍の工作部隊

蒋介石軍には秘密組織の藍衣社(らんいしゃ)があった。蒋介石直属の国民政府の情報・工作機関。正式名称は三民主義力行社[1]、また中華民族復興社[2][3](ちゅうかみんぞくふっこうしゃ)。イタリアの黒シャツ隊に倣って藍色の制服を着用していたことから「藍衣社」と一般に呼び習わされていた。日中戦争期、在中ドイツ軍事顧問団団長のハンス・フォン・ゼークトの提案で、日本軍占領地の破壊ゲリラ活動、親日政府要人暗殺などの抗日テロ活動を行った。
CC団
藍衣社
1935年5月2日夜、天津の日本租界において反蒋介石・親日・親満州国の新聞社社長2名が暗殺された

ジェスフィールド76号
丁 黙邨(てい もくそん)は中華民国の特務・政治家。特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者として知られ、南京国民政府(汪兆銘政権)に属した。
李 士群(り しぐん) は中華民国の政治家。南京国民政府(汪兆銘政権)の要人で、特工総部(ジェスフィールド76号)の指導者の1人として知られる。


http://nannohidonnahi.sakura.ne.jp/20seiki/1938/11.htm
昭和十一年


36
【世相】
01.04 米のビルボード誌、世界初のヒットチャートを開始
01.11 ピストン堀口、東洋フェザー級チャンピオンに
01.13 日劇ダンシングチーム、初公演
01.15 名古屋金鯱軍結成
01.27 日比谷公会堂でシャリアピンの独唱会
 滞在中の帝国ホテルで「シャリアピン・ステーキ」登場
 シャリアピン・ステーキ誕生
アルマイトの弁当箱普及
 キューピー人形流行
女性のマフラーが流行
 男児のセーラー服が流行
 ワニ革バッグが引き続き流行
 洋装がますます増える 
女学生の喫煙・喫茶店通い
 結核(亡国病)流行
 東京で青酸カリ自殺が流行
交通事故増加 警視庁赤バイから白バイ
警視庁消防部、6台の救急車配備、173カ所の救急病院指定、救急電話119番に決定
01.29 ニューヨーク州クーパーズタウンにアメリカ野球殿堂開設 タイ・カッブ、ベーブ・ルースら5人、初の野球殿堂入り
01.20 緊急呼出の119番が設置
01.27 シャリアピン独唱会(日比谷公会堂)
02.04 東京で54年ぶりの大雪
 地下鉄以外の全ての交通機関がストップ
02.05 全日本職業野球連盟結成
02.09 日本初のプロ野球試合開催(名古屋の鳴海球場) 名古屋金鯱軍、東京巨人軍と対戦し、10-3で勝利
03.06 チャップリン(47)、妻のポーレット・ゴダード(25)とその母親を伴いクーリッジ号で横浜に到着(2度目の来日) 日本橋の「花長」で大好物の天ぷらフライを食べる 歌舞伎座で「仮名手本忠臣蔵」を観る 浅草六区の映画館街へ行く 神戸港に停泊中のクーリッジ号で淀川長治(27)と会う
04.03 リンドバーグ2世誘拐事件の犯人ブルーノ・ハウプトマン、トレントン刑務所で電気椅子により処刑
04.26 杭州で藍蘋(のちの江青)、映画評論家の唐納と結婚
04.23 新流線形特急「燕」、東京駅に到着
04.29 米遠征中の東京巨人軍以外の6球団が参加して、第1回職業野球リーグ戦開催
05.04 大阪タイガースの藤井勇(藤井秀郎)、東京セネタースの野口明投手から、5回裏、ランニングホームランを放ち、
 日本プロ野球史上初の本塁打を記録
05.16 ジャン・コクトー来日
05.18 阿部定事件
05.20 阿部定、品川駅前の旅館で逮捕
05.31 第1回重量挙げ選手権大会開催
06.30 落語家・講談師250人、愛国演芸同盟を結成
07.20 第11回オリンピック・ベルリン大会で初めて聖火リレーが行われる
07.31 IOC、第12回オリンピック開催地を東京に決定 日本、2年後に開催を返上
08.01第11回オリンピック・ベルリン大会開催
08.06 ベルリン五輪の三段跳びで田島直人が世界新で金メダルを獲得
08.11 ベルリン五輪の200m平泳ぎで前畑秀子が日本女性初の金メダルを獲得
 「前畑ガンバレ、前畑ガンバレ、ガンバレ、…、勝った、勝った、」(河西三省アナ)
09.25 巨人・沢村栄治投手、甲子園球場で日本プロ野球史上初ノーヒットノーラン達成
10.03 藤原義江、パリ国立オペラ・コミーク座に出演
10.05 立教大学登山隊ヒマラヤ初登頂成功
11.07帝国議会新議事堂(国会議事堂)落成
11.09 東京駅で「花売り娘」の営業開始
11.10 日本観光連盟発足
11.12 演芸界の野球リーグ戦が行われ、水谷八重子が始球式
12.21 阿部定事件
 東京裁判所で阿部定に懲役6年の判決
【洋画】
モダン・タイムス 2.5 アメリカ 1938/02/(日本)監督出演:チャールズ・チャップリン
 我等の仲間 9.17 フランス 1937/04/29(日本公開)  出演:ジャン・ギャバン
 船乗りシンドバッドの冒険 11.27 アメリカ アニメ ポパイカラースペシャルシリーズ最初の作品 監督:デイヴ・フライシャー
 モヒカン族の最後(The Last of the Mohicans) 9.2 アメリカ 原作:ジェイムズ・フェニモア・クーパー 監督:ジョージ・B・サイツ
  出演ランドルフ・スコット ビニー・バーンズ ヘザー・エンジェル ヒュー・バックラー
 テンプルのえくぼ 10.9 アメリカ 1937/04/(日本公開) 監督:ウィリアム・A・サイター
  出演:シャーリー・テンプル
 テンプルの上海脱出 12.25 アメリカ 1937/09/(日本公開) 監督:ウィリアム・A・サイター 出演:シャーリー・テンプル
 キートンの大魔術師(Mixed Magic) 監督:レイモンド・ケイン出演:バスター・キートン
 ロイドの牛乳屋(The Milky Way)アメリカ 監督:レオマッケリ 出演:ハロルド・ロイド
【邦画】
 雪之丞変化 解決篇 1.15 原作:三上於菟吉 監督:衣笠貞之助 出演:林長二郎 主題歌「むらさき小唄」歌:東海林太郎)
 人生劇場 2.13 原作:尾崎士郎「人生劇場・青春編」 監督:内田吐夢 出演:小杉勇
 吾輩は猫である 4.14原作:夏目漱石監督:山本嘉次郎 出演:徳川夢声、藤原釜足
 河内山宗俊 4.30 監督:山中貞雄
  出演:河原崎長十郎、原節子
 浪華恋歌 5.28 監督:溝口健二
  出演:山田五十鈴、原健作、志村喬
 赤西蠣太 6.18 原作:志賀直哉 監督:伊丹万作 出演:片岡千恵蔵、志村喬、原健作
 街の姫君 6.18 原作:菊池寛
    監督:曽根千晴 出演:山路ふみ子
慈悲心鳥 7.1 原作:菊池寛 出演:岡譲 
 8.14 監督:渡辺邦男 出演:岡譲二 
主題歌「愛の小窓」(歌:ディック・ミネ)「男の純情」(作曲:古賀政男 歌:藤山一郎)
 一人息子 9.15 監督:小津安二郎
          出演:飯田蝶子、笠智衆
 人妻椿 前篇 10.4 後篇 10.29 出演:佐分利信、上原謙、三宅邦子、飯田蝶子、笠智衆 主題歌「人妻椿」(歌:松平晃)
祇園の姉妹 10.15 監督:溝口健二
            出演:山田五十鈴
 女の階級 10.15 出演:岡譲二 江川宇礼雄 星玲子 美川かつみ 主題歌「女の階級」(作曲:古賀政男 歌:楠木繁夫)「回想譜」(作曲:古賀政男 歌:藤山一郎)
 沓掛時次郎 11.15  出演:山田五十鈴
 うちの女房にや髭がある 12.11 主題歌「うちの女房にゃ髭がある」「あゝそれなのに」( 作曲:古賀政男 歌:杉狂児、美ち奴) 
11936年の経済
1936年の政治

【出版】
 晩年(太宰治)
 次郎物語(下村湖人)
 風立ちぬ(堀辰雄)
 真実一路(山本有三)
 宮本武蔵(吉川英治)
 江戸川乱歩の「怪人二十面相」少年倶楽部連載開始
横山隆一の「江戸っ子健ちゃん」、東京朝日新聞「東京版」に連載開始(14回目で「フクちゃん」初登場) 1.25
 横山隆一の「養子のフクちゃん」、東京朝日新聞「全国版」に連載開始(フクチャンが主人公)
04.05 文化裁縫女学校、「装苑」を創刊
04.28 美濃部達吉の「法の本質」など2冊が発禁処分
05.16 仏の詩人ジャン・コクトー来日
06.21 マーガレット・ミッチェル(36)の長編小説「風と共に去りぬ」が出版され、超ベストセラーとなる
創刊: 科学ペン 批評
装苑 4.5 ライフ(米) 11.23
終刊:
 赤い鳥

02.09 ガソリン不足で、 三菱重工業株式会社、木炭自動車の製造(木炭と薪で走る)始まる
02.26 2.26事件で全国の株式・商品市場が一斉に休会
03.12 北海道帝国大学理学部教授の中谷宇吉郎 大学の低温実験室で人工的に雪の結晶をつくることに 世界で初めて成功
04.05 文化裁縫女学校、
文化服装学院」に改称
装苑」を創刊
バドワイザービール(米)
リーバイス、レッドタブ」を右バックポケットに採用(米)
05.27 英豪華客船クイーン・メリー号、処女航海(サウサンプトンからニューヨークへ)
05.29 自動車製造事業法が公布され、国産化が推進
06.26 独でヘリコプター「Focke-Wulf Fw 61」初飛行
09.13 高柳健次郎による高柳式テレビジョンの公開実験
9.25全国地方銀行協会設立
11.17 渋谷に日本赤十字病院が完成
11.24 タバコ「」発売(10本入り10銭)
12.11 常磐線(上野~松戸)開通
12.12 D51の生産を開始
創立:
 理研感光紙(リコー
 津村順天堂、法人組織に(ツムラ、創業は1893年、津村順天堂)
 森下仁丹、法人組織に(創業は1893年、森下南陽堂)
 小西六本店(コニカミノルタホールディングス、創業は1902年、小西屋六兵衛店)
【没】
高橋是清(81歳 2.26)
 鈴木三重吉(53歳 6.27)
 魯迅(55歳 10.19)
【生誕】
 立川談志(1.2)
 市原悦子(1.24)
 野際陽子(1.24)
 バート・レイノルズ(2.11)
 長島茂雄(2.20)
 柳田邦男(6.9)
 大槻義彦(6.18)
ジョルジオ・アルマーニ(6.25)
 横尾忠則(6.27)
 つのだじろう(7.3)
 笹川ひろし(7.9)
 福田康夫(7.16)
 中原ひとみ(7.22)
 イヴ・サンローラン(8.1)
 古谷三敏(8.11)
 桂歌丸(8.14)
 川口浩(8.22)
 楳図かずお(9.3)
 梶原一騎(9.4)
 北島三郎(10.4)
 大山のぶ代(10.16)
 服部克久(11.1)
 さいとうたかを(11.3)
 山口崇(11.17)
 里見浩太朗(11.28)
 山崎努(12.2)
 村山実(12.10)

【ラジオ】
02.29
 2.26事件で、戒厳指令部、原隊復帰命令の「兵に告ぐ」をラジオ放送

06.01
 国民歌謡のラジオ放送開始
 第1回は「日本よい国」

10.25
 ベルリンのラジオ局で世界初のリクエスト番組が始まる

【流行語】
今からでも遅くはない

 忘れちゃいやよ

 前畑ガンバレ

 庶政一新

 大日本帝国
01.15 ロンドン軍縮会議を脱退
01.20 英で、ジョージ5世が死去したため、独身の皇太子がエドワード8世として即位

02.26 2.26事件
 高橋是清暗殺
 軍部大臣現役武官制復活
 陸軍皇道派将校、約1400名の兵を率いて首相・陸相官邸、内大臣私邸、警視庁、朝日新聞などを襲撃し、
 斎藤実内大臣、高橋是清蔵相らを殺害し、国家改造を要求
02.27 2.26事件で東京全市に戒厳令布告
 07.18 解除
02.28 反乱軍鎮圧の奉勅命令(天皇が直接下す命令) 岡田啓介内閣総辞職
02.29 反乱軍降伏
3.09 広田弘毅内閣成立

04.18 外務省、国号を「大日本帝国」とし、元首称号を「皇帝」から「天皇」に統一

05.04 内務省、治安維持を理由に大衆的陳情運動を禁止
05.09 伊、エチオピアを併合
05.13 モンゴルの徳王、日本の支援で内蒙古自治政府を樹立

05.18 広田弘毅内閣、軍部大臣現役武官制を復活

11.07 帝国議会新議事堂(国会議事堂)落成

11.25 ベルリンで日独防共協定締結
12.05 スターリン憲法制定

12.10 英で、エドワード8世、ウォリス・シンプソン夫人と結婚するために退位を宣言(王冠を賭けた恋)

12.11 英で、エドワード8世が退位したため、弟がジョージ6世として即位する破目に
12.12 西安事件
 西安の東にある華清池で、張作霖の長男・張学良、国民政府主席の蒋介石を監禁
12.25 周恩来の調停で解放

12.31 ワシントン海軍軍縮条約失効 軍備拡張競争強まる無条約時代へ

【流行歌】
 東京ラプソディー
 作詞:門田ゆたか
 作曲:古賀政男
 歌:藤山一郎

 花咲き花散る宵も

 あゝそれなのに
 作詞:星野貞志
 作曲:古賀政男
 歌:美ち奴

 空にゃ今日もアドバルーン

 忘れちゃいやヨ(忘れちゃいやよ)
 作詞:最上洋
 作曲:細田義勝
 歌:渡辺はま子

  椰子の実
 作詞:島崎藤村
 作曲:大中寅二
 歌:東海林太郎
うれしいひなまつり
 作詞:サトウハチロー
 作曲:河村光陽

 あかりをつけましょ ぼんぼりに
6

7

11

昭和十二年


37
【世相】
日華事変をきっかけに、国民精神総動員運動が始まると、国民生活のあらゆる面で、軍国主義的統制が加速
 軍国調ファッションが流行
 海軍風ハンドバック、カーキー色の鼻緒、国防色の服など
 男児のセーラー服が引き続き流行
 新繊維スフ(ステーブル・ファイバー)別名人絹(じんけん)のレーヨンが流行
 資生堂美容部開業
 クリストバル・バレンシアガ、パリにメゾンを開店
 ジャック・ファット、パリにメゾンを開店
 仏で、女性誌「マリ・クレール」創刊
 千人針慰問袋作り盛ん
 南京占領で提灯行列などの祝賀行事
 東京の銭湯、「朝湯」廃止
 あきれたぼういず結成
明治座で冷房装置を設置(劇場では日本初)

01.04 名古屋城の雄の金鯱(きんのしゃちほこ)の金鱗110枚のうち58枚が盗難
02.03 大阪に電気バスが登場
02.11 文化勲章制定(第1回受賞者 横山大観、幸田露伴ら)
03.03 前畑秀子(22)、名古屋医大外科副手の兵藤正彦(29)と結婚
03.13 大阪市立電気科学館開館(日本初のプラネタリウム誕生)
04.15 ヘレンケラー初来日 「奇跡の声」
04.18 丸子多摩川オートレース場で、第1回全関東自動車競争大会開催
04.23 慶應義塾大学と法政大学とで、初のフェンシング公式試合
04.28 第1回文化勲章授与式
 長岡半太郎、本多光太郎、木村栄、佐々木信綱、幸田露伴、岡田三郎助、藤島武二、竹内栖鳳、 横山大観が受章
05.01 西宮球場開場(日本初の2階建て観覧席設置)
05.26 双葉山、第35代横綱に昇進
05.29 巣鴨に東京拘置所が完成
06.03 王位を捨てたウィンザー公エドワード8世、シャトゥー・ドゥ・キャンデのサロンで、
 離婚した元シンプソン夫人ウォーリスと結婚
06.13 日本初の婦人カメラ・クラブ「LCC」創立
07.03 浅草国際劇場開場
07.10 イングリッド・バーグマン、歯科医のピーター・リンドストロームと結婚
08.20 全国中等学校野球大会で、野口二郎投手の中京商業、川上哲治投手の熊本工業を破って優勝
09.06 岩田豊雄・岸田國士・久保田万太郎ら、文学座を結成
09.11 後楽園球場開場
 水原茂、後楽園初のホームラン
09.16 水谷八重子、歌舞伎俳優の守田勘弥と結婚
10.23 第1回関東ハンドボール選手権大会開催(初の正式試合)
12.06 将棋棋士の木村義雄、初代実力制名人
12.07 プロ野球初の日本選手権で、大阪タイガースが優勝
12.30 東京市バス、木炭バス4台を初運行
【洋画】
オーケストラの少女 9.5 アメリカ 1937/12/(日本公開) 監督:ヘンリー・コスター
  出演:ディアナ・ダービン
 舞踏会の手帖 9.9 フランス 1938/06/(日本公開) 監督:ジュリアン・デュヴィヴィエ 出演:マリー・ベル
 白雪姫 12.21 アメリカ ディズニー初の長編アニメ映画 1950/09/(日本公開)
  監督:デイヴィッド・ハンド
 テンプルの軍使 7.30 アメリカ 1937/12/(日本) 監督:ジョン・フォード 出演:シャーリー・テンプル
ハイジ 10.15 アメリカ 1939/01/(日本) 監督:アラン・ドワン 出演:シャーリー・テンプル
【邦画】
検事とその妹 1.14
  原作:竹田敏彦「検事の妹」
  監督:渡辺邦男 出演:原節子 主題歌:「人生の並木路」(作詞:佐藤惣之助 作曲:古賀政男 歌:ディック・ミネ)
 佐賀怪猫伝 2.3
  監督:木藤茂 出演:大友柳太郎
 新しき土 2.4 日本初の日独合作映画
  監督:アーノルド・ファンク、伊丹万作
  音楽:山田耕筰 出演:原節子、早川雪洲
 滝の白糸 2.18
  原作:泉鏡花「義血侠血」 監督:広瀬五郎 出演:久松三津枝 大内弘 志村喬
 月形半平太 2.28
 監督:志波西果 出演:月形龍之介、原健作
 良人の貞操 前篇 4.1 後篇 4.21
  原作:吉屋信子 監督:山本嘉次郎 出演:入江たか子、高峰秀子
江戸っ子健ちゃん 5.1 監督:岡田敬 出演:榎本健一、中村メイ子、高峰秀子
 真実一路 父の巻 6.3 母の巻 6.10
  原作:山本有三 監督:田坂具隆 出演:小杉勇 花柳小菊 片山明彦 滝花久子
 御存知鞍馬天狗 千両小判 7.29 寛プロ 監督:仁科熊彦 出演:嵐寛寿郎、森光子
 人情紙風船 8.25
  原作:河竹黙阿弥「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」監督:山中貞雄 出演:河原崎長十郎
 限りなき前進 11.3
  監督:内田吐夢 原作:小津安二郎
  出演:小杉勇 滝花久子 轟夕起子
 浅草の灯 12.2 出演:上原謙、高峰三枝子、杉村春子、笠智衆
81937年の経済
1937年の政治
9【出版】
 少年探偵団(江戸川乱歩)
 ジョン万次郎漂流記(井伏鱒二)
 若い人(石坂洋次郎)
01.01
 山本有三の「路傍の石・第1部」、朝日新聞に連載開始
04.16
 永井荷風の「墨東綺譚」、朝日新聞に連載開始
06.12
 川端康成、「雪国」を発表
創元社より「雪国」として刊行
【商品】
 サントリーウイスキー角瓶(寿屋) 10.8
 グリスメール(和光堂) 日本初の離乳食
献金付愛国切手・愛国葉書発売
 愛国国債発売
ボシュロム「レイバン」発売(米)
 英のホイットル、世界初のジェットエンジンを開発
【創立】
 東京自動車工業(いすゞ自動車) 4.9
 トヨタ自動車工業会社 8.27
 精機光学工業(キャノン
 千代田光学精工(ミノルタ)
 日本通運(創業は1872年、陸運元会社) 10.1
 松竹(創業は1895年、大谷竹次郎、白井松次郎)
 満州重工業開発 12.27
06.17 日本アイ・ビー・エム株式会社設立
07.31 三井玉造船所(三井造船)設立
08.10 精機光学工業(キヤノン)設立 カメラ販売開始
08.28 トヨタ自動車工業設立
12.27 日本産業、満州重工業開発に改組
日産コンツェルン満州に移転
【時事】
03.30 丸井開業 割賦販売開始
03.31アルコール専売法公布
05.06 米で、独の飛行船「ヒンデンブルク号」が爆発
 ニュージャージー州レークハースト海軍基地に係留直前の70メートル上空で
 雷が落ちて水素ガスに引火したため爆発
 35人死亡、40人重軽傷
05.27 サンフランシスコ市とマリン半島にかかる世界一の吊り橋「ゴールデンゲート橋」完成(全長2.825m)
07.01 特急「かもめ」運行開始(東京~神戸)
【物価】
 葉書 2銭 封書 4銭
【没】
 中原中也(30歳 10.23)
【生誕】
コシノヒロコ(1.15)
 河野洋平(1.15)
野添ひとみ(2.11)
 小林千登勢(2.13)
 山藤章二(2.20)
 雪村いづみ(3.20)
 加山雄三(4.11)
モンキー・パンチ(5.26)
 美空ひばり(5.29)
伊東四朗(6.15)
 小渕恵三(6.25)
桐島洋子(7.6)
 永島慎二(7.8)
 森喜朗(7.14)
 加茂さくら(7.16)
 緒形拳(7.20)
 橋本龍太郎(7.29)
 ダスティン・ホフマン(8.8)
ロバート・レッドフォード(8.18)
林家木久蔵(10.19)
 立木義浩(10.25)
つげ義春(10.31)
 小松方正(11.4)
 樺美智子(11.8)
 花井幸子(11.12)
 リドリー・スコット(11.30)
 横沢彪(12.15)
 ジェーン・フォンダ(12.21)
 平尾昌晃(12.24)
アンソニー・ホプキンス(12.31)
【ラジオ】
10.13 国民唱歌のラジオ放送開始 第1回は「海ゆかば」

01.21
 腹切り問答
 衆議院本会議で、政友会の浜田国松、軍の政治介入を鋭く批判
 寺内寿一陸相が侮辱と発言したため「侮辱あれば割腹」と追及し、軍と政党の対立深刻
01.23
 広田弘毅内閣総辞職
02.02 林銑十郎(陸軍大将)内閣成立
 政党出身の閣僚が皆無の軍官連立内閣
03.31
 食い逃げ解散
 林銑十郎総理、議会刷新を理由に、衆議院を会期最終日に抜き打ち解散
04.03
 満州国皇帝の弟・愛親覚羅溥傑(34)、嵯峨公勝の孫娘嵯峨浩(24)と東京の軍人会館で挙式
04.05 防空法公布
04.26
 独の空軍、バスクの古都ゲルニカ(スペイン)を爆撃
 ⇒ピカソの「ゲルニカ
05.31
 林銑十郎内閣総辞職

06.04
 近衛文麿内閣成立
07.07
 蘆溝橋事件
07.08
日中戦争日華事変
07.16
 独のブッヘンバルトにユダヤ人強制収容所開設
07.17
 蒋介石と周恩来が会談し、抗日戦に合意
08.13 第二次上海事変
08.21
 南京で中ソ不可侵条約が調印され、ソ連、大量の武器供与を約束
10.05
 ルーズベルト米大統領、日独「隔離演説」
 日独の侵略を批判し、中立主義を放棄
08.24
 政府、国民精神総動員実施要綱を決定
10.27
 徳王を主席とする蒙古聯盟自治政府成立
11.04
 呉工廠で戦艦「大和」起工 1941.12.16 竣工
11.06 伊、日独防共協定に参加
11.11
 サンフランシスコ金門橋(ゴールデンゲートブリッジ)竣工
11.18 大本営令が公布され、大本営が戦争時以外にも設置
12.02 スペイン新政府成立
 フランコ、総統に就任
12.04 日中戦争
12.11伊、国際連盟を脱退
12.13 南京占領南京大虐殺
【流行歌】
うちの女房にゃ髭がある
人生の並木路
かもめの水兵さん
山寺の和尚さん
別れのブルース
青い背広で
マロニエの木陰
 もしも月給が上ったら
タバコ屋の娘
 内務省、卑俗な流行歌の発禁処分を決定
【流行語】
 馬鹿は死ななきゃなおらない
 パーマネントはやめましょう
 堅忍持久
 尽忠報国
 挙国一致
 銃後を護れ
 国体の本義
 出征兵士の家
 腹切り問答
 食い逃げ解散
 最後の関頭


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昭和十三年


38




【出版】
在りし日の歌(中原中也)

 麦と兵隊(火野葦平)

 生きてゐる兵隊(石川達三)発禁処分 2.18

 マルスの歌(石川淳)発禁処分

02.05
 マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」刊行

09.11
 丹羽文雄、尾崎士郎、久米正雄ら、従軍作家(陸軍班)として漢口へ出発

10.05
 高村智恵子、南品川ゼームス坂病院15号室で精神分裂症の療養中に粟粒性肺結核のため死去(52歳)

創刊:
 岩波新書 11.20
米の漫画雑誌「アクション・コミックス」にスーパーマンが初登場

【世相】
町内会・隣組が制度化され、国民生活の相互監視体制が強化
パーマネントに変わり、自粛髪型ロール巻きが流行(サザエさんスタイル)

 夏期の洋装スタイルが急増 もんぺが普及
 もんぺとは、裾(すそ)を足首の所でしぼった労働用の婦人袴(はかま)第二次大戦中、モンペ普及運動などを通じ、全国に広がった

 ガソリン切符制 綿糸配給切符制
 ヤミ取引が横行 銀座にホットドックの屋台が登場
01.03 岡田嘉子、新協劇団演出家の杉本良吉と樺太から日ソ国境を越えソ連に亡命
01.06 精神分析学者のジークムント・フロイト、ロンドンに亡命
01.15
 笑いの慰問団「わらわし隊」(柳家金語楼、花菱アチャコ、横山エンタツら)、門司港から中国戦地へ出発
02.15 サボ学生狩り 警視庁、3日間に渡り、盛り場のサボ学生3.486人を一斉に検挙
02.21 大阪-奉天間に、日本初の国際有線電話が開通
03.01 京都の市内タクシー、メーター制採用
03.31 東京駅構内の人力車車におされ廃業
04.04 灯火管制規則公布 黒塗り電球登場
04.24 モルガンお雪、34年ぶりに帰国
04.29 新橋ビジネスホテル「第一ホテル」開業
05.21 津山30人殺し事件津山事件
 八つ墓村(横溝正史)のモデルとなった事件が起きる
05.30 小学校で柔道と剣道が正課に
06.09 勤労動員開始
06.11 エノケン一座、日劇に初出演
06.27 川端龍子ら、大日本陸軍従軍画家協会結成
07.05 阪神豪雨 900人以上死亡
08.14 本土向け金属玩具の製造が禁止
08.16 ヒトラー・ユーゲントの代表一行30人、横浜港に到着
10.02 宝塚少女歌劇団、日独伊親善大使として欧州へ
10.06 夕張炭坑ガス爆発152人死亡・不明
11.01 日本初の女性弁護士誕生
 田中正子、武藤嘉子、久米愛子の3人
12.26 中谷宇吉郎、雪の人工結晶に成功

スポーツ

03.09 巨人軍、召集された沢村栄治、三原修(脩)を補うために川上哲治、千葉茂ら7人の入団を発表
06.15 大リーグのジョニー・バンダ・ミーア、史上初の2試合連続ノーヒット・ノーランを達成
07.15 第12回オリンピック東京大会中止決定
08.07 水泳「敵前上陸レース」(初島~熱海)
【洋画】
 赤ちゃん教育 2.18 アメリカ 1939/08/17(日本公開)
  監督:ハワード・ホークス
  出演:キャサリン・ヘプバーン ケイリー・グラント

 黒蘭の女 3.10 アメリカ 1939/10/05(日本公開)
  監督:ウィリアム・ワイラー
  出演:ベティ・デイヴィス、ヘンリー・フォンダ、フェイ・ベインター

 オリンピア 4.20 ドイツ ベルリンオリンピックの記録映画
  監督:レニ・リーフェンシュタール

 青髭八人目の妻(Bluebeard's Eighth Wife) 3.23 アメリカ 1939/05/(日本公開)
  監督:エルンスト・ルビッチ
  出演:ゲイリー・クーパー

 農園の寵児 3.18 アメリカ 1939/11/(日本公開)
  監督:アラン・ドワン
  出演:シャーリー・テンプル

 天晴れテンプル(The Little Miss Broadway) 7.29 アメリカ 1939/11/(日本公開)
  監督:アーヴィング・カミングス
  出演:シャーリー・テンプル
【邦画】
五人の斥候兵 1.7
  監督:田坂具隆
  原作:高重屋四郎
  出演:小杉勇

 新家庭暦 1.21
  監督:清水宏
  原作:菊池寛
  出演:桑野通子、高峰三枝子、佐分利信

 阿部一族 3.1
  原作:森鴎外
  監督:熊谷久虎
  出演:河原崎長十郎

 東洋平和の道(東亜平和之路) 3.31
  監督:鈴木重吉
  出演:徐聰 白光

 綴方教室 8.21
  監督:山本嘉次郎
  原作:豊田正子
  出演:高峰秀子、清川虹子、徳川夢声、滝沢修

路傍の石 8.31
  監督:田坂具隆
  原作:山本有三
  出演:片山明彦 山本礼三郎 滝花久子

愛染かつら 前篇 後篇 9.15
  監督:野村浩将
  出演:上原謙、田中絹代

11938年の経済
1938年の政治

代用品(陶器の鍋、竹のスプーン、木のバケツなど)

 スフ

 黒塗り電球

 綿製品の製造販売制限
 ヤミ取引横行
02.24
 米のデュポン社、ナイロンの商品化に成功

07.09
 花王石鹸、毛織物用洗剤「エキセリン」発売
 木炭自動車、続々登場
 木炭生産追いつかず
 内地向けブリキ玩具の製造禁止

02.24
 米のデュポン社、ナイロンの商品化に成功
 米のデュポン社、ナイロン製歯ブラシ発売


04.01 国家総動員法公布
 国民生活のあらゆる部門が政府の統制下におかれ、戦時経済体制が確立
04.01
 米のゼネラル・エレクトリック社のジョージ・インマンが、蛍光放電灯の製作に成功し、販売することを発表
04.05 鉄鋼増産のため鉄鋼連盟創立
05.01 重要産業統制令改正実施
 自動車のガソリンが切符制に 「ガソリン1滴は血の1滴」の標語が登場
07.09 花王石鹸、毛織物用洗剤「エキセリン」発売
08.04 商工省、乗用車の新規製造中止を通達

物価:
 ジャムパン 10銭
【没】
10.05
 高村智恵子、東京で精神分裂症の療養中に死去(52歳)
【生誕】
 細川護煕(1.14)
 ジャイアント馬場(1.23)
 松本零士(1.25)
 石ノ森章太郎(1.25)
 加藤剛(2.4)
 木村太郎(2.12)
 オリバー・リード(2.13)
 中島誠之助(3.5)
 月亭可朝(3.10)
 古今亭志ん朝(3.10)
 梅宮辰夫(3.11)
 島倉千代子(3.30)
 細木数子(4.4)
 猪俣公章(4.11)
 三宅一生(4.22)
 千宗佐・14代目(5.6)
 平井和正(5.13)
 豊田有恒(5.25)
 ナタリー・ウッド(7.20)
 ミッキー・カーチス(7.23)
 中村嘉葎雄(7.23)
 アルベルト・フジモリ(7.28)
フレデリック・フォーサイス(8.15)
 ジュリアーノ・ジェンマ(9.2)
 なかにし礼(9.2)
 堀江謙一(9.8)
 小林旭(11.3)
 池内淳子(11.4)
 貝塚ひろし(11.7)
 山城新吾(11.10)
 夏樹静子(12.21)

 【ラジオ】
10.30
 米CBS「火星人の襲来」放送で100万人が大パニック!
 ダンス音楽放送を突然中断し、火星人襲来の臨時ニュースを挟む斬新な演出で、真に受けた市民が続出
 演出:オーソン・ウェルズ

【流行語】
 大陸の花嫁

 あーのねえおっさん、わしゃかーなわんよ

 スフ 代用 買いだめ

 ヤミ 相手とせず

01.16
 ベニ-・グッドマン、カーネギーホールでコンサート(米ジャズ界初)
 スウィングジャズ全盛


01.11
 厚生省設置
 戦時体制下の健民健兵策の推進

01.16
 第1次近衛声明を発表し、対中国への和平交渉打ち切りを通告
 「国民政府を相手にせず」

02.23
 中国軍機、台北を爆撃(日本領土への初の攻撃)

03.25
 日米漁業協定成立
 アラスカ沖サケ漁が禁止に

03.28
 日本占領下の南京に中華民国維新政府樹立

07.11
 張鼓峰事件

10.27
 日本軍、武漢三鎮を占領

11.03
 第2次近衛声明
 日本の戦争目的は「東亜新秩序」にあると発表

12.17
 西住小次郎、日中戦争初の「軍神」に指定

【流行歌】
 人生劇場
 作詞:佐藤惣之助
 作曲:古賀政男
 歌:楠木繁夫

 やると思えば どこまでやるさ

 雨のブルース
 作詞:野川香文
 作曲:服部良一
 歌:淡谷のり子

 雨よふれふれ なやみを 流すまで

 麦と兵隊
 作詞:藤田まさと
 作曲:大村能章
 歌:東海林太郎

 徐州徐州と 人馬は進む
宵待草 映画「宵待草」主題歌
 作詞:竹久夢二
 作曲:多正亮

 待てど 暮らせど 来ぬ人を
 宵待草の やるせなさ
 今宵は 月も 出ぬそうな

 旅の夜風 映画「愛染かつら」主題歌
 作詞:西條八十
 作曲:万城目正
 歌:霧島昇、ミス・コロンビア(松原操)

 花も嵐も 踏み越えて
悲しき子守唄
 作詞:西条八十
 作曲:竹岡信幸
 歌:ミス・コロムビア

 可愛いいおまえが あればこそ つらい浮世も なんのその

 支那の夜
 作詞:西條八十
 作曲:竹岡信幸
 歌:渡辺はま子

 支那の夜 支那の夜よ

 愛国行進曲
 作詞:森川幸雄
 作曲:瀬戸口藤吉

 見よ 東海の空明けて
日の丸行進曲
 作詞:有本憲次
 作曲:細川武夫

 母の背中にちさい手で 振ったあの日の日の丸の

 かわいい魚屋さん
 作詞:加藤省吾
 作曲:山口保治

 かわいい かわいい 魚屋さん

 満州娘
 作詞:石松秋二
 作曲:鈴木哲夫

 私ぁ十六 満州娘

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年金データ流出対策はデータ管理ソフトで

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あまりにも無力な国のシステムについてセキュリティの専門家と称する人も攻撃者のほうが優位なので完全に防ぐことは難しいみたいなことを言っていたのですが、メールについていえばメールシステムだけPCごと別にすれば済む話ではないのかと思います。

会社についたら社内システムにログイン。広域システムはVPNなどを使っているものとします。
連絡事項をチェックする。ここまではいままでどおり。
社内メールはイントラネットのHTMLメールならOK。

社外からのメールをメーラーでチェックする。これは専用端末を使います。営業担当者ならタブレットで良いと思います。事務職なら上長がいったんメール専用端末で内容をチェック。その後処理を各担当者に振り分けます。
添付ファイルは上長もしくはメール担当者がいったんPDFにしてから社内メールに添付して担当者に転送します。

担当者がPDFで上長から送られたデータをもとに作業ファイルを更新するとします。
作業用PCもイントラネットのみで外部とのアクセスはできないようにしておく必要があります。
作業用ファイルはファイルサーバからダウンロード。

このへんの不正アクセスを避けるには
データベースは完全に外部から遮断されたマスターDBと、更新作業用のDBに分けて、作業用データはすべて
更新履歴を管理できるソフトを使って管理する必要があります。(チェックイン・チェックアウトを行うタイプのもの)
たとえばVSSとか、こんなやつです。(元データを入れるには必要データをFetchしてテキストにしてからアップロードするのか?てきとう(=^・^=;)
http://osdn.jp/magazine/08/09/09/1038233
マスタDBはときどきシステム管理者がバッチ更新をかければ良いと思います。

データ更新作業担当者は外部から遮断されたVSSサーバ上でチェックイン・チェックアウトを行います。
誰が更新作業中か、誰がデータを持ちだしたか、更新内容は何かが履歴になって残るのでデータを安全に管理できます。

更新データを外部に送信するときは、担当者は添付するワードやエクセルの文書は必ずPDFにしてから送信。
社内用HTMLメールで上長に送って上長から専用端末で社外メール送信。。

物理的に作業端末がネットから切り離してあれば安全なのですが、
ほぼすべての役所で使われているWindows7とOfficeシステムは、自動更新とアカウントの管理にネット接続が必須なので、システムメンテナンス時にはデータベース・サーバやファイルサーバを切り離しておくか落として置く必要があると思います。

とにかく、今のままこんな危なっかしいシステムを運用しながらマイナンバー制度なんてとんでもないです。
市役所など他の役所からの年金データの照会や更新はいったん窓口で受け付けてから後日処理結果を回答すれば良いはず。

今、セキュリティ上の理由でUSBコネクタを使用できないように切っている企業も多いようです。マウスもキーボードも昔のタイプが再び使われるようになってきているのです。

安全性のためなら先祖返りも大切です。

いっぽう、不便を補うものとして、こんなシステムもあるようです。
https://technet.microsoft.com/ja-jp/windows/hh414991.aspx

ネットワーク基礎知識
http://www.asahi-net.or.jp/~gx4s-kmgi/lan01.html

VPNとは?
https://www.furukawa.co.jp/network/vpn/about_vpn/about_vpn_top.html

近代史から学ぶ「有事」の対策

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近代史をいろいろ読んでみて、今も太平洋戦争前も状況はそう変わらないことに気が付きました。

日本の周りには中国とロシアがいる。

朝鮮は2国に別れ、日本と敵対しつつある点は昔より状況が悪い。

米軍が韓国にいるうちは良いが、もうじき引き上げるらしい。

現在、韓国は中国寄り。北朝鮮はおそらくロシア寄り。

中国とロシアは日本海で共同軍事演習するという。

いっぽう韓国は経済と産業界が疲弊しつつある。

韓国で不満を募らせた軍部が軍事クーデターを起こし、韓国社会が
それを支持して軍事政権が誕生する可能性もある。

中国とロシアが北朝鮮と韓国に働きかけて日本を攻撃させた場合どうなるか?

在日コリアンはある意味人質と見ることもできるが、戦争状態になったらゲリラになりそうでもある。

戦闘区域は日本海を超えそう。(韓国が独自ミサイル開発http://horukan.com/blog-entry-2871.htmlしたそうな)

もし不意に原発にミサイルが命中すれば日本は大混乱になるだろう。
その際表立って中国とロシアが出てこなければアメリカは仲裁には入るが戦力は使わず
日本に外交努力で解決を求めると思われる。
日本は以後、アメリカの衰退と共に運命を共にすることに。。
これを未然に防ぐにはアメリカ追随をやめて独自外交を行う必要がありそうな気がします。

韓国・北朝鮮には円借款を提供して社会を安定化させ、日本の経済圏に引き込む。
ロシアとの密約でクリミア編入を認め、円借款と資源取引でロシアも日本の経済圏に引き込む。
中国との密約で南沙諸島埋め立てを認める代りに尖閣諸島から手を引かせる。
アメリカも自国のみでは南沙諸島に手を出さないはずなので、とりあえずトラブルは避けられる。
そのためにはゆうちょの資金をゴールドマン・サックスに渡すことは避けたほうが良いと思います。
http://www.fx2ch.net/archives/45001889.html


最新ロボット事情

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ジャンプも出来る最新動物型ロボットの映像です。これでカブトムシみたいな羽がつけば最強かも(=^・^=;)
https://youtu.be/3lGTk1nefQM




アシモとオバマ大統領

日本のエネルギー

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日本のエネルギー供給の推移と次世代エネルギーについて調べてみました。
石炭が意外に多くてびっくり。原子力は今のシステムでは震災前のレベルに戻すのも大変そう。
リスクの割に貢献度が低い印象。原発が止まったら電気料金がすごく上がるとか言われたけど、
そうでも無かったのはもともとそれほど占有率が高くないのと原油安だからかも?
でもいずれ原油価格は高くなるかもしれません。なので安全な原発についても調べてみました。

1965~2011の日本の一次エネルギー総供給推移グラフ 
http://www.enecho.meti.go.jp/about/whitepaper/2013html/2-1-1.html

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最終エネルギー消費と実質GDPの推移
1965~2011 http://www.garbagenews.net/archives/2051532.html
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安全な小型原発


1台で30年燃料交換なしで使える安全な小型原発です。
地震のときなどは自動停止するそうです。水素製造システムとしても使えるそうで、水素スタンドにもなります。次世代エネルギーシステムに有望ではないでしょうか。50MWeタイプではたぶん2万世帯分位?

http://www.toshiba.co.jp/nuclearenergy/jigyounaiyou/4s.htm

「4S」は、エネルギーに困窮する世界中の色々な場所で利用されることを目指し、燃料交換を不要として核不拡散性を高め、自然現象を最大限に活用したデザインにより安全性を非常に高めたユニークな小型の原子炉です。
4S プラントシステム
東芝は、「常陽」、「もんじゅ」の開発を通じて培ってきた技術をベースとしてこの゛ニュークリア・バッテリー゛の開発に取り組んでいます。

※4S=Super-Safe,SmallandSimple

原子炉のシステム構成
特長
小型のナトリウム冷却高速炉
最初に装荷した燃料を交換することなく30年間運転可能
自然現象を活用した安全設計(人的操作がなくても自然に炉停止・除熱)
静的機器(電磁ポンプ等)の採用によるメンテナンス低減
水から水素を製造するシステムと接続可能
原理・システム構成
電気出力:10MWe、50MWe
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炉心反応度
制御:
移動式反射体の上昇
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温度係数:全ての温度係数を負
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燃 料:濃縮ウラン金属燃料
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対ナトリウム漏洩:全ての容器、配管を二重化
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水素製造
システム:
高温水蒸気電解法
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日本の企業力

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世界のなかでの日本の企業力を見てみました。

ファイナンシャル・タイムス グローバル500社 2014年12月 国別企業別時価総額
http://www.stockmarketmaps.com/ft_global_500/q.html#m=57&cn=13369344&cx=52224&cr=20

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明るい緑は業績が前四半期で20%上がっている企業です。中央の中国の圧倒的なパワーがスゴイです。
左側半分を占めるのはアメリカです。日本は右上です。日本の左隣はイギリス。面積が事業規模です。

アメリカの右上中国の下がフランス、その下ドイツ、その下スイス。
フランスの右隣が香港、インド、スペイン、ブラジルです。
フランスの右隣が香港、香港の下がカナダ、その下がオーストラリア。
香港の右隣がインド、その下がスウェーデン、その下がオーストラリア/UK、その下が台湾、その下がベルギー
インドの右隣がスペイン、その下が韓国、韓国の右がイタリア。イタリアの下がオランダ
オーストラリア/UKの右がオランダ、デンマーク、オランダ/UK
台湾の右隣がシンガポール、メキシコ、サウジアラビア、カタール
シンガポールの下が南アフリカ、メキシコの下がロシア、ノルウエー
ロシアの右がフィンランド、イスラエル
ノルウエーの右がインドネシア、US/UK、タイ

国に/UKというのがあちこにありまして、イギリスの多国籍企業かもしれません。
海外ニュースで人手不足が伝えられるドイツは中国の列の3段目で緑が見えます。
※このサイトで企業名にマウスを載せると実績が小さい画面に現れます。表示順はいろいろ変わるようです。


シェアでみると。。http://longinv.blog103.fc2.com/blog-entry-1781.html
             世界の地域別、国別の株式時価総額(2014年11月)
世界各国の浮動株調整後の株式時価総額比率
意外に中国はまだそれほど高くありませんでした。
日本はトップ500社以外の中小企業が強いのかも?(=^・^=;)

アメリカは世界の企業の半分を占めていますが、企業に財力があるということは、国の決定は企業寄りになりがちということになるのではと思えます。
日本の企業の場合は明治政府の殖産興業政策で政府主導で多くの企業を作ったので労働賃金を上げてねと政府がお願いするとわりと良くお願いを聞いてくれますが、外国資本が多く入ってくると外国人株主がいろいろ文句をいいそうです。ハゲタカ時代の危機が再び来ないように、政府のみなさんにはしっかりやって頂きたいものです。あと、ハゲタカ時代のなごりで派遣労働者が増えているので、社員になれなくても国民年金だけで老後も格安でずっと住めるシェアハウスとかの家を提供できないものでしょうか。
私の実家も安いアパートを経営していて生活保護の方もいらっしゃるのですが、高齢者はいろいろ心配なので入居をお断りしなくてはなりません。何かあったときに役所の福祉課が対応してくださるなら即入居して頂けるのですが。身寄りのない高齢者向けの住宅と福祉政策を政府にゼヒお願いしたいです。

縄文テクノロジー(漆とニット、今も使われる漁具など)

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縄文時代はどんなものを着ていたのか?どうやって魚を捕っていたのか?何を栽培していたのか?
を調べてみました。

まず、弥生時代とか縄文時代の年代の定義が年々変わっていくのでそのへんから見てみます。

この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、
草創期(約1万5,000 - 1万2,000年前)
早期(約1万2,000 - 7,000年前)、
前期(約7,000 - 5,500年前)、
中期(約5,500 - 4,500年前)、
後期(約4,500 - 3,300年前)、
晩期(約3,300 - 2,800年前)
となる。

引用http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
つまり、ざっくり12000年前~3000年前ということに。(=^・^=)

縄文の布・編布(あんぎん)の復元

http://homepage3.nifty.com/basaranihonshi/basara5angin.html

麻の歴史

麻(ヘンプ)が古くから利用されていることは知られていたが、人々を驚かせたのは福井県の鳥浜貝塚から麻の種子と編物が出土したことである。年代は1万2000年と特定され、これは世界最古である。縄文土器の「縄文」模様は麻の縄で作ったものである。http://www.azabu-u.ac.jp/academic_exhibition/hemp/list/hemp_00003.html

縄文の麻糸 http://www.geocities.jp/hwfhb259/pic/s-32pic/s-32019.html


縄文の狩猟・採集・栽培

鳥浜貝塚  ひょうたん   クルミ  
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http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf

三内丸山遺跡
  クリ



木の実の貯蔵方法 http://www.enyatotto.com/donguri/ikiru/donguripit.htm

遺跡から見つかった生物 http://www.enyatotto.com/donguri/ikiru/sannaimaruyama.htm




季刊誌「生命誌」通巻21号

縄文人は何を食べていたか 
https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/021/ss_1.html#1

埴輪以外の各地の工芸品と道具

青森県三内丸山遺跡

http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/image/sannaimaruyama.pdf
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伊豆諸島神津島産の黒曜石関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見

諏訪の鏃(やじり)(縄文時代中期)
http://blog.goo.ne.jp/mulligan3i/e/2aec603cdd0df61da7138b616a42d8d1


クルミ籠(クルミが入っていたそうです)
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/about/image/sannaimaruyama.pdf
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縄文時代の籠の研究

                   針     今と同じデザインの針(骨製)
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骨製の釣り針と銛

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青森県十腰内2遺跡 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/252782

青森県
縄文
青森県弘前市大字白銀町1-6
重文指定年月日:20110627
国宝指定年月日:
登録年月日:
弘前市
国宝・重要文化財(美術品)

本件は、十腰内2遺跡から出土した縄文時代後期の猪形土製品である。


宮城県里浜貝塚 http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/kuni-kouko08.html

里浜貝塚は松島湾内最大の島「宮戸島」にあり、曲がりくねって東西に延びる、標高約20~40mの丘陵上に立地し、南北約200mそして東西約800mに広がっている。
貝塚は貝殻のカルシウム分により普通の遺跡では残らない骨や角などの遺物が良好な状態で保存され、しかも時の流れを克明に伝える”縄文時代のタイムカプセル”と呼ばれる。

網針(あばり)
アバリは、網針と記すように、網を編んだり補修したりするための道具です。
 右の図(1)は、宮城県里浜貝塚から出土した鹿角製アバリです。全長10.7cm、最大厚0.3cmの大きさで、先端に近いスカシの部分は、一部欠落していますが長さ8mmほどで、太さ2mm前後の細い軸が突き出ていたものと考えられています。また、表面には漢字の「大」みたいな刻みがみられます。これは、所有者を示す記号のようなものと考えられています。きっと貴重なものだったのでしょう。
 房総では昭和30年頃までは主として竹製のアバリが使用されており、木綿や麻で出来た網地を繕うのに使われていました。それ以降はナイロンの網とプラスチックのアバリが使用されるようになり、今に及んでいます。
 このように、縄文時代に登場したアバリは、現在でも同じような形のまま受け継がれているのです。(高田 博)

(1):
鹿角製アバリ(宮城県里浜貝塚出土・図面)「縄文時代の漁業」より
 

(2):
竹製のアバリ(千葉県立安房博物館)

釣針(つりばり)と銛(もり)

http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16185.jpg

縄文早期に出現した北方系の銛頭(開窩式)は、北海道と青森県に分布しています。
平成12年度の発掘調査により、この銛頭が縄文前期には宮古市崎山貝塚まで南下していた
ことがわかりました、下の画像は開窩式銛頭(かいかしきもりがしら)と呼ばれております。



詳細はこちら

鏃(やじり)と根挟(ねばさみ)二股部分に鏃をつがえる詳細はこちら 
(ゆはず)
弓の両端の弦を掛ける所 

http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16186.jpg

 


手鈎(てかぎ) 魚の口やエラに引っ掛けて持ち上げる道具 
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16190.jpg

骨角性魚鈎状製品について

現代の手かぎ
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http://www.osakafu-chuouichiba.com/reports/tekagi/


鹿角製装身具(かづのせいそうしんぐ) 詳細はこちら

http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16192.jpg

土器
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16193.jpg

製塩用土器
http://www.pref.miyagi.jp/uploaded/attachment/16195.jpg
http://www.pref.miyagi.jp/site/sitei/kuni-kouko08.html

新潟県小千谷市 俣沢(またさわ)遺跡                        http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136291

縄文時代中期(約5500年前)、器高17cm、口径15cm
縄文土器は年代や地域によって異なります。現代の新潟県にほぼ相当する地域は、火焔土器を典型としています。俣沢遺跡出土土器は、鶏頭冠と呼んでいる火焔土器の最大の特徴であるニワトリのトサカ状の突起はありませんが、土器表面の文様が共通します。

新潟県中魚沼郡津南町・道尻手遺跡                        http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/56735

火焔土器
新潟県・中魚沼郡津南町・道尻手遺跡出土
縄文時代中期中葉/約5,500年前
口径28.0cm(底部欠損)


縄文時代中期中葉/約5,500年前
口径12.8cm・底径8.4cm・器高17.0cm・口高12.0cm
火焔型土器
新潟県・中魚沼郡津南町・道尻手遺跡出土

No.274
新潟県中魚沼郡津南町上段地区の道尻手遺跡から出土した。

福井県鳥浜貝塚http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/buna-1/bunarin/isiono/isiono.html

とりはまかいづか 福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町鳥浜にある縄文時代の低湿地遺跡。三方湖の南、2つの河川が合流する地点で発見された。時期は草創期から前期までで、前期の貝塚がある。
植物の種子類の中に栽培植物であるヒョウタンやエゴマ、ゴボウ類などがあったため、少なくとも縄文時代前期にアジア大陸からこれらの植物類がもたらされた可能性が高まり、縄文農耕論に新たな問題をなげかけた
左の丹彩土器は、高さ約10.3cm、厚さは35mmほどで、焼成後に赤いベンガラをぬっている。右の櫛(くし)9本の歯がのこり、長さは約9cm。髪飾り用の櫛で材質はヤブツバキである。縄文時代の高度な漆工芸技術がよくわかる。Encarta Encyclopedia福井県立若狭歴史民俗資料館提供

漆製品



麻が出土している遺跡はいくつかありますが、その一つとして、注目されているものに鳥浜貝塚遺跡(福井県三方町)があります。この遺跡からは六種類の縄が出土していますが、このうち二種類は麻で、縄文草創期(約一万年前)のものと報告されています。

編布(あんぎん)http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf
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群馬県茅野遺跡     http://startrek1955.web.fc2.com/jikan.html

耳飾り
DSC00267.JPG (143667 バイト)
DSC00268.JPG (156717 バイト)

耳飾りの詳細はこちら

群馬県千網谷遺跡 http://www.city.kiryu.gunma.jp/web/home.nsf/5eab0faad6473e1e49256a0600230630/8799acebe5f3fa4c49256ef40022aa81?OpenDocument


縄文時代晩期の第1号住居跡と第4号住居跡の出土品は質量ともにまとまりがあり、また発見例も少なく、縄文時代晩期の生活様相を復元する上できわめて学術的価値がきわめて高いとされ、一括して重要文化財に指定された。

耳飾り
第1号住居跡出土大型土製耳飾
第4号住居跡出土大型土製耳飾

第1号住居跡出土土製耳飾

神奈川県里宿河原縄文時代低地遺跡                        http://www.city.kawasaki.jp/880/page/0000000883.html









宿河原低地遺跡
多摩川の宿河原堰堤から500㍍ほど下った河川敷に発見された、縄文時代後期の水さらし場の跡。
土器片の他、石皿、敲き石、スタンプ型石器、漆塗り椀、漆塗り堅櫛、編みかご類、が出土。またトチの実などの食べるにはアク抜きが必要な木の実が多量に出ているので、ここはアク抜きのための水さらし場だったと考えられています。http://home.e02.itscom.net/jomon/shuku.html

網カゴ 漆塗り椀 漆塗り櫛
イメージ 6


東京都祖師谷大道北遺跡 hhttp://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/260629

独鈷石(どっこいし)
縄文時代
オリーブ黒色~灰色を呈する蛇紋岩製で、バランス良く左右対称に成形されており、両側に磨製石斧状の刃部をもつ。
中央は凹状に成形され、そのすぐ両側には1対の隆起した凸部をも…
長さ 143mm 幅 34mm 厚さ 34mm
1点
縄文時代晩期

独鈷石は用途不明らしいのですが、真ん中に革紐などをつけて振り回して高枝の実を取るとか、どんぐりやクルミを割るとか、イネの脱穀とかそれとも編み織りの道具?(=^・^=;)

千葉県鉈切神社洞穴(館山市  https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00662/contents/010.htm


館山市見物(けんぶつ)の鉈切(なたぎり)神社洞穴遺跡は、縄文時代の波打ち際に位置し、房総の荒波の作用によって作られた海食洞穴を利用した洞穴遺跡です。現在の標高は約20mですが、その後の度重なる地盤の隆起によって段丘上になったためです。
 昭和31年に学術調査され、主として今から4,000年前の縄文時代後期の土器のほか、鹿角製釣針・銛などの漁撈用具が出土しました。南房総の海に臨んだ漁撈を主な生業とした海洋民族の存在を示した遺跡です。
 釣針は鹿の角を加工して入念に形づくられ、大きさは4.8cm~3.5cmで、「かえり」が外と内にそれぞれ削り出されています。
 縄文時代をとおして、釣針や銛は動物の骨や角などを加工して作られ、時代や地域ごとに様々な種類が豊富に出揃います。また、その強度は現在の鉄製品に引けをとらぬものであるといわれています。現在、私たちは各種釣針を使用しますが、それらは、縄文時代にすでに開発されたものを踏襲しているだけです。(高田 博)


鉈切神社洞穴(館山市)から出土した縄文時代の釣針(複製品)(館山市立博物館)


福岡県久留米市正福寺遺跡 http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/c/9cf5fcc2dd19f303185c7664a4b5a573/59

編布(あんぎん)





長崎県里田原遺跡 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/era_2:1/from:menu

石斧の柄 石斧詳細はこちら
長崎県
縄文時代末期~弥生時代
72点
平戸市田平町里免236-2
長崎県指定





大分市横尾遺跡 http://bunka.nii.ac.jp/heritages/search/era_2:1/from:menu

カゴにおさめられた黒曜石
大分市横尾遺跡
縄文時代/紀元前5300年頃
黒曜石
縦37.0×横46.0㎝
69個以上
大分市教育委員会

69個以上の姫島産黒曜石の剥片と石核。細かな植物繊維で編みこまれたカゴに収納された状態で出土した。現時点で日本最古のカゴとされる。





米国務長官「慰安婦は日本軍の人身売買」と中国の記憶遺産申請

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中央日報の記事です。
http://japanese.joins.com/article/551/200551.html?servcode=A00§code=A20

 THAAD問題とは違い、ケリー長官はこの日、韓米外相の共同記者会見で、旧日本軍慰安婦被害問題に言及し、加害者を「日本軍」と特定した。ケリー長官は「『日本軍が性的な目的で女性を人身売買したこと』に関し、米国は何度か立場を明らかにした。これはぞっとするひどい人権侵害」と述べた。「ぞっとするひどい」いう表現は、昨年4月にオバマ大統領が訪韓した時に使った。しかしオバマ大統領は当時、人権侵害を犯した加害者を日本政府または日本軍と明示しなかった。外交部の当局者は「通常、米政府が人身売買という時は性的奴隷という概念も含んでいるが、米国務長官が日本軍の責任を取り上げのは初めて」と解釈した。この発言は、「安倍晋三首相が先月訪米した際、慰安婦被害を単に人身売買と表現したことについてどう思うか」という記者の質問に答える過程で出てきた。

  ケリー長官のこうした発言は、新日米同盟をきっかけに韓国で韓米同盟に対する憂慮が提起されるのを意識した措置だったという。実際、ケリー長官は会見で、「韓米同盟はいつよりも強力だ」とし「韓米間の対北朝鮮協力は1インチ、1センチの光が漏れる隙もない」と強調した。会談の冒頭発言では「生きて動く同盟(real alliance)」とも表現した。

  ケリー長官は「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)改定に関し、「韓国に関連する問題で韓国が同意しないことをするのは国際法に背き、したがって最初からこういうことが行われることもないはずだ」と釘を刺した。

米国務長官「慰安婦は日本軍の人身売買」…加害者を明示(1)


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引用ここまで

朝日新聞が「朝鮮女性が強制連行されて慰安婦にされた」という歴史的誤報を取り消してそろそろ一年。

先日のアメリカ議会での演説で安倍総理は「慰安婦は人身売買の被害者」という見解を示しました。

それを踏まえて
アメリカのケリー国務長官が韓国の大統領が訪米に先立って訪韓し、

日本軍が性的な目的で女性を人身売買した。」と名言しました。


でも、日本が人身売買に加担していなかった証拠があるのです。

当時の警察による通達です。


http://nagaikazu.la.coocan.jp/2semi/nagai.html

これによれば、パスポート発行の際に、人身売買によるものでないかチェックするように通達しています。
引用~

A 内務省警保局長発各庁府県長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(右の8-2と同じもの)(1938年2月23日付)

B 陸軍省副官発北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛「軍慰安所従業婦募集二関スル件」(1938年3月4日付)(いずれも吉見編『従軍慰安婦資料集成』所収)

  Aには「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ニ際シ身分証明書ヲ発給スルトキハ(中略)婦女売買又ハ略取誘拐等ノ事実ナキ様特ニ留意スルコト」なる一項が含まれ、またBの通牒には「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、(中略)募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等注意ヲ要スルモノ少ナカラサルニ就テハ将来是等ノ募集等ニ当リテハ派遣軍ニ於イテ統制シ云々」とある。

引用ここまで~

これにより、日本は国として人身売買に加担していたとはいえないと証明されました。
日本軍は慰安婦の募集を新聞広告などで行いました。
http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/41329775.html

それから、ずっと前にアメリカでは慰安婦問題の調査が完了しており「強制連行の証拠は何一つ見つけられなかった」という結論をだしているという事実があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/42144271.html

以上により、日本が慰安婦について強制連行あるいは人身売買を行ったということはできません。

南京大虐殺と従軍慰安婦の資料、中国が世界記憶遺産に申請

にも拘らず今度は中国が世界記憶遺産に従軍慰安婦と南京大虐殺の「資料」を登録申請しているそうです。
中国に慰安所とされる売春宿がたくさんあったことは事実です。しかしだからといってそこに居た女性が日本軍によって「強制連行」と「人身売買」されたということにはなりません。
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/10/nanking-massacre_n_5482767.html

中国が記憶遺産の証拠として父撮影写真を無断申請、福岡の医師抗議 

http://www.sankei.com/politics/news/150610/plt1506100041-n1.html

いわゆる南京事件や従軍慰安婦を世界記憶遺産とすることを中国が申請した件に関する質問

http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a186222.htm
平成二十六年六月十六日提出
質問第二二二号

いわゆる南京事件や従軍慰安婦を世界記憶遺産とすることを中国が申請した件に関する質問主意書

提出者  鈴木貴子




いわゆる南京事件や従軍慰安婦を世界記憶遺産とすることを中国が申請した件に関する質問主意書


 中国がいわゆる南京事件や従軍慰安婦に関連した資料をユネスコの世界記憶遺産に登録すべく申請を行ったことに対し、現在政府としては、本年六月十一日に菅義偉内閣官房長官が外交ルートを通じて申請の取り下げを求めたように、中国側に対して撤回を求めるべく交渉をしていると承知する。右を踏まえ、質問する。

一 今回、中国により南京事件と従軍慰安婦問題の申請がなされた件に対する政府の見解を改めて示されたい。
二 いわゆる南京事件に対する政府の認識如何。
三 いわゆる従軍慰安婦問題に対する政府の認識如何。
四 南京事件と従軍慰安婦問題に関し、なぜ中国側がユネスコへの申請を今になって行ったのか、政府としてどのように分析しているか説明されたい。
五 前文で触れたように、政府は中国側が申請を取り下げるよう働きかけをしているが、中国政府は「日本の理不尽な申し入れは受け入れられず、申請は撤回しない」と、激しく反発していると承知する。ユネスコの政治利用、そして我が国を過度に貶める中国の行動は受け入れられないにせよ、南京事件と従軍慰安婦問題について、我が国としては、居丈高な強硬論を打つだけではない交渉が求められると考えるが、政府の考えを説明されたい。
 右質問する。

安倍総理の議員質問への回答
一について

 政府としては、中国による今般の申請については、日中両国が関係改善のために努力することが必要な時期に、中国が国際連合教育科学文化機関の場を政治的に利用しようとしていると受け止めざるを得ず、極めて遺憾であると考えている。

二について

 いわゆる「南京事件」については、昭和十二年の旧日本軍による南京入城後、非戦闘員の殺害又は略奪行為があったことは否定できないと考えているが、その具体的な数については、様々な議論があることもあり、政府として断定することは困難である。

三について

 政府の基本的立場は、衆議院議員辻元清美君提出安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する質問に対する答弁書(平成十九年三月十六日内閣衆質一六六第一一〇号)三の2についてでお答えしたものと同じである。

四について

 御指摘の「ユネスコへの申請」に関する中国側の意図については、政府としてお答えする立場にない。

五について
 お尋ねの趣旨が必ずしも明らかではないが、中国による今般の申請については、中国側に対して引き続き抗議を行い、取り下げるよう申し入れつつ、更なる関連情報の収集に努め、適切に対応していく考えである。
--------------------------------------------------------
引用ここまで

政府はこの問題について、日本は慰安婦が人身売買されないように注意を払っていたこと、東京裁判の南京大虐殺は事実無根であったこと、よって偽の資料による世界記憶遺産申請は不適切であることを資料を提示して表明するべきです

    証拠となる当時の南京動画と資料など http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/42195888.html

うんざりしますが日本の未来を背負う子どもたちの為に真実は主張し続ける必要があります。

櫻井よしこ氏が慰安婦・歴史認識問題への取り組み方と日韓関係の未来にについて述べています。
未来を見る視点と高い見識を持つこの方に外務副大臣とかやって頂いたら問題が収まるかもしれません。




日韓基本条約

韓国は日本政府と日韓基本条約を交わし、2国間の問題について完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認しました。
Wiki引用~http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E5%A4%A7%E9%9F%93%E6%B0%91%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E9%96%93%E3%81%AE%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E7%B4%84

財産及び請求権に関する協定 

最終的に両国は、協定の題名を「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」とした。この協定において日本は韓国に対し、朝鮮に投資した資本及び日本人の個別財産の全てを放棄するとともに、約11億ドルの無償資金と借款を援助すること、韓国は対日請求権を放棄することに合意した[27]
  • 両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する(個別請求権の問題解決)。
  • 一方の締約国及びその国民の財産、権利及び利益において、一方の締約国及びその国民の他方の締約国及びその国民に対するすべての請求権であって1945年8月15日以前に生じた事由に基づくものに関しては、いかなる主張もすることができないものとする(相手国家に対する個別請求権の放棄)。


「経済協力金」とその使途 Wiki引用

財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定によって日本は韓国に次のような資金供与及び融資をおこなった。
  • 3億ドル相当の生産物及び役務無償(1965年)(当時1ドル=約360円)
  • 2億ドル円有償金(1965年)
  • 3億ドル以上民間借款(1965年)
計約11億ドルにものぼるものであった[28]。なお、当時の韓国の国家予算は3.5億ドル、日本の外貨準備額は18億ドル程度であった。
また、用途に関し、「大韓民国の経済の発展に役立つものでなければならない。」と定められてあった。
韓国政府はこれらの資金を1971年対日民間請求権申告に関する法律及び1972年対日民間請求権補償に関する法律1982年廃止)によって、軍人軍属労務者として召集・徴集された者の遺族に個人補償金に充てた。しかし戦時徴兵補償金は死亡者一人あたりわずか30万ウォン(約2.24万円)であり[29]、個人補償の総額も約91億8000万ウォン(当時約58億円)と、無償協力金3億ドル(当時約1080億円)の5.4%に過ぎなかった。また、終戦後に死亡した者の遺族、傷痍軍人被爆者在日コリアン在サハリン等の在外コリアン、元慰安婦らは補償対象から除外した。
韓国政府は上記以外の資金の大部分は道路やダム・工場の建設などインフラの整備や企業への投資に使用し、「漢江の奇跡」と呼ばれる経済発展に繋げた[30]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
引用ここまで

にもかかわらず韓国はこの条約を無視して慰安婦について国としての謝罪を求めています。

この度の韓国による日本の近代化の始まりであった明治産業史跡の世界遺産登録の妨害も合わせ、
そろそろ韓国に対して日韓基本条約を破棄するつもりなのかを問いただす時かもしれません。


それにしても過去に奴隷貿易が容認されていたアメリカ。

韓国が繰り返し「日本から強制連行・人身売買の被害を受けた」と訴えてくることは黒人社会を刺激する
要因にもなりかねず、アメリカ政府にとってかなり迷惑な話なのだと思われます(=^・^=;)




派遣法改正と派遣労働について

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今度の派遣法改正で、専門職の無期限派遣が無くなって3年で切られるそうです。

専門26業種=期限の定めがない業種とは?
労働者派遣法の施行令で定められた「派遣期間制限の無い26種類の業務」のことを指す。
事務用機器操作業務(5号業務)が全体の約4割を占める。さらに財務処理業務(10号業務)、取引文書作成業務(11号業務)、ファイリング業務(8号業務)の順でつづき、この4つの業務で全体の3分の2を占める。
26業務は以下のとおり。
ソフトウェア開発、機械設計、放送機器等操作、放送番組等演出、事務用機器操作、通訳・翻訳・速記、秘書、ファイリング、調査、財務処理、取引文書作成、デモンストレーション、添乗、建築物清掃、建築設備運転・点検・整備、受付・案内・駐車場管理等、研究開発、事業の実施体制の企画・立案、書籍等の制作・編集、広告デザイン、インテリアコーディネータ、アナウンサー、OAインストラクション、テレマーケティングの営業、セールスエンジニアの営業・金融商品の営業、放送番組等における大道具・小道具
太字の業種は日雇い派遣(1ヶ月以下の労働)禁止

専門職派遣の実態
私も正社員になった一時期を除いて長い間専門職派遣労働で生活してきました。
その実態を少し書いてみます。
PC関連のソフトウエアの開発についていえばプロジェクトが3年以上続くものはあまり無かったです。
パッケージ開発と呼ばれるマニュアル作成やCDROMの製品化を含むものでも最長2年位でした。その理由は、OSのバージョンアップやIT環境の変化が激しいことがあげられると思います。

大企業が社内で開発して社内で運用するシステムでは運用サポートやバージョンアップのメンテナンスが必要なので社員がほとんどですが、中小ソフトハウスで顧客数の多いパッケージシステムを開発する場合は派遣要員と社員が混在しています。(派遣は仕事ができないと3日位で契約打ち切りになります)

開発終了後はシステムを運用チームをもつ別会社に引き継ぐことになります。しかしユーザーからの難しい質問が引き継ぎ会社のサポセンで解決しない場合、エスカレーションといって質問が上がってくる場合があるので、「誰か答えられる人」を残しておく必要はあります。派遣要員はプロジェクト開発終了でいなくなるので社員が担当することになります。(私の場合社員時代につくった表計算シートのマクロについて会社を辞めてから5年位経って質問が来たことがあります。)

改正派遣法の業務上の問題点

汎用機などのシステム、たとえば銀行やクレジットカードの発券システム、国の長期プロジェクトなどの開発は、3年以上のものも多いですが開発が機能ごとに細分化されていてほぼ派遣で占められています。
このばあい3年の区切りは開発部門にとって痛い人材の流出になることでしょう。なぜなら開発部門にとっての人材(SE)はもはや作りかけのシステムの一部であるからです。

この法律が施行されると、3年経って現場を離れた技術者が同業他社へ派遣された場合、当然他社に情報が流出するわけです。
こうしたこともあり専門職派遣は期限が設けられていなかったのではないかと思うのですが。。

審議中の法案は労働組合の意見で派遣社員の延長勤務が認められるとか。これは専門業務で社内に長く居て発言権を持つ派遣社員から転勤の多い正規社員を守るための法案なのでしょうか。

労働問題からのアプローチ

改正派遣法を雇用問題の対策としての側面から考えた場合、
若いうちは仕事も多く、3年区切りでも問題ないと思うのですが、病気をしたり歳をとると新しい仕事につくことが難しくなり、賃金も下がってきます。
すると貧困家庭の増加という問題が起き、今以上に生活保護受給者が増えることでしょう。

なのでどちらかというと専門職派遣の期限を切るのではなく、一般派遣の3年上限を廃止するほうが国の歳出を抑えられ失業者の減少と人口増加に寄与するのではないかと思われます。

それでは正社員を廃止してほぼ派遣労働でまかなう企業が続出するのではという懸念もありますが、どのような雇用がその企業にとって最適かというのはそれぞれの企業の判断です。正社員でなくとも雇用保険と年金と社会保険と有給休暇等が完備されていればさほど問題ないのではと思います。

シャープで数千人の人々リストラされるようですが、たとえば派遣会社シャープアウトソーシングというところにリストラ対象者が移籍したとします。新しい就職先が見つかるまで何年でも、あるいは65歳までここでシャープの関連企業などを中心としてなんらかの仕事で収入を得られ、今までの権利をつなぐことができれば、失業してもさほど困難に直面しなくてすむのではと思います。

退職金はどうなる?

そもそも退職金というものは年金がなかった時代の風習ではないでしょうか。
退職金は世界的に見て珍しい制度であり、グローバル化の中で廃止される方向だそうです。
これを廃止した場合、例えば代りに勤続年数に応じた株券を差し上げてはと思います。
成果主義時代の退職金はどう変わる?http://next.rikunabi.com/tech/docs/ct_s03600.jsp?p=000165
退職金と賞与の歴史的考察http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2009/04/pdf/018-025.pdf
医師の派遣についてhttp://plaza.umin.ac.jp/~ehara/tsutatsu/Tutatu02.pdf
2011年4月時点の派遣法http://www.jil.go.jp/rodoqa/04_haken/04-Q03.html
2015年4月時点での派遣法http://www.hatarako.net/contents/law/01/01_04.html#tab_1_4
審議中の派遣法http://matome.naver.jp/odai/2141372194134154701

日雇い派遣について
派遣法は2012年にも改正されており、その結果原則として日雇い派遣が禁止されました。
日雇い派遣が禁止された結果、更にひどい実態もあります。指示された作業場に行ったら仕事を断られ、交通費も出してもらえなかったというものです。これは請負派遣という形にして、当日面接して仕事につくというシステムだから合法なのだそうです。請負派遣の例

現在の日雇い派遣が認められる労働者の「条件」

http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/koyou/haken-shoukai/kaisei/01-1.html
以下の[1]か[2]のいずれかにあてはまる場合は、例外として日雇派遣が認められます。
 ([1]と[2]の両方を満たす必要はありません。)
[1] 業務が、以下の業務の場合<図1参考>
<図1> 禁止の例外として認められる業務
<図1> 禁止の例外として認められる業務
[2] 以下のいずれかにあてはまる場合<図2参考>
 働き始めるときに、派遣会社にて、年齢を確認できるもの、学生証、収入を確認できる書類の提示などが必要になります。
<図2> 禁止の例外にあたる場合
<図2> 禁止の例外にあたる場合

正月休暇中に短期アルバイトをしようとして派遣会社から断れた年収300万、30代独身女性Aさんの例
(中略)
それではAさんは本当に派遣として働けないのかといえば、そうとは限りません。例えば地元の自動車ディーラーのショールームで、デモンストレーターとして働くことを希望しているのであれば「専門26業務」に含まれていますので、日雇派遣ができる可能性があります。
他にも「受付・案内」「取引文書作成」なども26業務に含まれています。つまり派遣会社から断られたのは、Aさんとの間で業務内容に関する食い違いが生じているのか、派遣会社の担当者に派遣法に対する誤解があるのか、いずれかである可能性があります。

直接雇用なら「日雇労働」は禁止されていない

また、日雇派遣は原則禁止されていますが、日雇労働(直接雇用)自体は禁止されていません。ですから地元の自動車ディーラーに仕事があるのであれば、直接頼んで短期で雇ってもらう方法も考えられます。すぐにあきらめる必要はないということです。http://blogos.com/article/103314/


働く「期間」よりも「賃金」の改善を


それよりも改善すべきなのは、昨日記事に書いた「マージン率」についてでしょう。例えばこれに上限を設けて、"マージン率25%以上にしてはならない"などの規制をした方が良いと思います。
 
大事なことなので再度書きますが、日雇いだから苦しくなったというケースよりも、派遣会社が中間搾取をしすぎたことによって低賃金の人が増え、それが貧困に繋がったケースの方が大きいと思うのです。
 
グッドウィルの件が明るみに出たので、そこまであからさまな搾取をする派遣会社は減っていると思いますが、昨日見た資料にも、最大で50%のマージン率を誇っていた企業もありました。日雇い派遣うんぬんよりも、そっちを規制する方が先ではないでしょうか。
す。一日のつもりが反日で返されるということもあるようです。
http://www.continue-is-power.com/entry/2015/02/28/212145
(引用ここまで)

ちなみに私は搾取率70%の派遣元を知っています。
今度の改正で専門職の規定が廃止されると日雇い派遣の例外にどう影響するのか気になるところです。

もしかすると短期労働が全般的に請負の方向にシフトするかもしれません。
そのほうが雇い主としては労災保険も交通費も出す必要がなく、何かあれば損害賠償も請求可能なので
金銭的にも事務処理上も経営負担とリスクが減ると考えられるからです。

国としては契約時にマイナンバー申告を義務付けておけば個人事業主への完全な課税についてはそう難しくはないかもしれませんが、あまりに過酷な社会システムは自殺者を増やすだけです。

とりあえずこの法案はもっと良く検討を重ねたほうが良いと思われます。

日本とアジアの旧石器時代

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まず、日本列島のはじめから。

旧人と新人http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/k.htm
 岩手日報は平成15(2003)年7月7日、岩手県遠野市宮守村の金取遺跡(かねどりいせき)から出土した石器の地層が、9万~8万年前に堆積した火山灰であることが6日、日本考古学協会の調査で分かった、と報じた。
 宮守村の北上山地の国道沿いの丘陵で、昭和59(1984)年5月、当時郵便局勤務の民間の考古学研究者武田良夫(後の岩手考古学会副会長)が「通りがかりに気になっていた丘の断面の上で作業するパワーショベルが掘った穴の底に石斧がのぞいていた」のを発見した。それを契機に、村の教育委員会は県教育委員会菊地強一武田良夫らと共に発掘調査を行った。そしてその石斧は7万年前~3万年前に亘る黒沢尻火山灰層という長期の火山灰層に遺存し、その3万3千年前頃の地層からは剥片石器を含む31点が出土した。さらに下層の最も古い地層からチョッパーチョッピングツールなど粗放だが重量感ある大形石器とチャート(珪質岩)製のスクレイパー(削器)など剥片石器など9点が伴出した。
 チョッパーは英語のchop、即ち「叩き切る」の意で、片刃がチョッパーで、両刃のものがチョッピングツールという。原人の時代からある素朴な原始的石器群である。平成14(2002)年、同志社大学教授松藤和人が現地を調査し、その土層の火山灰を分析した結果、石器が出土した最下層は、北上上層の序で、8万9千~8万5千年前、九州から北海道まで飛散した「阿蘇4火山灰」と、約10万年前の御岳第1軽石層との間、即ち北原・愛宕火山灰層であることが判明した。松藤和人はさらに調査し「10万年~9万年前の範囲の時期と位置付けた。日本にもホモ・サピエンス以前の旧人が最終間氷期の温暖な間氷期に存在した証明となった。松藤和人は「その前の氷河期の海面低下でできた陸橋を渡ってきた人類の石器ではないか」と、それ以前の氷期に既に渡来したとみている。


11万年前~1万年前


イメージ 1


参考資料

旧人類の存在
http://rarememory.justhpbs.jp/kokuyou/k.htm
13万年~12万年、東アジア一帯で地殻変動が起き、南の島々と周囲のサンゴ礁が隆起し「白い陸のバンド」の浅瀬が九州・沖縄から尖閣諸島・台湾・中国大陸と繋がった。やがて7万年前から1万年前まで続く最後の氷河期がやってきた。5万年前と2万年前に2度の最寒冷期が訪れた。カムチャッカ半島から北海道までが大陸と陸続きとなり、津軽海峡は氷結した。本州は四国・九州と陸続きで、朝鮮半島とは狭い海峡があるだけになる。













そしてホモ・サピエンスが日本列島にやってくる
 既に5万年前に大陸の大形哺乳類を狩ながら新人は日本に広がって行った。南の浅瀬「白い陸のバンド」は、サンゴの陸橋となり、新人の北上を容易にした。5万年前の最終氷期中の休氷期の温暖期、その暖気のピーク時の年平均温度は現在の気温とほぼ同様であった。それはスンダランドの諸島からフィリピンの暖水帯から発した黒潮を房総半島沖へ北上させた。スンダランドの諸島は東アジア系新人の原郷の一つである。その新人は海洋民族として丸木舟やイカダを操り海洋食文化とともに、かつての「白い陸のバンド」を北上した。


http://www001.upp.so-net.ne.jp/Miya_ke01/kiyo/kodai/roots/5_roots.htm



古代オセアニアのダブルカヌーの1/3模型。タヒチからハワイへの最初の移住シーンを再現している。ホモ・サピエンスが日本にやってきた4万年ほど前とはまったく異なるものの、長距離におよぶ航海をなしえた「人類」は我々だけだった。
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20130604/352966/?P=2




約2万年前の氷河期最後の更新世後期の日本の高度地図
  海面上の地域
  植物の生息していない地域
  海
黒線は現代の海岸線を示す Wiki日本列島の旧石器時代




旧石器時代の遺物は朝鮮半島のものとよく似ている。旧人類は大陸から地続きの日本列島にやってきた?







紀元前12万
年から
3万年

旧石器時代
中国
日本
朝鮮

砂原遺跡http://jun3519.blog.so-net.ne.jp/2010-07-02
IMG_0126.JPG

金取遺跡http://www.city.tono.iwate.jp/index.cfm/1,28671,162,379,html
韓国で注目を浴びた斧形石器
公州石壮里遺跡
http://jun3519.blog.so-net.ne.jp/2010-10-27-4IMG_1412.JPG
 伊豆諸島神津島産の黒曜石関東地方の後期旧石器時代の遺跡で発見 相模野台地ではIV層(B1∼L2層)段階、武蔵野台地ではV層(W層下部∼V層)段階で神津島産黒曜石が確認でき、相模野・武蔵野台地とも【n層段階で出土数が
かなり多くなる(柴田、2006)。出典

 

 後期旧石器時代/約15000年~32000年
高井戸東遺跡出土

 


今そこにある危機~日米防衛協定ガイドライン改定

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2015年4月に18年ぶりに改定した日米防衛協力のための指針(ガイドライン)では、日本有事の作戦構想から地上作戦時の「極力早期の兵力来援」や、米空海軍による「打撃力の使用を伴う作戦」を示す文言は抜け落ちました。
http://hannichigukoku.info/blog-entry-9081.html

政府発表詳細はこちら http://www.mod.go.jp/j/approach/anpo/shishin/

朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/topics/word/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E9%98%B2%E8%A1%9B%E5%8D%94%E5%8A%9B%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E6%8C%87%E9%87%9D.html

日米同盟の本質、転換 自衛隊の米軍支援、地球規模に


 日米両政府は27日午前(日本時間同日深夜)、米ニューヨークで外務・防衛担当閣僚会合(2プラス2)を開き、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)について、18年ぶりの改定に合意した。日本が集団的自衛権を使うことを盛り込み、米軍への後方支援の地理的制限もなくした。安倍晋三首相が掲げる「積極的平和主義」を反映し、自衛隊の米軍への協力を地球規模に拡大する内容で、自衛隊のあり方が根本から変わる。
 2プラス2には、日本から岸田文雄外相と中谷元防衛相、米国からはケリー国務長官とカーター国防長官が出席した。カーター氏は2プラス2後の共同記者会見で、ガイドラインについて「日本自身の安全保障の姿勢も変わってきている。アジアと世界中で協力が可能になる」と述べた。中谷氏も「新たな段階に進んだ日米同盟を世界に示すことができた」と語った。

日米両政府は今回の改定にあたって、軍備増強を進め、海洋進出を活発化させる中国を念頭に置いた。新ガイドラインでは、日本が直接攻撃された場合の協力で、尖閣諸島を念頭に離島防衛での協力を新たに盛り込んだ。離島の不法占拠など、武力攻撃には至らない「グレーゾーン事態」を含む平時の協力も拡大した。平時から緊急事態まで「切れ目のない形で、日本の平和及び安全を確保する」とも言及した。

転載ここまで

http://hannichigukoku.info/blog-entry-9081.html
米国が止めても韓国は核武装する――。矢野義昭・拓殖大学客員教授(元・陸将補)と「朝鮮半島の核」の展開を読んだ(司会は坂巻正伸・日経ビジネス副編集長)。

大戦争はできない米国

前回の矢野さんのお話は、韓国の核武装を米国が黙認するかもしれない。北朝鮮の核武装に加え、米国の軍事戦略が世界的に変わったからだ、ということでした。

矢野:東アジアと西太平洋で、米中の軍事的な力関係が逆転する可能性が出てきました。米国は今後10年間で1兆ドル近い国防費を削減します。一方、中国は成長率の鈍化にもかかわらず毎年、軍事費を2桁のペースで増やしています。

 米国の陸軍と海兵隊は、アフガン戦争以前の水準に削減されます。そんな米国に、数10万人もの死傷者が出るような大規模の地上戦はもう、不可能なのです。

 米国が絶対に避けたいのは2つ。まず、中国との核戦争に拡大する恐れのある紛争に巻き込まれること。もう1つは大規模の地上兵力を長期に派遣すること、です。

鈴置:米国は、同盟国を守るという約束を果たせるのでしょうか。

矢野:難しくなります。米国は今でさえ、1つの戦争をすることで精一杯です。下手すると今後は、同盟国の領土の回復にさえ直接は関与できなくなります。

 そこで「韓国や日本などの同盟国が独自の核抑止力を持つことを黙認し、中国や北朝鮮の侵攻を防ぐ」という選択を米国がするかもしれない、との見方が広がっているのです。

有事の際、米軍は後退

鈴置:ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski)元・大統領国家安全保障担当補佐官が「米国の力が弱まると、その核の傘の信頼性が落ちる。
すると韓国や台湾、日本、トルコ、ひいてはイスラエルでさえ新たな核の傘を求めるか、自前の核武装を迫られる」と書いたのも、そうした判断からなのですね。

 2012年に出版した「Strategic Vision: America and the Crisis of Global Power」の114ページです。

米国が「エア・シー・バトル」(Air Sea Battle)という、新しい戦争の方法を検討してきたと聞いています。

矢野:その構想でも、有事の際は中国のミサイルの集中攻撃を避けるため、在韓米軍も在日米軍もいったんは後方に分散退避することになっています。今後は基本的には韓国の防衛は韓国の、日本のそれは日本の責任となります。

 背景には、中国の中距離以下のミサイルの増強があります。その脅威から逃れるため、米軍はグアム以東に後退します。米国の一部シンクタンクは、米軍が反攻に転じるのは1カ月以上先になると見積もっています。

必敗の精神

鈴置:そこで発生する問題は、アジア有事の際――つまり在韓米軍に後退されてしまった後の韓国が、北朝鮮の脅威に精神的に耐えることができるか、ですね。

矢野:そこなのです。韓国人の米軍に対する依存心の高さを見ると、とても耐えられるとは思えません。

鈴置:韓国国会の国政監査で議員が「米国の支援なしに我が国単独で北と戦ったらどうなるか?」と聞いたことがあります。核を考えずに、通常戦力だけで戦ったらどうなるか、との想定です。

 軍の幹部がきっぱりと「負ける」と答えたので問題になりました。 韓国の経済力は北朝鮮の40倍あります。どうやったら負けるのか、外国人には理解しがたいのですが、重要なのは多くの韓国人がそう信じていることです。

 韓国には徴兵制度があって、多くの男性が軍隊に行く。このため国軍の「必敗の精神」が国民に広く浸透してしまうのだ――と解説してくれた韓国の記者がいます。

 なお「負ける」発言が問題になった主な理由は「言ってはいけない本当のことを、軍幹部が語ってしまったから」でした。

崩れる「中台」軍事バランス

有事に米軍が後退する可能性が高まったことも、韓国の核武装を加速する、ということですね。

矢野:その通りです。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20150610/284146/
転載ここまで

http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2015-04/20/content_35365337_2.htm
発信時間: 2015-04-20 10:05:10 | チャイナネット | 編集者にメールを送る
米軍が日韓に保有する基地群

米軍のアジア太平洋における軍事力の構成において、日本と韓国の基地群による北東アジア基地群が重要な地位を占めている。この2つの基地群は宗谷海峡・津軽海峡・対馬海峡を支配し、米軍の朝鮮半島における地上作戦を支援し、西太平洋における海・空の作戦を支えている。これらの基地群は中国けん制の「第一列島線」を形成しており、米国の軍事力を最前線に配備する「橋頭堡」の役割を果たしている。

米軍は日本に計109の基地を持ち、約5万人が駐在している。これには30以上の中・大型基地、自衛隊と共同使用する42の基地が含まれる。これらの基地のうち、一部の海軍・空軍基地は中堅的な役割を担う重要な基地だ。横須賀基地は米海軍の西太平洋における最大の総合停泊施設、艦船修理・補給センターで、4隻の原子力空母と150隻の艦艇を収容できる。同基地には第7艦隊司令部、在日米海軍司令部が置かれている。

嘉手納基地は米空軍の西太平洋における最大規模の総合基地で、100機の大型爆撃機と150機の戦闘機を収容可能だ。同基地は戦闘機・大型爆撃機・大型輸送機の離着陸に使用される。同基地は米海軍の重要な航空基地で、米軍に「太平洋の礎」と称されている。

在日米軍は軍紀のゆるみにより、現地の市民から抗議を受け続けているが、米日両国は在日米軍の建設強化で意見を一致させている。これは両国の軍事同盟関係を示しており、また両国の外向き型軍事戦略の現実的な需要でもある。米軍は嘉手納基地にF-22ステルス戦闘機を交代で配備し、普天間基地に海兵隊のオスプレイ輸送機を配備している。これは米国の在日米軍基地への重視を示している。

米国が日本に持つ基地は海軍・空軍が中心で、韓国の基地群は陸軍が中心だ。韓国の基地数は計85で、うち65が陸軍基地。兵力は約2万8000人。米韓両国政府の計画によると、在韓米軍基地全体の大規模な統合を行い、最終的に「2大センター」「3大基地」を形成することになる。

「2大センター」はソウルから南に60キロ離れた「烏山ー平沢センター」と、韓国南部の「大邱ー釜山センター」。「3大基地」はソウルの竜山基地、漢江から北の総合訓練センター、群山基地。2015年に竣工予定の平沢基地の面積は1465万平方メートルに達し、米韓の4万4000人が駐留する世界最大規模の米軍基地になる。

フィリピンと豪州に基地を新設
転載ここまで     1   2   3   

今後のアメリカの政治動向http://www.mag2.com/p/news/13592

今後の日韓関係に向けて

韓国軍は、地上戦では絶対に負けるから核が必要という論理のようです。
そして、米軍が韓国からいずれ撤収すると言われています。
そうなると米軍が去った後韓国はすぐにでも中国から核ミサイルを持ち込むことが可能なのでは?
すでにセウォル号には見せられな積み荷があるので引き上げられないのだという憶測も出ています。
情緒法が支配し、感情が最終決定を下す極めて情緒的な国が核を持ったらどうなるのか? 
米軍撤退後の世界は北朝鮮と韓国がもろに対立し、かなり恐ろしい世界になりそうです。
そして、日本への憎悪をはじめに韓国に植えつけたアメリカはそれっぱなしで立ち去るのです。

反日の在日朝鮮人を生んだのはGHQだった




日本はこれからどうにかして韓国の反日を親日に変える必要があります。

まず、アメリカの植えつけた洗脳を解かなくてはなりません。
この本↓の多国語版ダイジェストをつくり、空港などで無料配布するのも良いかもしれません。
http://www.amazon.co.jp/THE-NEW-KOREA%E2%80%95%E6%9C%9D%E9%AE%AE-%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%82%A2-%E3%81%8C%E5%8A%87%E7%9A%84%E3%81%AB%E8%B1%8A%E3%81%8B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%99%82%E4%BB%A3/dp/4434181815?ie=UTF8&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books

それから日韓国交回復50年に際して友好条約を結び、これから先ずっと有効な最後の謝罪をすることも良いかもしれません。日本が戦争しなければ朝鮮はひとつのままだったのですから。
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