南米移民激増~不安と生活苦と恐慌と戦争
満州事変前夜まで
背景は朝鮮総督府、右側はブラジル移民募集ポスター、人物は野口英世
1928年までの出来事
19世紀後半から20世紀初めにかけて、日本の対外的脅威は列強諸国のアジア侵略。特に帝政ロシアの南下でした。
1900年、義和団の事件に乗じてロシアが満州を占領すると、隣接する朝鮮半島が侵略されることを恐れた日本はイギリスとの日英同盟で対抗。
日露戦争(1904~5年)にかろうじて勝利した日本は、遼東半島と東清鉄道南部の
租借権を確保するに至りました。
一方
満州の地は、清王朝の帝室の聖地として漢民族の入部が禁止されていましたが、日清戦争後はこれが解禁となり
辛亥革命後は満州に中国人や朝鮮人の 『移民』 が急激に増加するようになります。
特に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の3省)は日本の開発もあって目覚しい発展を遂げていました。
1907年、腹心の徐世昌(後に段芝貴)を東三省総督にし、自軍の一部を送り込み東三省を勢力下におさめると共に、ロシア、日本などの権益を押さえ込もうと画策します。
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1911年辛亥革命
、
1911年10月10日夜に発生した
武昌起義から、
1912年2月12日の
宣統帝(溥儀)の退位、
1912年1月1日、孫文が南京で中華民国の建国宣言を行い、みずから臨時大総統に就任。
2月12日、
宣統帝が退位し清朝が滅亡した。
翌日、孫文に代わって
袁世凱が臨時大総統となる。
その経緯は
孫文は、中華民国の臨時大総統になった3週間後、清朝の総理大臣・袁世凱にこんな提案をしている。
「(袁世凱が)清朝の皇帝を退位させてくれたら、大総統の地位を袁世凱に譲る」
大義のためなら、私欲を捨てる、正しいとわかっていても、誰かれできることではない。
袁世凱と孫文の密約は成立し、1912年2月12日、宣統帝は退位した。
こうして、袁世凱の北京政府(北洋軍閥)と、孫文の南京政府(旧・中華民国)が合体し、新しい「中華民国」が成立した。
中国が再統一されたのである。そして、その頂点に立ったのが臨時大総統の袁世凱だった。
日本は国家としてこれを承認します。
ところが、、内情はとても国家として存続を続けたとはいえないものでした。
中華民国が建国された後、1912年8月25日、孫文の中国同盟会が中心になって、「国民党」が結成された。党首は孫文で、ナンバー2は宋教仁である。ところが、実務を仕切ったのは宋教仁だった。
宋教仁は、中国で「士大夫」とよばれる科挙(官僚)、地主、文人の三者を兼ね備えたエリートである。ところが、革命で科挙が廃止されたため、革命家に転身した。
宋教仁は、他の革命家同様、日本に亡命したことがあり、その時は法政大学で学んでいる。
宋教仁と孫文は、ともに高い志をもつ革命家だったが、方法論に大きな違いがあった。
政治制度では、孫文は大総統制、宋教仁は議院内閣制。
最終的なよりどころは、孫文は「軍事力」、宋教仁は「法律」である。
1912年12月の中国初の国会選挙では、宋教仁は徹底した多数派工作を展開した。結果、国民党を勝利に導いたのである。
そのままいけば、中国初、いやアジア初の議院内閣制の民主国家が誕生するはずだった。
ところが ・・・
1913年3月20日、宋教仁は上海駅で狙撃される。そして、2日後に死んだのである。
まだ、31歳の若さだった。 では、暗殺の首謀者は誰か? 袁世凱。 動機は?
宋教仁が大総統制を廃止しようとしたから。
1913年孫文の武装蜂起
そして、1913年7月、孫文は独裁を強める袁世凱に対し、武装蜂起する。
これが、「第二革命」である。ところが、革命軍は北洋軍閥の軍によって簡単に鎮圧される。
1913年11月、袁世凱は「臨時大総統」を廃し、「大総統」に就任した。その後、
孫文の国民党を解散させ、国民党員の議員資格まで剥奪した。さらに、国会そのものも解散してしまう。
この時点で、中華民国は共和制どころか、立憲君主制でもない、完全な独裁制に変質したのである。
そこで、孫文は国民党を解体し、1914年7月8日、東京で「中華革命党」を結成した。もっとも、党といっても、国会が存在しないので、政治結社にすぎないのだが。
中華革命党は党首(総理)は孫文だったが、実務を取り仕切ったのは、陳其美(ちんきび)だった。
陳其美は、辛亥革命のとき、南京占領に成功している。陳其美は中華民国建国の大功労者だった。その陳其美を師と仰いでいたのが蒋介石だった。この二人は全幅の信頼を寄せ合っており、それは生涯変わることがなかった。
1915年二十一カ条要求と中華帝国と地方軍閥
いっぽう、第一次世界大戦が始まると日本はそんな苦しい立場の袁世凱に。。
1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益に対華要求を訓令し、 翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行った。
見返りは袁世凱政権の承認。(詳細は下の方で)
袁世凱は日本の
二十一カ条要求に屈したため、反発が強まる。
そこで、袁世凱は大勝負に出る。
1915年12月12日、国号を「中華帝国」に改め、帝位に就いたのである(洪憲帝)。すべての権力を袁世凱一人に集中し、絶大な皇帝パワーで反乱分子を根絶やしにする ・・・
すると。
北京では学生デモが吹き荒れ、南方では、地方軍閥が次々と独立を宣言し、大混乱に陥ったのである。これが「第三革命」で、護国戦争ともよばれている。
南方の地方軍閥「雲南派」は、雲南省で独立を宣言したが、事はそれでおさまらなかった。袁世凱討伐軍を編成し(護国軍)、北京に進軍させたのである。
一方、袁世凱も曹コンを総司令官とする10万の北洋軍を派遣。ところが、四川省で護国軍に大敗。
その余勢を駆って、貴州省と広西省の地方軍閥まで独立宣言した。さらに、袁世凱を支える北洋軍閥内部にも離反者がでる始末だった。
袁世凱、万事休す ・・・
1916年袁世凱後の北京政府と張作霖の満州
1916年3月22日、袁世凱は帝位を退き、大総統にもどった。ところが、地方軍閥はそれでも納得しなかった。袁世凱が完全に退くことを求めたのである。その後、広東省、浙江省の軍閥までが独立を宣言、袁世凱は「徹底抗戦」か「完全退陣」かを迫られた。ところが、1916年6月6日、袁世凱は病死したのである。
(中略)
「北京政府」の新体制が決まった。
【大総統】:黎元洪(傀儡)
【副総統】:馮国璋(北洋軍閥の長老)
【国務総理】:段祺瑞(北洋軍閥の実力者)http://www.benedict.co.jp/Smalltalk/talk-191.htm
1916年、袁世凱が死去すると満州出身の軍閥・張作霖は、東三省での勢力拡大を画策する日本に協力し、袁世凱の配下で総督の段芝貴を失脚させ、東三省全域を勢力下にすることに成功。
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1917年ロシア革命/米、独に宣戦布告
1917年ロシア革命が起こりソビエト連邦が生まれると、共産勢力が広まることを恐れた日本はアメリカ、イギリス等の連合国とシベリアに共同出兵し、内政干渉を目論むも失敗。しかし、これによって満州の地は共産主義への防衛基地としての重要度が高まり、日本の生命線といわれるようになる。
これ以降、満州は日本をバックにする張作霖と、アメリカ、イギリスをバックにする呉佩孚(ご・はいふ)の戦いが展開される。張作霖が北京を制圧するがそこに蒋介石率いる国民党軍が侵攻(北伐)する。
第一次世界大戦が始まった頃、中華民国(中国)は中立を守っていた。
ところが、1917年2月、ドイツが
Uボートによる無差別潜水艦攻撃を再開すると、アメリカはドイツと国交を断絶した。この時、中華民国も連合国側についての参戦すべし、と主張したのが段祺瑞で、それに反対したのが大総統の黎元洪だった。
業を煮やした段祺瑞は、内閣総辞職して、黎元洪に圧力をかける。そこで、黎元洪は妥協して、
1917年3月14日、ドイツとの国交を断絶した。1917年4月6日、アメリカはドイツに宣戦布告した。
焦った段祺瑞は最終手段に打って出る。北洋軍閥内で息のかかった軍を使い、国会に圧力をかけた。もちろん、民主主義を逸脱する為、議員たちは猛反対した。
そこで、1917年5月23日、黎元洪は段祺瑞を罷免する。これで、議員たちはおさまるだろうし、中立も守れるし一石二鳥、というわけだ。
ところが ・・・
段祺瑞が下野するやいなや、北洋軍閥の督軍(省に属する地方軍)が続々と中華民国からの独立を宣言した。慌てた黎元洪は、北洋軍閥の中で参戦に反対する張勲(ちょうくん)に事態の収拾を依頼する。
1917年6月7日、張勲は軍を率いて、北京を制圧した。そこで、一件落着と思いきや ・・・
翌日の6月8日、張勲は黎元洪に対して国会の解散を要求したのである。体のいいクーデターだが、力の背景のない黎元洪は呑むしかなかった。ところが、これがきっかけで、政局は想定外の方向に転がり出す。
1917年7月1日、極保守派の張勲は、立憲君主制を目指す康有為を呼び寄せて、なんと、清朝「宣統帝」を復位させたのである。
仰天した黎元洪は、罷免したばかりの段祺瑞と馮国璋に泣きつき、張勲の軍を追っ払うよう頼んだ。
そして、7月5日、段祺瑞を国務総理に戻し、7日には馮国璋を大総統代理に任命したのである。
実権を取り戻した段祺瑞は北洋軍閥の軍団を率い張勲の軍を打ち破り、7月14日、悠々と北京に入城した。
段祺瑞との圧倒的な実力差を見せつけられた黎元洪は、意気消沈し、大総統を辞任、政治の第一線から退いた。ところが、事はそれでおさまらなかった。北洋軍閥が3つに大分裂したのである。
その後の北京政府は北洋軍閥を継承した
軍閥(安徽派、直隷派、奉天派など)が対立、中華民国大総統はめまぐるしく交替、各地にも軍閥が自立し抗争が続いた。
それに対して孫文らは
広東軍政府をつくって中国統一をめざす戦いを開始した。
1919年パリ講和条約
1919年、
パリ講和会議が日本の山東半島権益の継承を認めると反発した学生と民衆が
五・四運動を起こす。北京政府もやむなく
ヴェルサイユ条約調印を拒否(ただし後に調印、国際連盟にも加盟)した。
民族運動が活発となったことを受けて孫文は
中国国民党を結成、
1921年中国共産党
1921年に結成された
中国共産党との間で1924年には
第1次国共合作を成立させた。次の課題は国共合作によって北京の軍閥政府を倒し、民族統一という
国民革命を実現することであったが、
孫文はその前の1925年3月に死去した。
1924年第二次奉直戦争で張作霖北京制圧
1926年12月勝利した張作霖は北京で大元帥となり、中華民国の主権者であることを宣言。
1925年孫文死去、蒋介石が引き継ぐ
1925年5月には上海でストライキ中の中国労働者がイギリス警察に殺害されるという事件をきっかけに五・三〇運動が始まってナショナリズムが高揚し、それを受けた中国国民党は広東国民政府(広州国民政府)を成立させ、国民革命軍を組織して蔣介石がその司令官に任命された。
しかし最初国民党はアメリカやイギリスの支持を得られず、一時的に撤退。
1926年蒋介石、北伐開始(対張作霖)
1926~28年。中国国民党の蒋介石は1926年から「
北伐」を開始した。北伐軍には共産党員も参加し、ソ連からの軍事顧問もついていたが、次第に蒋介石は共産党を排除するようになった。
1927年上海クーデターで共産党排除
上海などの
民族資本家がその排除を要求したので北伐の途中の1927年、ついに蒋介石は
上海クーデターで共産党を排除して「
南京国民政府」を樹立、自ら主席となった。
1928年第二次北伐
一旦中断した北伐を再開し、1928年には北京に入場して軍閥政権を倒すことに成功した。北京から逃れた奉天軍閥の
張作霖は日本の
関東軍の
張作霖爆殺事件の謀略で殺害されたが、同年12月にはその子の
張学良が中華民国支持を打ち出して
易幟を行い、東三省も中華民国に帰順して、
国民政府による中国統一が完成した。
04.20 第2次山東出兵を決定 第二次山東出兵
05.03 済南事件
日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。
ハーグ陸戦条約
「交戦者」の要件
5月16日、日本はもし満洲に進入したら南北両軍の武装解除を行うことを閣議決定し、17日、英米仏伊の四カ国の大使を招いて、この方針を伝達し、18日、この内容を張作霖と蒋介石に通告した。19日、鈴木荘六参謀総長は田中義一首相と協議して、首相が上奏し奉勅命令を伝宣する時期を21日と決定した[3]
電報 昭和3年6月1日
参謀長宛 「ソ」連邦大使館付武官
第47号
5月26日「チコリス」軍事新聞「クラスヌイオイン」は24日上海電として左の記事を掲載せり
張作霖は楊宇廷に次の条件に依り日本と密約の締結すべきを命ぜり
一.北京政府は日本に対し山東半島の99年の租借を許し
二.その代償として日本は張に五千万弗の借款を締結し
三.尚日本は満州に於ける鉄道の施設権の占有を受く Wiki 満州事変より
1928年6月4日。
敗れた張作霖が北京から撤退する途中、奉天(瀋陽)駅から1キロの地点で、乗った列車が爆破され張作霖は死亡。張作霖爆殺事件
中国軍のしわざにしようとした関東軍の隠蔽工作はすぐばれて張作霖の子、張学良を中心に大規模な抗日運動が巻き起こる。
これにより張作霖の息子の張学良が国民党軍側について北伐が終わります。
1928年 北伐後の中国
統一なった中華民国の首都は
南京と定まった。共産党を排除し、北伐を完成させたことによって、アメリカは蔣介石の南京国民党政府を中国の政府と承認し、1928年に
関税自主権の回復を認める条約改正に応じた。
同年12月までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。日本は北伐から居留民を保護する口実で
山東出兵を行い、
済南事件で国民政府軍と衝突するという敵対関係にあったため、国民政府の承認、関税自主権の回復承認は1930年に持ち越された。
http://www.y-history.net/appendix/wh1403-091.htmlhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BC%90北伐後の中華民国の情勢。
藍色の部分は蒋介石率いる南京国民政府の支配が強い領域。ピンクの部分は地方の軍閥の支配が強い領域。
満州は張学良の奉天派支配地域、
山西省は
閻錫山の
山西派支配地域、
陝西省・
寧夏等の北西部は
馮玉祥の
西北派支配地域、
広東省・
広西等の南部は
李宗仁の
新広西派支配地域、
雲南省は
竜雲の
雲南派支配地域
http://www9.wind.ne.jp/fujin/rekisi/china/karyu/manshu.htm21箇条要求とパリ講和条約
第一次世界大戦が欧州で始まり、日本は
第三回日英同盟協約により1914年8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦した。参戦に際し日本政府はドイツ政府宛に「独国政府ニ与ヘタル帝国政府ノ勧告」を8月15日に発し、その中で
膠州湾租借地(青島)の全部を支那国(中華民国)に還付する目的をもって無償無条件に日本帝国官憲に公布することを要求した
[1]。(中略)
欧州では第一次世界大戦が継続中であり、日本政府としてはドイツとの休戦・講和が成立するまで山東膠州湾のドイツ権益を占領する必要があり、膠済鉄道や青島税関は日本が戦時接収していた。軍事占領は権益の帰属を確定させるものではなく、日本政府が一方的に中華民国に返還した場合、戦争の推移や講和条件の如何によっては日本政府がドイツあるいは中華民国に対して山東の一方的返還について多額の賠償義務を負う可能性がある。
日本政府は
袁世凱大統領と直接交渉することで事態の打開に動いた。
1914年12月3日、
加藤高明外相は、駐華公使
日置益に対華要求を訓令し、
- 第1号 山東省について
- ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること
- 山東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと
- 芝罘または竜口と膠州湾から済南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと
- 山東省の港湾都市を外国人の居住・貿易のために新しく開放すること
- 第2号 南満州及び東部内蒙古について
- 旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は2004年まで)
- 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸借・所有権を与えること
- 日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来したり、各種商工業などの業務に従事することを許すこと
- 日本人に対し、指定する鉱山の採掘権を与えること
- 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得ること
- 政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議すること
- 吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること
- 第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について
- 漢冶萍公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産などを処分しないようにすること。
- 漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること
- 第4号 中国の領土保全について
- 第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他
日本が中国に特殊利益を有することは、イギリス、フランス、ロシアは、明文あるいは黙示を以って承認していたが、アメリカとドイツは承認していなかった。
日本の要求書を受けとった袁世凱は、即答を避け、ポール・ラインシュ米公使やヒンツェ独公使らと緊密な連絡をとり、相計って国内世論を沸騰させ、外国に対しては、日本の要求を誇大に吹聴して列国の対日反感を挑発した。
在中ドイツ系機関紙である北京ガゼットや独華日報は山東問題に関する袁世凱との直接交渉を攻撃しはじめ、20余紙はドイツの新任公使ヒンツェに買収されたなどと言われた[11]。排日派や宣教師らは日本軍の暴行を喧伝し日本軍の撤兵を要求した[12]とされる。
駐日英大使グリーンは加藤外相に、中国側の態度はまことに了解しがたい、駐華英公使は日中両国が不幸な衝突を見るに至らないよう、北京政府に注意しており、袁大総統に直接申しいれてもいる、と語っている。
会談の初期、中国側は会議遷延策をとっていたが、2月6日には、第1号、第2号に関し十分に考慮し、第2号は吉長線に関することを除きできる限り譲歩すると返答した。ただ、第5号については応じられないという姿勢であった。
また中国側は、第2号の第2条と第3条は南満州についてだけ認め、東蒙古を除外しようとしたが、日本側は、東部内蒙古は、地理上南満州と分離できない一地域を形成し、歴史上、行政上、経済上ならびに交通上、互いに密接な関係を有しており、また1912年の露蒙協定付属通商議定書において、第1条は「ロシア人は蒙古内において随所に居住し、自由に移転し、商工業その他の業務に従事できる」、第6条は「ロシア人は蒙古の随所で商工業上の経営所を創設し、諸家屋、店舗および倉庫を建設するため、指定地を賃借することができる」となっており、日本に対してこれと同じことを東蒙古で認めないのは到底承認できない、と主張した[10]。
3月3日、日置公使は第6回会議で、「元来、革命の乱が勃発した当時、シナの大半は粉々としてあたかも鼎の沸くような情勢であったにもかかわらず、南満州と東部蒙古が乱離の禍から免れえたのは、まったく日本が何らの野心をも抱かないで、終始公明正大な態度を持し、努めてこの両地方の秩序維持に留意したことと、日本がこの方面において特殊の地位を保有していた結果にほかならない。もし万一、日本がこの機会に乗じてある種の行動をとった場合には、南満州も東蒙もあるいは今日の外蒙古と同様の運命に遭遇したかもわからない。ついては日本国のこの公明正大な心事とその優越する特殊地位に顧みて、中国政府は速やかに満蒙におけるわが優越なる地位を確認し、第2号から東蒙を除外する考えを翻してほしい」と述べた。
全権の
陸徴祥外交総長は「革命の乱当時における事情、ならびに日本国の態度は、まことに貴説の通りである。これらの事情からして中国は、今回南満洲に関し条約締結の商議に応ずる次第である」と答えた
[10]。
5号条項は秘密・希望条項とされていたがただちにリークされ、報道は中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。
日本は5号条項を後に撤回した
[13]。中国国内でも反対運動が起こったが、中国側に日本軍を実力で排除する力は無く、日本側は
5月7日に最終通告を行い、同
9日に袁政権は要求を受け入れた。袁世凱は自己の地位を強固にするために、日本の横暴を内外に宣伝して中国国民の団結を訴えた。
中国国民はこれを非難し、要求を受諾した日(5月9日)を「国恥記念日」と呼んだ。
3月8日、イギリスのグレイ外相は加藤外相に対し、「自分が非常に懸念しているのは、日中問題から生起すべき政治上の事態進展にある。ドイツが中国において盛んに陰謀をたくましくしつつあるはもちろん事実であって、中国をそそのかして日本の要求に反抗させるために百方手段を講じつつあるのみならず、これによって日中両国間に衝突を見るようなことがあれば、ドイツの最も本懐とするところであろう。
自分は今回の問題について何か質問を受ける場合、できる限り日本の要求を支持して同盟の友好関係を全うしたい精神である」と述べた[10]。
アメリカは、満洲における租借地と鉄道の租借期限延長に対しては、特別の反対はなかったが、
山東省を満洲と同様な日本の勢力範囲とすることに対しては絶対反対であった。
イギリスも、満洲における租借地と鉄道の租借期限の延長には賛成協力したが、長城以南においては最大の競争相手と考える日本を強く警戒し、第5号案を同盟国にも秘密にしたことで不信感を強くし、武昌・九江間の鉄道、南昌・潮州間の鉄道に関する要求に対しては、イギリスの利益を侵害するものとして、3月10日に日本政府に考慮を求めた[14]。
アメリカは
3月15日に、日本の提案第1号と第2号とはこれを問題にする考えはないという書簡を送ってきたが、
5月6日、
ブライアン国務長官は、英仏露三国に呼びかけて日中両国に協同干渉をするよう提議して、三国当局から拒絶されると、
5月13日、中国の領土保全、門戸開放の原則、および中国におけるアメリカやアメリカ人の権利と抵触する条約・協定・了解はすべて、アメリカとして承認しない、と通告した。
5月7日、イギリスの
グレイ外相は駐英
井上勝之助大使に対し、「
北京政府が強硬に反対してきたのは主として第5号の各項であるが、日本がこれを本交渉から引き離したことは日本側の大きな譲歩といえる。北京政府は速やかにこれを受諾して、時局の妥協を計ることが得策である旨を、駐華公使に自分の勧告として述べておいた」と述べ、また
5月10日、「5月7日朝
ジョルダン公使に電報して、日本の最後の提案は非常に寛大であるから直ちにこれを承諾し、妥協を図るほうが利益である旨、非公式に強い勧告を与えるよう訓令した」と述べた。
一方、
ロシアの
マレヴィッチ大使は5月6日、「充分了解した。真に今度のご措置は賢明なる方法と考える。必ずや北京政府は承諾するだろう。
袁世凱は最後通牒を待っているものと思われる」と
加藤高明外相に述べた。さらに、日本の対華21カ条要求に対し特に異議のなかった
フランスに、
石井菊次郎大使が最後通牒の説明を行った際、
デルカッセ仏外相は「今更内容をうかがうまでもなく、貴国の成功を祝す」と述べた
[10]。
1919年パリ講和条約 ドイツの国外財産・植民地
第四篇(118条から158条)は、ドイツの国外権益を定めている。ドイツはヨーロッパや条約締結国における、自国領域外にある権益・特権の一切を放棄する。ただし、
膠州湾租借地と、それに関連する特権は
日本に譲渡する(
山東問題)。また従来の
植民地はすべて放棄する。
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小池張蔵。1873-1921。,ニューヨーク,奉天などの総領事をつとめる。大正2年外務省政務局長となり,加藤外相のもとで対華二十一ヵ条要求の原案作成にあたった。
昭和三年
1928
| 1928年(昭和3年)の社会
【出版】 何が彼女をさうさせたか(藤森成吉)
赤穂浪士(大仏次郎)
河童・或阿呆の一生 (芥川龍之介)
02.04 芥川竜之介、小説「蜃気楼」を脱稿
03.05 新潮社、「世界文学全集」(全57巻)刊行開始 予約殺到
05.14 東京日日新聞で大佛次郎「赤穂浪士」の連載を開始
10.15 大阪毎日新聞で林不忘「新版大岡政談」の連載を開始(丹下左膳が登場)
12.01 主婦之友、「オギノ式避妊法」
【世相】
チャンバラごっこ流行 シェパード人気
ちゃぶ台普及 受験戦争のはしり 南米移民激増
松竹家庭劇(松竹新喜劇)旗揚げ
渋谷天外
03.25 全日本無産者芸術連盟結成
04.04 新型旅客用蒸気機関車C53型完成
11.10 ダンスホール18歳未満入場禁止
11.17 湯元温泉で火災、温泉街ほぼ壊滅
12.24 利根川河口にゴンドウクジラの大群
02.11 日本、第2回冬季オリンピック・サンモリッツ大会(サンモリッツオリンピック)に初参加 6人がノルディック複合に参加した
05.26 第1回全国日本学生陸上競技大会
06.10 オーストラリアのキングスフィールド・スミス、初の太平洋横断飛行に成功
06.18 米の女性初の大西洋横断飛行
07.28 第9回オリンピック・アムステルダム大会開催
織田幹雄(23)三段跳びで金(08.02)
鶴田義行(25)200m平泳ぎで金(08.08)
人見絹枝(21)女子陸上800m銀(08.02)
10.13 中国で、殷墟の発掘が始まる
11.23 札幌郊外に世界的なジャンプ台が建設(大倉山シャンツェ)
【映画】
第5回(1928年度)キネマ旬報ベストテン
外国映画
第1位 サンライズ 監督:F・W・ムルナウ
第2位 暗黒街 監督:ジョーゼフ・フォン・スタンバーグ
第3位 サーカス 監督:チャールズ・チャップリン
第4位 ベン・ハー 監督:フレッド・ニブロ
第5位 つばさ 監督:ウィリアム・ウエルマン
第6位 街の天使 監督:フランク・ボーサージ
第7位 煩悩 監督:ジョージ・フィツモーリス
第8位 アンクル・トムズ・ケビン 監督:ハリー・ポラード
第9位 結婚行進曲 監督:エリッヒ・シュトロハイム
第10位 ムーラン・ルージュ 監督:E・A・デュポン
日本映画
第1位 浪人街 監督:マキノ正博
第2位 陸の王者 監督:牛原虚彦
第3位新版大岡政談 監督:伊藤大輔
第4位 崇禅寺馬場 監督:マキノ正博
第5位 彼と東京 監督:牛原虚彦
第6位 村の花嫁 監督:五所平之助
第7位 蹴合鶏 監督:マキノ正博
第8位 結婚二重奏 監督:村田実
第9位 平手造酒 監督:志波西果
第10位 十字路 監督:衣笠貞之助
04.29 笠智衆、小津安二郎監督の「若人の夢」で映画デビュー
06.15 ツキガタプロ第1回作品「酒毒の剣法」
06.15 片岡千恵蔵プロ第1回作「天下太平記」
07.12 嵐寛寿郎プロ第1回作「鞍馬天狗」
12.14 新宿で映画館「武蔵野館」開館
【流行歌】 波浮の港 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 歌:佐藤千夜子 歌:藤原義江 出船作詞:勝田香月 作曲:杉山長谷夫
歌:藤原義江
君恋し 二村定一
【アカデミー賞】 第1回作品賞 「つばさ」
芸術作品賞 「サンライズ」
主演男優賞 エミール・ヤニングス
主演女優賞 ジャネット・ゲイナー
特別賞 チャールズ・チャップリン ワーナー・ブラザーズ 【流行語】
ママさん 狭いながらも楽しい我が家 ラジオ体操 インテリ テレビジョン 彼氏 陸の王者 電光ニュース ハンドバック マネキンガール フラッパー 人民の名において
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| 1928年(昭和3年)の経済 | 1928年(昭和3年)の政治 |
| 03.13 神田にある巌松堂の少年店員42人、 丁稚奉公制度に反対して争議 04.10 日本商工会議所創立
05.15 タイで、日本軍の山東省派兵に抗議して日本製品のボイコット運動を開始
05.16 中国の反日高揚のため、絹布輸出の契約破棄が続出
05.21 野口英世(51)、ガーナで黄熱病に感染して死亡
10.12 東京松竹楽劇部(SSK)設立
水の江滝子ら入部
10.27 早稲田大学に、坪内博士記念演劇博物館が開館
09.30
英の細菌学者フレミング、アオカビから抗菌性の物質を抽出
1929.05.10
ペニシリンと命名
02.01
日本ビクター蓄音器、日本初の電気吹込みレコード「出船の港」(藤原義江)発売
03.21
田谷力三らのヴォーカル・フォアが初演奏会
05.11
米で、ゼネラル・エレクトリック社、テレビ実験放送の許可を得て、定時放送を開始
07.06 ワーナー・ブラザース、世界初のオールトーキー映画「ニューヨークの灯」を製作
07.30 米で、イーストマン・コダック社の創立者でロールフィルムを発明したジョージ・イーストマン、カラーフィルムを発明し、世界初の色彩映画を制作
08.31
ベルリンで、クルト・ワイル作曲「三文オペラ」初演
09.19 米で、ウォルト・ディズニー製作の世界初のトーキー・アニメ映画ミッキーマウスとミニーマウスの「蒸気船ウィリー」が完成
11.05 朝日新聞社の社屋側面に電光ニュースが登場 天皇の即位礼流れる
11.28
高柳健次郎、浜松高等工業学校でブラウン管方式によるテレビジョンの公開実験を実施
12.19
日本蓄音機、ラミネーテッド盤レコードを発売
【ラジオ】
01.12 大相撲の実況放送開始
05.21 大阪中央放送局、初のラジオドラマを放送
08.01 NHK大阪放送局、ラジオ体操の放送開始
11.01 NHK東京放送局、ラジオ体操の放送開始
11.05 NHKの全国放送網が完成
| 02.20
普通選挙制による初の衆議院議員選挙
03.15
3.15事件
共産党員の大量検挙が始まる
4月 蒋介石、第二次北伐(北京支配の張作霖に対して)
済南には邦人が1810人(うち女性829人)いたが、第二の南京事件が起こる危険性が出てきた。南京事件(1927年)
04.20
第2次山東出兵を決定 第二次山東出兵
日本は済南に軍隊を送り(第二次山東出兵)、守備地区を設けて居留民保護の体勢をとった。
これに対し、南軍総司令である蒋介石より日本軍に対して「治安は北伐軍が責任を持って確保するから済南城内の日本軍の防御を撤去してほしい」との要請があった。日本軍はその言葉を信じて徹夜で防御を撤去した。
ここで恐ろしい虐殺事件・済南事件が発生する。
05.03
済南事件
北伐軍が居留民を襲撃。各所で多数の男女日本人居留民が北伐軍の暴兵の手で虐殺されていった。略奪などを含めると被害者は400人にのぼった。出典
済南で便衣隊から拳銃射撃を受けたために、日本側が防戦、そこにたまたま国民党の外交官がいた、この事件後、支那側は「外交官虐殺事件」と宣伝し、排日感情を煽る材料にした。。
日本は済南事件に関して国際連盟に覚書を出し、支那兵が便衣隊を加えていたと指摘した。便衣隊はハーグの陸戦規定に違反する。
ハーグ陸戦条約
「交戦者」の要件
。出典
05.07
第3次山東出兵を決定
06.04
張作霖爆殺事件
奉天に引き揚げ途中の張作霖(53)を乗せた特別列車が関東軍参謀・河本大作大佐らによって爆破
06.09 国民革命軍が北京に入城し、北伐が完了
06.29 治安維持法改正公布
7月19日 - 中華民国国民政府が日華通商条約の廃棄を通告
7月25日 - アメリカ合衆国、中華民国から撤兵
08.27
パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)調印
米英仏日など15カ国が署名
10.01 ソ連、第1次5カ年計画開始
10.08
蒋介石、国民政府主席に就任
11.10
昭和天皇即位大礼式(京都御所紫宸殿) 迪宮裕仁親王(27)、第124代天皇に
12.20 日本大衆党結成 |
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