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赤い空と地震の関係

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4月15日の午後2時ごろのモンゴルの空が真っ赤になりました。

黒い物質も舞い降りてきたそうです。

http://matome.naver.jp/odai/2142917478403409501?&page=1


地震との関連は?

http://www.ceic.ac.cn/
イメージ 2

ありそうです。内蒙古自治区で4月15日 15:44分に地震が。同日、多くの地域で地震が観測されています。




こちらに赤い月の画像があります。
http://dostoev.exblog.jp/19589387
イメージ 1

撮影日は2013/05/26 20:03

カメラのモデルや絞り、露出など、撮影詳細情報が画像プロパティから得られたので加工画像ではありません。

撮影地は岩手県大槌湾だそうです。

雲まで赤いので、大気中に発生した何らかの成分の影響かもと考えられます。

検索したところ赤い気体となる物質には赤煙硝酸というものがあるそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%85%99%E7%A1%9D%E9%85%B8

ちなみに北朝鮮がミサイルの燃料に使っている物質だそうです。
http://blog.livedoor.jp/poison_labo/archives/2449283.html

この赤煙硝酸は
硝酸四酸化二窒素を溶かした物質である。
だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%85%99%E7%A1%9D%E9%85%B8


硝酸も窒素も自然界にたくさんあるものです。

なので地震の際に赤煙硝酸が生成される可能性もあるのではないかと思えます。


この赤い月の撮影された10日ほど前に付近でM5、M6の2つの地震があったことが確認できました。


この頃付近であった地震

5月16日 岩手県沖の地震


http://www.jishin.go.jp/main/chousa/13jun/p10.htm
○ 5月16日に岩手県沖の深さ約10kmでM5.0の地震が発生した。この地震の発震機構は南北方向に張力軸を持つ正断層型で、陸のプレートの地殻内で発生した地震である。

5月18日 福島県沖の地震


http://www.jishin.go.jp/main/chousa/13jun/p11.htm

○ 5月18日に福島県沖の深さ約45kmでM6.0の地震が発生した。この地震の発震機構は西北西-東南東方向に圧力軸を持つ逆断層型で、太平洋プレートと陸のプレートの境界で発生した地震である。




大槌湾は海洋環境や地質についていろいろ調査されている地域です。


大槌湾海洋モニタリング調査
http://www.icrc.aori.u-tokyo.ac.jp/member/ktanaka/contents_j/kankyo-monitor/index_kankyo.html


大槌湾の地形と地質
http://mekong.ge.kanazawa-u.ac.jp/Paper/PDFfiles/FujiokaEtAl88.pdf


地震と赤い大気の関係についてどなたか詳しく研究してみてくださいませ
 (=^・^=;)



TOYOTAとワゴンR

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テキサス親父さんがもの凄いトヨタ押し。
しかし理由が。。(=^・^=;)





さて、ランボルギーニ・カウンタックといえば、子供の頃に憧れた方も多いのではないでしょうか。

そのカーデザイナーのマルチェロ・ガンディーニさんの愛車はなんと、スズキ・ワゴンRだそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B

マルチェロ・ガンディーニ

カロッツェリアベルトーネの元チーフデザイナーで、スーパーカー・ブームで有名になったランボルギーニ・カウンタックWRCで大活躍したランチア・ストラトスなど多数のヒット作を持つデザイナーである。またスポーツカーだけでなく、いくつかの優れたファミリーカーや、トラック、バスなど商用車も手掛けており、構造など技術知識に長けたデザイナーとして知られる。現在もフリーランスとして多方面でその才能を発揮している。
ガンディーニのデザインには、リアホイールアーチ上部を斜めにカットしたものが多く見られ特徴となっている。
自動車以外にもオフィス家具や小型ヘリコプターなどのデザインも手がける。

経歴

1938年8月26日、オーケストラの指揮者であるマルコ・ガンディーニの子としてトリノで生まれた。
1950年代後半から1960年代前半はトリノを拠点にフリーランスのデザイナーとして、チューニングカーのボディ製作や郊外の別荘、ナイトクラブのインテリア、漫画などのデザインに関わった。また、ツーリングやマラツィ、ボアノなどカロッツェリアにいくつかのデザインを提供ていた。
1965年11月カロッツェリア・ギアへ移籍したジョルジェット・ジウジアーロの後任としてベルトーネに招かれ、チーフデザイナーなった。 ベルトーネでの彼の最初の作品はランボルギーニ・ミウラでは、前任者ジウジアーロの代表作、シボレー・コルヴェア・テスチュード(1963年)、イソ・グリフォ・クーペ(1963年)、フィアット850スパイダー(1965年)などの特徴を融合、またフォード・GT401964年)やディーノ・206/246(1965年)など時代のスポーツカーの部分的エッセンスを巧みに取り入れ注目を集めた。
1966年から1979年までのベルトーネにおけるすべてのコンセプトカーはガンディーニのデザインであり、その多くは人を驚かす奇抜なデザインであるが、生産モデルに反映されたものは数多い。ジャガーFTはのちのBMW・5シリーズに影響を与え、ジャガー・ピラーナとランボルギーニ・マルツァルのスタイルはランボルギーニ・エスパーダへと引き継がれた。また、アウトビアンキ・ラナバウトはX1/9に、ラナバウトにおける部分的要素、フェンダーアーチやリア・パネルのスタイルは、それぞれランチア・ストラトスランボルギーニ・カウンタックへ引き継がれた。カウンタックで初めて生産モデルに採用された前ヒンジで立ち上がるガルウィング風の跳ね上げドアや、車体先端からキャビンそして後端へ一気に連なったワンボックス状のボディは、アルファロメオ・カラーボのスタイルを反映させたものであった。
1979年7月に組織業務が好きになれないという理由でベルトーネを去り独立。ベルトーネ在籍時の最後の作品はシトロエン・BX1982年発表)となった。以来、フリーランスとしてベルトーネ在籍時と同様に精力的なデザイン活動を行っている。独立後、最初の5年間はルノーと独占契約し、5(シュペールサンク)の内外装をはじめ、ルノー・25アルピーヌV6ターボの内装、商業車ルノー・マスターのデザインを担当、1990年に発表された大型トラックのルノー・AEマグナムではコンセプトからデザインまでを受け持った。
ルノーとの契約が終わった1986年以降からはトム・ジャーダがデザインしたデ・トマソ・パンテーラのリデザインやマセラティ・シャマルキュバスコクアトロポルテ(IV)、チゼータ・V16Tなどのデザインを担当した。

ランボルギーニ・ディアブロブガッティ・EB110のデザインもガンディーニに依頼されたものであったが、各社の経営者層の評判が悪かった為にスタイルは大幅に他人の手を加えられた。ディアブロについては、改修作業を承諾し監修したとしての自身のネームプレート付きで発売され、その後ランボルギーニ社の経営者が変わってから30周年記念車SEとロードスターモデルで彼らしいスタイルへと再改修されて発売された。EB110については、途中で契約が破棄された後の改修であり、自分の作品ではないとしている。

現在、スズキ・ワゴンR[1]エンジンとボディを拡大した欧州仕様)を「機能的である」として愛車としている。

代表作

生産モデル(競技モデルを含む)

試作モデル


GHQと漢字

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今、朝鮮半島で漢字教育が無くなってしまったように、わが国の全ての文字もGHQによって消されてしまうところでした。

http://matome.naver.jp/odai/2136914129576092801?&page=1
(以下転載)
戦後GHQは漢字平仮名片仮名を廃止して、ローマ字にしよういう計画がありました。

どうして、GHQは漢字、ひらがな、カタカナを廃止しようとしたの?

ジョン・ペルゼルという若い将校が「日本語は漢字が多いために覚えるのが難しく、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせている」と発言し、日本語をローマ字表記にしようとする計画が起こされたためです。

ジョン・ペルゼルとは?
ハーバード大文化人類学者です。

日本側の対抗策は・・・・

当時の吉田茂首相は、
すぐ様のローマ字化は難しいとして、
4000字以上使用されていた漢字の数を、

1850字までに削った「当用漢字表」を発表しました。
当時の日本人は・・・
自国の文化に自信がなくなる。

このままでは世界に追いつけなくなる。

反省ムードに・・・・・
そして、ローマ字化に賛成する人も現れる。
有名人では、志賀直哉や湯川秀樹が国語のローマ字化を肯定しています。
新聞もそういう論調になっていきます。

「当用漢字表」発表しかし、GHQも諦めない。

日本人は皆、この当用漢字全てを読み書き出来るのか、
そのテストが必要だという話になりました。


運命の日米共同国語テスト

日本語の運命が決まるテスト、
対象は。、全国民の国語レベルを測るということで、
配給台帳を元に無作為に選ばれた15歳から64歳までの2万人。
1948年8月にテストは行われました。

テストはどういう問題が出たの?

【次の空欄を埋めなさい】
たいしょう にねん はちがつ にじゅうはち にち
大正2年8月( )日
調査するの意味を

・手紙を出す
・かんがえる
・役場に行く
・しらべる
・巡査が來る から選べ

次のひらがなを漢字に直せ。
【りれきしょ】
など、様々な漢字の問題が出されました。

そして、テストの結果は・・・

満点・・・6.2%(少ないです)
0点・・・1.7%(満点よりも少ないです)
平均点・・・100点中78.3点 (高得点です)

思ったよりも高得点だったため、GHQは驚きました。

驚きの高得点、しかしジョン・ペルゼルは・・・

ジョン・ペルゼルは、ローマ字化は政策だからだから、事実を曲げて、試験結果を改竄してくれという要求をしました。

しかし・・・
日本側の東大助教授で言語学者の柴田武はそれを断りました。
最終的には
ペルゼルは、「そうだよな」と言葉を残し、部屋を出て行きました。

結果、日本語のローマ字化は断念されました。

もし、柴田さんが断っていなかったら、日本の未来は変わっていたでしょう。
最後に
日本語にあって、英語には無い物、それは・・・表現力だと思います。

(転載終わり)

おそらく朝鮮半島でも同様の経緯を経てGHQの指導で漢字が捨てられて行ったことでしょう。

漢字のメリット、それは新しい概念を短い文字数で創作できること。

発音上の制限を越えて同音異義語でも識別が可能なこと。

これによって複雑な発音を持たない日本語の中に西洋の近代思想や技術を取り入れることが可能になったのです。

プログラミングで言うと、文字自体に意味を内包する漢字は一種の関数です。

そしてそれらが組み合わさった概念を表す文字列はオブジェクトと言えるかもしれません。

たとえば、「表意文字」「表音文字」

これを漢字を使わないで表すと、

「いみをあらわすもじ」「おとをあらわすもじ」

となります。これを理解する為には何のことなのかしばらく考える必要があります。

「表意文字」「表音文字」の意味する言葉の概念が失われてしまうからです。

その結果、全ての文字は「意味を表し、音を表す」んだから、
どっちだって大して変わらないでしょうというアバウトな解釈になるかもしれません。

これでは論理的な思考は成り立ちません。

日本製の翻訳漢字語を取り入れた中国、なんとか言い換えを試みる韓国。。

それぞれの国の選択ですね。

日本としては戦争に負けても全ての日本語を表す文字を守ることができたことは本当に良かったのではないかと思います。
(=^・^=)

檀君紀元と紀元節と邪馬台国の場所の特定

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韓国には檀君紀元という年号があります。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E7%B4%80%E5%85%83http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AA%80%E5%90%9B%E7%B4%80%E5%85%83
檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。

三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国のの即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古来からの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。

西暦2015年は、檀紀4348年である。

大韓民国における使用

韓国では、独立後の1948年(檀紀4281年)9月25日に檀紀使用に法的根拠を与え、公式な場で使用を開始した。しかし1961年(檀紀4294年)12月2日朴正煕が年号廃止の法令を制定、1962年1月1日からは公式な場での使用が禁止され、公文書では西暦が使用されるようになった。
それ以降檀君紀元は公式な場で使われることはないが、一部の韓国のメディアは西暦と併記する形式で表示を続けている。


西暦2015年は、檀紀4348年

すごいですね!

このへんが、韓国人の日本に対する上から目線の根拠なのかも?

事実とするなら、日本はまだ弥生時代前期です。

一方、日本は神武天皇の即位のBC660年を紀元としています。

2月11日の建国記念日は戦前の日本の紀元節で神武天皇即位の日。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80

こちらもかなり神話レベルです。

以前、日本書紀と古事記を調べていたとき、中国の記述などと年代が合わないことから、2年で1年とするという年号の読み替え方法を編み出してみたのですが、そのとき、ではいつ現在の西暦と一致するのか?という問題がありました。http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/41776053.html

その後調べた結果では、AD432年まで2年で1年と数えると、AD433年で現在の西暦と一致することがわかりました。

奇しくも、日本暦日原典 に記載されている最初の年である445年とちょうど一回り12年違いになりました。なお、前漢BC206(劉邦)時代以前は、60年周期の干支は用いられていなかったそうです。

左側が一年ごと、中央が2年を1年換算した場合です。起点はAD312年の新羅の記述で、「倭国王から王子の通婚の申し入れ」で、翌年神功皇后が嫁入りしていることから、従来のAD192年(壬申)=AD312(壬申)年に置き換えて仲哀天皇元年として、上下に2年を1年として遡ってみました。
すると、神武天皇即位元年はBC113年ということに。。(=^・^=;)
でもまあ、朝鮮の盛りっぷりに比べればカワイイものです。

建国から~

BC660 BC113辛酉神武天皇
BC659
壬戌神武2年
BC658
BC112癸亥神武3年
BC657
甲子神武4年
BC656
BC111乙丑神武5年
BC655
丙寅神武6年
BC654
BC110丁卯神武7年
BC653
戊辰神武8年
BC652
BC109己巳神武9年
BC651
庚午神武10年
BC650
BC108辛未神武11年
BC649楽浪郡(漢)壬申神武12年
BC648 BC107癸酉神武13年
BC647 甲戌神武14年

433年から一年毎の暦に変更すると現在の暦と一致する。


427年
AD430丁卯允恭天皇16
428年
戊辰允恭天皇17
429年
AD431己巳允恭天皇18
430年
庚午允恭天皇19
431年
AD432辛未允恭天皇20
432年
壬申允恭天皇21
433年 AD433癸酉允恭天皇22
434年
AD434甲戌允恭天皇23
435年
AD435乙亥允恭天皇24
436年
AD436丙子允恭天皇25
437年
AD437丁丑允恭天皇26
438年
AD438戊寅允恭天皇27
439年
AD439己卯允恭天皇28
440年
AD440庚辰允恭天皇29
441年
AD441辛巳允恭天皇30
442年
AD442壬午允恭天皇31
443年
AD443癸未允恭天皇32
444年 AD444甲申允恭天皇33
445年
AD445乙酉允恭天皇34
446年
AD446丙戌允恭天皇35
447年
AD447丁亥允恭天皇36

西暦1年、前漢末期の地図(Wikiより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%BC%A2

前漢の位置

卑弥呼の時代はこんな感じです。
邪馬台国は (220-265 曹操の国) に朝貢していました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F_%28%E4%B8%89%E5%9B%BD%29

魏の位置










魏に朝貢AD248癸亥垂仁92卑弥呼没邪馬台国
 甲子垂仁93
倭国連合
 AD249乙丑垂仁94

 丙寅垂仁95

 AD250丁卯垂仁96

 戊辰垂仁97

 AD251己巳垂仁98

 庚午垂仁99 オホタラシ彦オシロワケの天皇(景行天皇)
 AD252辛未景行天皇即位7月11日
 壬申景行2
立播磨稻日大郎
 AD253癸酉景行3
2月1日紀伊
 甲戌景行4
2月11日美濃・櫛角別王生誕
 AD254乙亥景行5

 丙子景行6

 AD255丁丑景行7

 戊寅景行8

 AD256己卯景行9

 庚辰景行10

 AD257辛巳景行11

 壬午景行12

 AD258癸未景行13

 甲申景行14  
 AD259乙酉景行15

 丙戌景行16

 AD260丁亥景行17

 戊子景行18

 AD261己丑景行19

 庚寅景行20

 AD262辛卯景行21

 壬辰景行22

 AD263癸巳景行23

 甲午景行24

 AD264乙未景行25

 丙申景行26
武内宿禰戻る
 AD265丁酉景行27 熊襲征伐出立10月13日
魏滅ぶ戊戌景行28 出雲、熊襲平定
 AD266己亥景行29

 庚子景行30



















魏が滅ぶと同時に天皇は熊襲征伐に出向いていますから、邪馬台国と倭国連合は出雲、熊襲のあたりだったと考えても良いのではないでしょうか?

そうすると、当時、鉄の生産が盛んだった出雲が邪馬台国だったかも?

村雲前というバス停に、スサノオ伝説の残るこの地は神剣
天叢雲剣」を産み出した国でもあります。
http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2013/2013_0323_Izumo3/2013_0323_Izumo3_02.html


魏志倭人伝は「ヤマタイコク」を「邪馬台(臺)国」とは記していない。「邪馬壱(壹)国」と書き、「山一国」か「山居国」あるいは「山入国」の意味であり、女王の在所地を言っている。女王卑弥呼は「日の巫女」として、太陽に近い山岳に住み、高地性集落を形成し、周辺諸国を宗教的に支配した。
http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai00.htm

出雲王朝の国名は大国です。





http://kodai21-s.sakura.ne.jp/h1.html








ということで、邪馬台国の場所は九州かと思っていたのですが、私の中では出雲が最も有力となりました。(=^・^=:)

出雲では弥生時代から「たたら製鉄」が行われていたので、この重要な地を魏志倭人伝では敵国に悟られぬように場所をぼかして記述したのではないかと思います。









以下、炭素14による年代の特定です。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/news/hyou.htm






































教科書の任那復活

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いままでしばらくの間検定教科書に不記載だった任那・日本府の記述が復活するそうです。

なんで記載されないでいたかというと、在日左派勢力及び朝鮮半島からの圧力があったからのようです。今回も韓国の首相が怒ってましたが政治資金絡みで辞任されるようです。(=^・^=;)




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三国時代、4〜5世紀半ばの朝鮮半島左は韓国の教科書で見られる範囲、右は日本の教科書で見られる範囲。半島西南部の解釈には諸説がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6

任那について今は伽耶諸国ということになっていると私が知ったのはWikiを見てでした。
そもそも朝鮮半島に古代日本の領土があったという教育は受けておらず、
任那・日本府は大使館のようなものだばかりと思っていたのですが、
けっこう大きな勢力だったということが今回調べてみてわかりました。

伽耶諸国のリーダー国で代々倭人が王を務めた金冠伽耶には製鉄所がありました。

新羅はこの国を攻め、自国の領土としてしまい、金冠伽耶の王族を新羅の貴族として迎えました。先端技術を手に入れた新羅はさぞかしホクホクだったことでしょう。場所が釜山というのも、何かの因縁?

日本が韓国に
日韓基本条約に伴う対日請求権資金などによる資本導入と技術移転して造った浦項総合製鉄所。
そのポスコの製鉄技術は2004年頃から急激に向上し、新日本製鐵の高品位製品のシェアを奪っていったが、これは1990年代に新日鐵を退職した技術者が、新日鐵が数十年と数百億円をかけて開発した門外不出の「方向性電磁鋼板」の技術をポスコに流出させたことよるものである。
以上Wikiより。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%82%B3#cite_note-5

話がそれましたがその金官伽耶の伝説。
この国の建国神話は日本の天孫降臨とよく似ており、「亀旨峰(クジボン)」という山に6個の卵が降りてきて、卵から生まれた王たちは、それぞれ6伽耶の王になったというもので、その最初がこの「首露王」なのである。亀旨峰という名前も、古事記にいう「久士布流岳」(くじふるだけ)と似ていて、その類似性に注目する学者も大勢いる。なお、首露王は金の卵から生まれたというので、姓を「金」と名乗ったとされている。
http://inoues.net/korea/korea_shuroou.html


【首露王陵】http://inoues.net/korea/korea_shuroou.html


下の画像の参道に似た通路のまんなかあたりに鳥居ににた柱もあります。
(以下転載)
魏書東夷伝倭人条には、魏の使者は帯方郡を出発して朝鮮半島の西海岸を南下し、南海岸の「狗邪韓国」に至る。さらに一海 を渡って対馬国に至り、更に大海を渡って壱岐、松浦と経由して邪馬台国へ至る。

狗邪韓国を現在の金海地域とする見方は、いわば定説となっている。

    3世紀後半の『三国志』魏書東夷伝韓条では狗邪国、倭人条では狗邪韓国、その後日本では任那とも呼ばれる国が、韓半島南 部にある。金海を中心に存続した6伽耶の一つ「金官伽耶」(賀洛国)である。高麗朝(1280年代)に僧一然が編纂した『三国遺事』の中にその名前があらわれ、大伽耶または本伽耶、あるいは南伽耶とも呼ばれた。



「賀洛国」創世の卵生神話やその年代(第1代42~199年 首露王)については、日本同様そのまま史実とは認めがたいが、首露王が降臨したとされる後漢建武18年(AD42)あたりの時期から、この地域に鉄器文化の大普及をみるという点は注目に値する。

外部からの支配者集団が移入してきた事実を強く示唆していると思われる。韓国内では、最近の考古学の成果から伽耶の建国時期は遅くとも3世紀頃との意見が台頭して来ており、これは馬韓・辰韓・弁韓の「三韓時代」にあたる。

金官伽耶は、韓半島南部の鉄生産拠点として繁栄し、絢爛たる伽耶文化を開花させた。その影響力は洛東江支流の奥深くまで及び、他伽耶諸国のリーダー格(宗主国)に浮上する。ここで造られたと考えられる鉄製武具・鉄挺などはこの後訪れた「福泉洞遺跡」からも発見されている。

やがて伽耶は百済の影響下に入り、高句麗と百済の関係悪化に呼応して親新羅政策をとっ たりするが、結局は新羅に攻撃されて、第10代仇衡王が532年に新羅に降伏して、490年間の金官伽耶は消滅する。

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さて狗邪韓国は金官伽耶ということですが、
狗邪韓国は魏志倭人伝によれば、邪馬台国の影響下にある国でした。

なぜそう判断できるかというと、狗奴國についてのみ、わざわざ女王国連合に入っていないと記述されているからです。

「その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。郡より女王國に至ること萬二千余里。


では、その女王国はどこに?

魏が滅んだ直後にヤマトタケルが出雲と熊襲平定に出発している

魏への朝貢国である邪馬台国に後ろ盾がなくなったと大和朝廷が判断して出兵したと考えられる

ということは遠征先の出雲か熊襲が邪馬台国である可能性が高い

多くの国を服属させている邪馬台国は資金も軍事力も豊富なはず。

ということは鉄の生産を行っていた出雲が邪馬台国なのではないか?

魏ではそのことを承知していてあえて他国に鉄の武具が渡らないように邪馬台国の場所を判らないように記述した。

と推理したわけです。(=^・^=)

ただ、遺跡から見ると出雲には製鉄跡を示す出土が少ない。。
金官伽耶にお引越しなさったからなのか、それともやっぱり九州なのか?
九州からは馬具なども出土していてこちらの可能性も捨て切れません。
でも大和朝廷は出雲の国譲りに格段の配慮をしている様子。。(悩
(;=^・^=) 

金官伽耶の始祖、首露王については、スサノオなのではないかと考える人もいます。
http://blog.goo.ne.jp/go-hot-ai2395/e/3ef6b70ec3b30dd09789e575d34403ba

スサノオは出雲と関係が深く、ヤマタノオロチを十束剣で倒し、中から草薙の剣(天叢雲剣)を取り出して奉納したことになっています。
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出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai11.html
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大和朝廷的には、スサノオ=牛頭大王=朝鮮の神 として、
神社に祀って新羅など対外的にも良い印象を持たれるようにしたのかも?

八坂神社ホームページ

島根県のホームページ。博物館案内など。

出雲族は大和族に侵略されたので当時の先端技術だった鉄を作る拠点を出雲から朝鮮半島へ移したのかもしれません。
金官伽耶も女王国と同じく近隣国のリーダー国でした。
そして、朝鮮には鉄が豊富でした。

下は
首露王の古墳傍の釜山の博物館
http://4travel.jp/travelogue/10471490
日本へ鉄製品を輸出する風景。まるきり古代の日本人がいますね。(=^・^=)

とりあえず首露王は倭人だったようです。

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魏志倭人伝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E5%BF%97%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D
原文 日本語訳
倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。倭人は帯方郡の東南の大海の中に在り、山島に依って国邑とし、の頃から大陸への朝貢があり、記述の時点では30箇国が使者を通わせている。
從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。帯方郡から倭国に至るには、水行で海岸を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で〔倭の〕北岸の狗邪韓国(くやかんこく)に到着する。
始度一海千餘里、至對馬國、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離、所居絶㠀、方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸。無良田、食海物自活、乗船南北市糴。始めて海を1000余里渡ると、対馬国に至る。大官は卑狗(ひこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へいく。
又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林。有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。また南に瀚海と呼ばれる海を1000余里渡ると一大国に至る。官は対馬国と同じ。300余里四方。竹、木、草むら、林が多い。3000許(ばか)りの家が有る。田畑は有るが田を耕すが食糧には足りず、南北から市へいく。
又渡一海千餘里、至末廬國。有四千餘戸、濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈没取之。また海を1000余里渡ると、末廬国に至る。4000余戸が有り、山海に沿って住む。草木が茂り、前を行く人が見えない。魚やアワビを捕るのを好み、皆が潜る。
東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。東南へ500里陸行すると、伊都国に到着する。長官は爾支(にき)、副官は泄謨觚(せもこ)と柄渠觚(へくこ)。1000余戸が有る。世々、王が居る。皆、女王国に属する。帯方郡の使者の往来では常に駐在する所。
東南至奴國百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。東南に100里進むと奴国に至る。長官は兕馬觚(しまこ)、副官は卑奴母離(ひなもり)。2万余戸が有る。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。東へ100里行くと、不弥国に至る。長官は多模(たも)、副官は卑奴母離(ひなもり)。1000余の家族が有る。
南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸。南へ水行20日で、投馬国に至る。長官は彌彌(みみ)、副官は彌彌那利(みみなり)である。推計5万戸余。
南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日、陸行一月。 官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳鞮。可七萬餘戸。南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

その他の国々

女王国より北方にある、狗邪韓国対馬国一大国末盧国伊都国奴国不弥国投馬国邪馬台国の9箇国の他に、遠くに在って国名だけしか分からない国として斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国が記録されている。また、南の狗奴国の男王卑弥弓呼とは不和との記録もある。

Wikisource-logo.svg魏志倭人伝の原文の抜粋とその日本語訳を示す。
原文 日本語訳
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、 次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、 次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、 次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。 此女王境界所盡。女王国より北方にある国々は、其の戸数・道里を略載することが可能だが、其の他の傍国は遠く絶(へだ)たっていて、詳(つまびらか)に得ることができない。斯馬国、己百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国。此れが女王の境界が尽きる所である。
其南有狗奴國。男子爲王、其官有狗古智卑狗。不屬女王。其の南には狗奴国がある。男子を王と為し、其の官に狗古智卑狗(くこちひく)が有る。女王に属せず。
自郡至女王國、萬二千餘里。帯方郡から女王国に至る、1万2000余里である。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%BB%E9%82%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%9C

歴史史料における任那

中国

  • 広開土王碑文(414年建立) : 永楽10年(400年)条の「任那加羅」。
  • 宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記される。その後の『南斉書』も併記を踏襲している。
  • 梁書』(629年成立)は、「任那、伽羅」と表記を変えて併記する。
  • 翰苑』(660年成立)新羅条に「任那」が見え、その註(649年 - 683年成立)に「新羅の古老の話によれば、加羅と任那は新羅に滅ばされたが、その故地は新羅国都の南700~800里の地点に並在している。」と記されている。
  • 通典』(801年成立)辺防一新羅の条に「加羅」と「任那諸国」の名があり、新羅に滅ぼされたと記されている。『太平御覧』(983年成立)、『冊府元亀』(1013年成立)もほぼ同様に記述している。

日本

  • 日本書紀』(720年成立)崇神天皇条~天武天皇条に「任那」が多く記される。
  • 『肥前風土記』(713年成立)松浦郡条に「任那」が見える。
  • 新撰姓氏録』(815年成立)は、任那に出自を持つ10氏とそれぞれの祖が記載されている。「任那」のほか「彌麻奈」、「三間名」、「御間名」と表記される。

朝鮮半島

  • 『鳳林寺真鏡大師宝月凌空塔碑文』(924年成立):大師の俗姓について「任那の王族に連なる新金氏」としている。
  • 三国史記』(1145年成立):列伝に1例見られる。(巻46・強首伝:「臣本任那加良人」)。
魏志倭人伝(朝鮮半島に中国の魏によって帯方郡が置かれた。卑弥呼が朝貢する。220-265)
『三国志』「魏書」東夷伝韓条では「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限界とし、南は倭と接し、四方は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓辰韓とは昔の辰国のことで馬韓は西にある」とし[3]、韓と倭は接している(陸続きである)と記述している。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%97%E9%82%AA%E9%9F%93%E5%9B%BD

日韓両国以外の評価・見解

世界各国では世界約50カ国で教科書を出版しているオックスフォード大学の出版社が制作している教科書は「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した」と記述している。また、プレンティスホール社が出版しているアメリカの教科書『世界文化』は「西暦400年ごろ、(日本は)幾つかの氏族が連合して日本の大半を統一し、朝鮮南部の地域を統治するまでに至った」と記述してあり、カナダオーストラリアの教科書もまた、同様の記述が存在する[17]。またコロンビア大学のオンライン百科事典や米議会図書館には、「古朝鮮は紀元前12世紀に、中国人、箕子朝鮮半島北部に建てた国だ。その当時、朝鮮半島南部は日本の大和政権の支配下にあった」と書かれている[18]中華人民共和国では上海人民出版社が出版している教科書『世界史講』は「新羅は、半島南方で 早くから長期間にわたって倭人の基盤となっていた任那地区を回復した」と記述している[19]

中華人民共和国の外務省は、同省のホームページの日本史介欄で
、「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と記述していたが、
韓国政府からの抗議を受け、日本紹介欄から第二次世界大戦以前の日本歴史部分を全て削除した

以上Wikiより


韓国は朝鮮半島から日本の痕跡を消し去りたいようですが、最近、高句麗・百済にあるのとよく似たピラミッド型古墳が日本で見つかりました。

削除依頼するより共同研究したほうが良いと思うのですが。。(=^・^=;)

釜山の博物館の展示、日本でもやってくれたら見に行くのに。残念。

(以下転載)

日本、高句麗より1世紀前のピラミッド型古墳の発見

http://kankokunohannou.org/blog-entry-675.html
高句麗・百済ピラミッド古墳より1世紀前の築造と推定

日本で6世紀に築造された階段状のピラミッド型古墳が発見され、日本の歴史学界が搖れている。
明日香教育委員会と関西大学は、奈良県明日香村で飛鳥時代(593~622年)都塚古墳を調査中、階段状のピラミッド型を初めて確認したと、去る13日発表した。

015.3.2 06:30更新


明日香・都塚古墳で「階段状遺構」新たに発見、「ピラミッド」改めて裏付け…関西大など調査

都塚古墳のイメージ

 蘇我稲目(いなめ)の墓の可能性が高く、階段ピラミッド状の巨大方墳とされる奈良県明日香村の都塚(みやこづか)古墳(6世紀後半)で、新たに築造当初の階段状の墳丘のコーナー部分が見つかり1日、関西大と同村教委が発表した。古墳が階段ピラミッド状の方墳であることが、改めて裏付けられたとしている。

 都塚古墳は、昨年8月の発掘調査で墳頂部に近い墳丘東斜面から石積みの階段状遺構が4段分(長さ約6メートル)見つかり、築造当初は階段ピラミッド状の巨大方墳(東西41メートル、南北42メートル、高さ7メートル以上)だったことが分かった。
 関西大などがその後、遺構が見つかった場所の南側を発掘したところ、築造当初の墳丘の南東コーナー部分の階段状遺構が3段分確認された。
 関西大の米田文孝教授(考古学)は「階段状構造については疑問を持つ考えもあったが、少なくとも墳丘上部は階段状をしていたことが裏付けられた。高句麗の積石塚(つみいしづか)などの影響を受けた可能性もある」としている。
 遺構はすでに埋め戻され、現地説明会は行わないが、発掘調査成果の写真パネル展を23日~4月9日に村埋蔵文化財展示室で開催する。問い合わせは明日香村教委文化財課((電)0744・54・5600)。

http://www.sankei.com/west/news/150302/wst1503020012-n1.html

高句麗のピラミッド型古墳


高句麗のピラミッド古墳
http://www.chinatrip.jp/jian/attraction/attraction-431.htm

ドローン

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ドローンという無人小型ヘリによる首相官邸を狙ったテロ攻撃があったそうです。被害は無かったようですが、オウムがヘリでサリンを撒こうとしていたことを思い出して戦慄が走ります。



官邸墜落「ドローン」から放射線

産経新聞 4月22日(水)14時16分配信


最終更新:4月22日(水)15時37分
産経新聞


ネット民の声
http://hosyusokuhou.jp/archives/43728216.html

1シャチ ★2015/04/22(水) 13:43:51.82 ID:???*.net
「ドローン」と呼ばれる無人の小型空撮機の世界最大手・DJI社が21日、
都内で新製品「PHANTOM3(ファントム3)」をお披露目した。


最も安いもので13万9800円。すでに世界で4万台、日本で4千台の先行予約が
入っており、国内では5月中旬から店頭やネットで一般販売される。


DJIは三井住友海上火災保険と提携し、ファントム3を買ったユーザーが1年間、対人・対物の保険に
無償で入れる制度を付けた。
落下事故で人に被害を与えた場合には、最大1億円の保険が
支払われる。空撮など業務に使うユーザーに限られるが、世界初の取り組みという。


DJIは中国企業で、これまで100万台以上のドローンを出荷。世界最大手のメーカーに急成長した。
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ソース 朝日新聞 (福山崇) 2015年4月22日
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6FMMH4PUEHF01J.html


【関連】

首相官邸屋上に小型無人機『ドローン』落下! カメラ付 放射能マーク

墜落のドローンから放射線 …首相官邸


83名無しさん@5月17日まで板ルール集中議論中2015/04/22(水) 14:28:16.61
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DJIの世界シェアは60%と言われている


87名無しさん@5月17日まで板ルール集中議論中2015/04/22(水) 14:33:44.44

マスコミ・・特にNHKががやたらにドローンの宣伝すると思ったら中国企業だったのかよ


26. 名無しさん@ほしゅそく   2015年04月22日 16:21

中国の国防動員法が発動したら在日中国人がドローンでテロ事件を起こすかもしれないということ?


27. 名無しさん@ほしゅそく   2015年04月22日 16:22  

首相官邸とか皇居とか自衛隊基地とか、
重要施設へのドローンの侵入を取り締まる法律をすぐに作れ!
ヤバいことが起きてからじゃ遅いぞ。


35. 名無しさん@ほしゅそく   2015年04月22日 16:24  

ただの登録制は駄目だね、偽名やら住所を偽る手段はいくらでもある
自動車の免許証みたいにライセンス制にして本名、本籍地などの詳細データ、期限更新にした上で
販売業者を限定すればある程度は防げるはず


36. 世界初のドローン核テロ   2015年04月22日 16:24 

ドローンで核テロ!
世界初の悪行ですね。

歴史認識を考えてみる(4)

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倭寇・入寇と勘合貿易
元寇と秀吉の朝鮮遠征前後のこまかい歴史を見てみます。
対馬がほぼ独立国レベルの大きな存在だったことがわかります。

812年から906年まで新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

新羅の入寇(しらぎのにゅうこう)は、古代朝鮮半島に栄えた王国、新羅の流民や帰化人による犯罪及び新羅王の勅命による国家規模の海賊行為等の総称。かつては「新羅の賊」と呼ばれた。新羅寇とも言う。
新羅の国内の混乱により、811年から新羅が滅亡する935年までの間に、度々、新羅の賊が日本各地を侵した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%81%AE%E5%85%A5%E5%AF%87

一方、日本からは倭寇が朝鮮を侵略しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
倭寇の襲来に怯える高麗では、軍備が荒廃して満足に戦えず[36]、倭人(投化倭人)を巨済島や南海県などに住まわせ、時に食料を供給することで鎮撫しようとしたが、倭寇はそこを新たな出撃地としただけで海賊活動は止めず、この政策は完全に失敗した。倭寇は府庫の米だけなく奴婢の獲得を狙うようになり[36]、逃亡した禾尺才人と言った高麗賤民なども倭寇の側に合流した[35][37]
1375年には家臣団を連れて投降した倭人の藤経光を誘殺しようとして失敗し、逆に激しい報復を受けた。以後、倭寇は暴虐の度をむしろ高めて「倭寇猖獗」と呼ばれる前期倭寇の最盛期を迎えた。
1380年には朝鮮で鎮浦大捷と撃退が賞賛される倭寇500隻[38]の大襲撃があった[35]。高麗は海賊取締を要請したが日本の北朝に無視されたため、
1389年対馬に軍を差し向ける康応の外寇を行ったと言われている[39]
高麗が滅び李氏朝鮮に代わると、太祖李成桂は日本に禁寇を要求した。
1392年、南北朝合一を果たして動乱を治めたばかりの足利義満は日本側として初めてこれに応じ、今川了俊に倭寇取締が命じられた。了俊はさらに守護大名大内義弘に命じて倭寇鎮圧の功績を上げた。

朝鮮側が言う
1396年の壱岐・対馬征伐は日本側に記録がないが、いずれにしても、日朝の取締強化によって前期倭寇は減退の傾向を見せていた。しかし
1419年太宗上王世宗応永の外寇(己亥東征)を実施して227隻1万7千余の大軍勢で、壱岐・対馬を侵攻した。
応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代応永26年
1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬攻撃を指す。
実際の戦闘は、対馬の糠岳(ぬかだけ)で行われたことから糠岳戦争とも言い、朝鮮では己亥東征と言う。

朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払っただけで10日余りで対馬から撤退した。明らかに戦果は不充分であり、朝鮮側もすぐに再遠征を議論したが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。

前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。
一方、征伐を受けた対馬は、日朝貿易を独占して、朝鮮との唯一の窓口へと成長した。

ちょうどこの頃、明の永楽帝との関係が拗れていた時期で、将軍足利義持は明が朝鮮と連合して攻めてきたのかと驚き、京都では三度目の蒙古襲来という噂が広がって大きな衝撃が広がった[16][36]
幸い、この外寇は宗貞盛の僅かな手勢によって撃退され、台風を恐れて撤退した。結局、これが朝鮮側からの最後の日本侵攻となった[40]

前期倭寇は、明の海禁勘合貿易が始まるなどしたことで
1444年頃にほぼ終息した。

他方、日朝貿易の増加は、通交統制となって、
1510年恒居倭人(朝鮮居留日本人)の反乱である三浦 (さんぽ) の乱という副産物を生んだ。
壬申約条
1510年に発生した三浦の乱により、日本と朝鮮王朝との通交は断絶していた。通交再開の条件として朝鮮王朝側が一方的に突きつけたものが壬申約条であり、明治の日本の朝鮮進出後には永正条約との言い換えが為されたものの、条約としての体裁はない。
三浦の乱後、通交の断絶によって困窮した宗氏は大内義興を頼り、義興が後見する室町幕府将軍足利義稙の使者として派遣された弸中の助力を得て通交再開の交渉を行ったが、その結果として通告されたものである。
  • 恒居倭(三浦(塩浦釜山浦乃而浦薺浦))に定住していた日本人)の廃止。
  • 開港場を薺浦のみに制限。
  • 島主歳遣船(宗氏本宗家が毎年遣わす使送船)を嘉吉条約における50隻から半分の25隻に削減。
  • 宗氏有力庶家名義の歳遣船、特送船(緊急の報告のための遣船)、興利倭船の禁止。
  • 李氏朝鮮から対馬・宗氏への歳賜米歳賜豆を嘉吉条約の200石から半分の100石に削減する。
  • 受職人(李氏朝鮮から官職を授かった日本人)及び受図書人(「図書」と呼ばれる通交許可証を持つ日本人)に対する再審査を行い、実態の伴わない者の資格を剥奪してその人数を減らす[1]
などの内容であった。宗氏はこの要求に屈し、この規則に基づく関係は豊臣秀吉朝鮮征伐まで継続されることになる。

1544年には蛇梁倭変があり、

丁未約条(ていびやくじょう)とは、1547年朝鮮王朝対馬宗氏の間で結ばれた来航者取締規則のこと。
1544年に発生した蛇梁倭変により全羅道を中心とした沿岸部で大打撃を受けた。
1512年に宗氏と朝鮮王朝の間で締結された壬申約条は破棄され、日本国王使(室町幕府使節)および大内氏少弐氏の使節を除き、日本からの通交(外交を兼ねた貿易)は禁じられた。
日朝貿易を経済的基盤としていた宗氏は事態の打開を図り、
1547年に偽日本国王使を派遣した結果、締結されたのが丁未約条である。
三浦の乱の講和条約である壬申約条では、島主歳遣船(対馬から通交のため毎年派遣される貿易船)を50隻から25隻に削減、多くの深処倭(対馬以外の日本人のこと)名義の歳遣船の停止等、宗氏に通交の抑制を強いるものであった。その後の度重なる交渉により、島主歳遣船は30隻にまで回復していたが、丁未約条では再び25隻に削減される。またそれ以外に、50年以前の受図書人(朝鮮王朝により通交許可を受けた者)・受職人(朝鮮王朝より官位を受けた者)の通交権の停止[1]、入港場を釜山浦・薺浦(慶尚南道昌原市)の二港から釜山浦一港に削減、加徳島以西に来泊する者は倭寇とみなす等、壬申約条よりもさらに通交の抑制を進める厳しい内容となっていた。

1555年に発生した達梁倭変により全羅道を中心とした沿岸部で大打撃を受けた朝鮮王朝側は、宗氏に対して倭寇の禁圧に強く要望し、一方貿易再開を目指す宗氏も倭寇の討伐を行って貿易再開と壬申約条・丁未約条からの条件緩和を求めていた。
1556年に日本国王使を派遣して行なった交渉によって、翌年の4月に丁巳約条が締結され、倭寇の取締と引換に宗氏の歳遣船を年25隻から30隻に増やされた。
以後、豊臣秀吉朝鮮出兵までこの約条が朝鮮王朝と対馬との関係を規定することになる。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E5%B7%B3%E7%B4%84%E6%9D%A1

丁未約条締結後、宗氏は通交抑制の緩和を求める交渉を繰り返し、
1557年丁巳約条が締結されることとなる。
1588年、秀吉は海賊停止令を発布している。

丁巳約条(ていしやくじょう)とは、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E5%B7%B3%E7%B4%84%E6%9D%A1
1557年明宗10年/弘治3年)に朝鮮王朝対馬宗氏の間で合意された来航者取締規則のこと。明治の日本の朝鮮進出後には弘治条約との言い換えがなされた。
三浦の乱後の1512年に結ばれた壬申約条(永正条約)で宗氏に対して貿易再開と引換に過酷な要求を認めさせた朝鮮王朝であったが、
1544年に発生した蛇梁倭変によって、日本と朝鮮王朝との通交は再度断絶、
1547年には更に過酷な丁未約条(天文条約)が結ばれた。


すでに1540年(天文9年)の時点で、日朝貿易に従事する大内義隆が明の北京へ派遣した湖心碩鼎ら第18次遣明使が、「日本は朝鮮を服事(服属)させているから、席次は朝鮮より上にすべし」と要請していた[45]


勘合貿易と後期倭寇

海禁が緩み、明との貿易が始まったことにより、倭寇の主なターゲットが日明貿易にうつりました。

後期倭寇 

嘉靖年間(1522年 - 1566年)に入ると広州における外国商船受け入れや日明勘合貿易が中断し、密貿易は益々盛んになっていった。1522年に屯門島を不法占領していたポルトガル船が明軍に駆逐されると明朝は広州貿易を禁止する。この措置は1529年に解かれて貿易が再開されるが、来港商船は新たに貢期と勘合の遵守を求められたため目的地を福建・浙江へ移して密貿易に参加した[23]。また1523年に寧波の乱が起こると日明勘合貿易は停止、1536年に再開されるが貢期に大幅な制限を加えられ、それも1551年に大内氏が滅亡すると途絶える。明朝は寧波の乱を契機に海禁の引き締めを行い、違反者を倭寇とみなして取り締まるが出海する者は増加の一途を辿った[24]
明代中期に商品経済が発達する中、物流を海運に支えられながら地域間分業は進み、また貿易を通して海外諸国との経済的連関は強まっていた[25]。しかし広州貿易と日明勘合貿易の中断に加え、嘉靖年間に「不許寸板下海」を合言葉に沿岸交易にも規制が加えられると[注 4]、沿海部住民は生活を圧迫され、出海、密貿易へと追いやられた[26]
倭寇の襲撃

さらに16世紀中頃には、石見銀山などの鉱山開発の進行や灰吹法の導入により日本における銀生産量が急増する。明国国内では嘉靖年間には慢性的な銀不足に陥っており[注 8][27]、安価な日本銀は中国人海商のみならずヨーロッパ人も惹きつけ、日明貿易への参加を促した。

日明貿易における利潤は通常10倍程度であったと推定されているがこの時期には100倍に上ったともされ、沿海部住民は家業を棄て密貿易に走り、漁船は交易品を積んで沖合で密貿易船と接触、大商は様々な口実を設けては大船を建造して出海し、郷紳達は密貿易船に自身の旗を掲げて政治力を楯に官憲の干渉を防いだ[28]。多くの社会的階層に属する者が参加して密貿易は急速に大規模化し[29]王直徐海ら頭目が束ねる大勢力も出現した。舟山諸島双嶼港章州月港などの中国東南沿海部各地には密貿易拠点が出現し、博多商人ポルトガル人なども来航する国際貿易港となっていた[30]


明朝はこれらの者達を倭寇(後期倭寇)と見なしていたがその大半は中国人であった。彼等は密貿易に止まらず武装して官兵に抵抗し、時に各地を襲撃して回った。沿海部住民のうち直接密貿易に関わらない者も物資の提供・貨物の運搬等各種サービスを通じてその恩恵を受けており、倭寇に通じて行動を共にした[31]。こうした事態に明朝は1547年に朱紈浙江巡撫に任命し厳格な海禁を実施させた。朱紈は双嶼港を襲撃して壊滅させ、李光頭許棟を逮捕処刑するなど海上粛清を断行し、東南沿海地区を閉鎖した。しかし海商・郷紳等と気脈を通ずる中央官僚の弾劾を受けて1549年に罷免され、自殺に追い込まれる[32]。朱紈失脚後、強圧的な取り締まりに対する民衆の反発は嘉靖大倭寇という形で現れ、後期倭寇は最盛期を迎え各地で猛威を奮った。


日明貿易の「勘合」(にちみんぼうえきの「かんごう」)

 9世紀末に遣唐使(けんとうし)の派遣(はけん)が中止されて以来、長い間、途絶えていた中国との交流が再開されたのは、室町(むろまち)時代に入った応永(おうえい)8年(1401)のことでした。この年、博多の商人のすすめによって、室町幕府(ばくふ)の将軍足利義満(しょうぐんあしかがよしみつ)(1358~1408)は、当時の中国いわゆる明(みん)に船を派遣します。日明貿易(にちみんぼうえき)の始まりです。

 現在、中国に行こうとすれば、大阪から上海(しゃんはい)まで船で3日間、飛行機だとわずか2時間あまりという短時間で、簡単に行くことができます。しかし、風任せの当時の船では、どんなに急いでも片道の航海だけで約1月、それに出発前の風待ちや中国に渡ってからの陸路の旅を含めると、往復で足掛け数年にわたることも少なくありませんでした。そのような困難な旅ではありましたが、日明貿易はこののち16世紀の半ばまで約150年の長きにわたって続き、その間、実に19回も遣明船(けんみんせん)が明に派遣されることとなります。

  • 策彦帰朝図
    策彦帰朝図 <妙智院>

 この日明貿易によって、中国からは銅銭(どうせん)、生糸(きいと)がわが国に輸入され、またわが国からは硫黄(いおう)、刀剣(とうけん)、扇(おうぎ)などが中国に輸出されました。通貨(つうか)である銅銭が輸入されていたというのは、現代の私たちから見るとなにか不思議な気がしますが、当時、わが国では銭をまったく作っておらず、国内で流通する通貨は、すべて明からの輸入に頼っていたのでした。
 それはさておき、この日明貿易には今日の貿易と大きく異なる点がありました。それは両国の関係が対等ではなかったことです。明は自分たちの国が世界の中心にあるという、いわゆる中華思想(ちゅうかしそう)にもとづいて対等の交流をいっさい認めず、あくまでも献上品(けんじょうひん)にお返しを与えるという形でしか、他国との貿易を認めていなかったのです。

 そしてそのため献上品を積んできた正式の船であることを証明するものとして、明が国々に与えていたのが「勘合(符)(かんごうふ)」と呼ばれる札(ふだ)でした。むろんわが国にもこの「勘合」が与えられています。
 「勘合」とは一種の割符(わりふ)で、そこに記されている片割れの文字は、「底簿(ていぼ)」と呼ばれる台帳の文字としか一致しないようになっていました。

明では、「勘合」を「底簿」と照合することで、その船が献上品を運んできた船かどうかを判断したのでした。
 残念ながら、「勘合」の実物は残っていません。ただ、幸いなことに応仁(おうにん)2年(1468)に将軍足利義政(あしかがよしまさ)の命令で明に渡った天与清啓(てんよせいけい)という禅僧が記録した『戊子入明記(ぼしにゅうんみんき)』という記録に、その形を写しとった図が描かれています。写真にあげたのが、その「勘合」の図です。

  • 大明勘合符
    大明勘合符<妙智院>

 これを見ますと、縦長の紙の札で、中央に「本字壱号(ほんじいちごう)」という文字が書かれているのがよくわかります。「勘合」の大きさは、この図からはちょっと想像しにくいのですが、実際にはかなり大きく、縦は約82センチメートル、横は36センチメートルもあったといわれています。国の間でやり取りされる文書だけに、立派で大きな紙が用いられたのでしょう。
 また文字ははんこで押され、数字だけが筆で書き入れられていたといいます。さらに文字と数字のどちらかははっきりしませんが、一方は朱(赤色)であったこともわかっています。実物の「勘合」は見た目には実に鮮やかで、堂々としたものであったに違いありません。

美術室 下坂
1993年11月13日http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/shoseki/nichimin.html

弥生時代の先進国丹波(1)

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弥生時代のはじめにどこの地域の人々がどうやって日本列島に来たのか。
今までは朝鮮半島からの流入がほとんどと言われていましたが、どうも中国大陸から来た人々が多くの新技術をもたらしたようです。

丹波~丹後のバス路線図


京都府丹波・丹後地方 市町概略図


京都府京丹後市峰山町長岡の途中ヶ丘遺跡

途中ヶ丘遺跡(BC300)から中国由来の土笛がガラスビーズと共に出土しました。
中国の笛が出たというのは、このあたり一帯が渡来人達の工業製品の生産拠点になっていたことを示すものだと思います。
丸いオカリナみたいでカワイイです。(=^・^=)

途中ヶ丘遺跡
峰山町の途中ヶ丘遺跡からは弥生時代前期末の溝から陶けん(土笛)が出土した。高さ6cmほどの小さなヤシの実のよう
    な形で、4,5個の穴が開いている。類似の土笛は、他に松江、下関など、全部で20件ほどしか出土例がない。

 





 
http://inoues.net/tango/tochugaoka.html


京都府京丹後市峰山町丹波の扇谷遺跡


■扇谷遺跡(峰山町)http://inoues.net/tango/ohgidani.html
途中ヶ丘、扇谷の両遺跡の興亡は互いに相関関係にあったような
ふしがある。扇谷遺跡は、弥生前期末から中期始め
(1世紀末~2世紀初め)にかけての高地性大環濠集落で、
竹野川流域を一望する丘陵にある。二重の環濠が巡らされ、
V字形の内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mの巨大なもので
ある。途中が丘遺跡と同じように、大量の土器、石器、陶けん
(土笛)、鉄斧などの鉄製品やガラス玉などが出土した。
途中が丘遺跡とは2km程しか離れていない。写真でわかるように、
この環濠の深さ、鋭さは尋常ではない。環濠の底から上端まで4m、
傾斜角は50度以上で、とても一人で登れるような角度ではない。
環濠は比高が30~40mの丘陵の中腹を二重に巡らせてある。


下の写真で、道路の左側を環濠が二重に巡っていた。
標識の立っている辺りの少し先の方、ちょうど車が移っている辺り
が峠の頂だ。外濠の範囲は長軸で約270m、短軸が180mである。
外濠の15~20m内側に内濠がある。環濠内の殆どが急斜面地で、頂部が平坦だとは言っても、とても大規模な集落を営めるよう
な広さはない。どうして、こんな場所にあんな大規模な環濠を巡ら
せなければならなかったのだろうか?
 

 

 

 



柱穴はあったが、住居跡は確認されていない。
遺跡は、弥生前期末から中期初頭のごく短期間に営まれた集落の
ようだ。ここの環濠は、環濠とは集落を守るためのものだという
説明が一番ピッタリくる。こんな高地に、外敵を濠に落として上
がってこれないようにしてまで、守らなければならないものは何
だったのだろう。それはおそらく、ここから出土した遺物たちが
語っているように思える。ここは正に弥生時代の争乱を反映した
遺跡だったのだ。




弥生時代の先進国丹波(2)へ


歴史認識を考えてみる(5)

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朝鮮通信史

朝鮮通信使(ちょうせんつうしんし)とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮より日本へ派遣された外交使節団である。
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は室町将軍からの使者と国書に対する返礼であり、1375年永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶えて安土桃山時代に、李氏朝鮮から豊臣秀吉が朝鮮に出兵するか否かを確認するため、秀吉に向けても派遣されている。しかし、その後の文禄・慶長の役によって日朝間が国交断絶となったために中断された。その後、江戸時代に再開された。広義の意味では室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者によって造作された学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現を専ら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

以前も酒蔵見学の記事で取り上げたことがありますが、今回はねずさんのブログから転載させて頂きます。

朝鮮通信使の行列


韓国の歴史教科書によると、江戸時代に、朝鮮から来日した朝鮮通信使は、徳川幕府が経済的に困窮に陥ったために、先進文物を取り入れようと、李氏朝鮮王に懇願して招いたものだったのだそうです。

それがいかにデタラメな捏造にすぎないか。
今日は、たっぷりと書かせていただきました。
(中略)
さて、こうした対馬藩宗家の努力もあって、李氏朝鮮からは、江戸時代を通じて、都合12回、朝鮮からの特使(朝鮮通信使)が、来日しています。
(最終回の12回目は、対馬に差し止めとなり、日本本土には来ていません)

初回が慶長12(1607)年で、最終回が江戸後期の文化8(1811)年です。
当初の3回は、国交回復や捕虜返還交渉のためとされていますが、以降の9回は、いずれも、新将軍就任の祝賀のための来日です。

その朝鮮通信使の第11回目、おおむね朝鮮通信使が、制度として定着していた宝暦14(1764)年の朝鮮通信使の記録が、いまに残っています。

このときの朝鮮通信使は、徳川家治が第11代将軍に就任したことへの祝賀のための来日です。
その通信使の一行の中に、金仁謙という者がいて、来日したときの模様を詳細に書き遺しているのです。
これが「日東壮遊歌」で、本にもなっています。
希少本で、いまでは古本がすごい高値になっていますが、この本の中に、当時の朝鮮人官僚が見た率直な日本への感想が書かれています。
そこには次のように書かれています。
~~~~~~~
●1764年1月22日 大阪

100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、 銅の屋根で、黄金の内装だ。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。信じられない。

支那の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の1万倍の発展だ。

北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」 と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。


●1764年1月28日 京都

街の繁栄では大阪には及ばない。
しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、肥沃な農地が無限に広がっている。
この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。
悔しい。

「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。
悔しい。

この犬のような倭人を全て掃討したい。
この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。


●1764年2月3日 名古屋

街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。 凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、家屋の贅沢さ、この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。
朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。

人々の美しさも最高だ。
特に女性が美しい。 美しすぎる。 あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、名古屋の女性と比べれば、
美しさを失うだろう。

(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。


●1764年2月16日 江戸(東京)

左側には家が連なり、右側には海が広がっている。
山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船。

全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。
~~~~~~

これが来日した朝鮮使節の実際の感想です。

この感想が、いまから248年前の朝鮮人の日本を見た感想であり、その感想は、当時来日した朝鮮人にとっても、現代日本に来る朝鮮人にとっても、ほとんど変わりがない、ということは注目に値します。

そして、自分たちが思っていた「我が国が一番」という認識(認知)と、実際に自分の目で見たときの認識(認知)が、あまりにも不一致(不協和)だったとき、本来なら人は他国に倣って自分たちも進化しよう、進歩しようと考えるのがあるべき姿なのですが、それができるのは、福沢諭吉のような立派な人物くらいなもので、多くの場合、あるいは一般的には、こうしたときに、むしろ相手国を、
「こんなに素晴らしい情況を作っているのは、絶対に何か裏があるに違いない」
あるいは、
「この美しさを奪ってやろう、破壊してやろう」等々と、不埒な思考に走る。

これが「認知的不協和」と呼ばれるもので、こうした認知不協和が、理性ではなく嫉妬という「感情」にわたるものだけに根が深い、というお話は、先般、認知的不協和の記事で書かせていただきました。

実際、金仁謙の上の文にも、
「悔しい。 この犬のような倭人を全て掃討したい。 この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。」と、およそ理性では考えられないような不逞な思考に走っている様子が描かれています。

戦後の日本政府の間違いは、こうした不埒な思考(感情)に走っている朝鮮人(韓国人)に対し、懐柔のために日本がむしろカネや利権や技術を提供したことにあります。
そうなると彼らは、かえって自分たちの「感情が正当化された」と考え、より一層、過激で不可解な行動に走る。
理屈じゃない、感情が、そのように仕向けてしまうのです。

感情は、とかく低レベルであればあるほど、激しくなります。
足を踏んだ、踏まない、言葉遣いが気に食わない、肩がぶつかった、ガンを飛ばされた等々です。
人は、とかく次元の低い感情であればあるほど、過激に走る。

そういう斜めにしか物事を見れなくなった認知的不協和症状の相手に対しては、関わりをもたないことが、最良の防衛策です。
相手にせず、関わらず、近寄らない。
そうすることで、彼らが経済的にも社会的にも追いつめられれば、自然と、反省の息吹も芽生えるというものです。

さて、その朝鮮通信使ですが、おもしろい絵があります。
京都大学が所蔵している「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」の絵です。

鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節
鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節


この絵は、朝鮮通信使が鶏を盗んで乱闘になっている有名な絵です。
ご覧いただくとわかります通り、白昼堂々の往来で、朝鮮通信使一行が、日本人の町民からニワトリを強奪し、騒ぎになっている様子がみてとれます。

場所は辻の中央です。
ニワトリを奪おうとする朝鮮通信使たち、そうはさせじともみ合う町人たち、足下には明らかに日本人と見られる町民が倒れています。
通信使を押さえつけようとする町民、ニワトリを奪い取って、別な通信使に渡そうとしている朝鮮人、そうとうな騒ぎであり、乱闘があったことが伺えます。

日本では、官が民の所有物、たとえばニワトリなどを勝手に泥棒するなどということは、まず考えられないことです。
なぜなら、官は民のためにあるというのが、官民両方の「常識」だからです。
けれどそれは、あくまで「日本の常識」であって、「朝鮮の常識」ではありません。

では、朝鮮ではどうだったのか。
それについては、明治初期に、日中韓を旅行した英国人女性イザベラ・バードの朝鮮紀行に詳しく紹介されています。

~~~~~~
彼らは、たいがい内気で、わたしたちの姿が目に入るとあわてて鶏をひっつかんで隠してしまう。
伝統上、両班に求められるのは究極の無能さ加減である。従者たちは近くの住民たちを脅して飼っている鶏や卵を奪い、金を払わない。
(イザベラ・バード「朝鮮紀行」P133~P137)
~~~~~~

要するに1392年から1910年まで、500年続いた李氏朝鮮では、支配階層である貴族(両班)が、庶民(白丁)からニワトリや卵を勝手に奪うのは、支配者としての「当然の権利」であったのです。

ニワトリや卵だけではありません。
魚も、食べ物も、穀物も、欲しいものがあれば、勝手に奪う。
目の前にアベックがいて、その相手の女性が気に入れば、その場で平気で奪う。
幼子を連れた若い母親がいて、その母親が気に入れば、その場で蹂躙する。

日本では「官は民のためにある」が常識ですが、朝鮮半島ではあくまで「民は官のためにある」のです。
上下関係が何よりも優先する。
上に立つ者は、下のものをどれだけ犠牲にしても構わない。
それがあたりまえの常識です。
それが、朝鮮流儒教です。
彼の国の常識です。

この傾向は、いまでも続いています。
日本では子供に「思いやりのある立派な大人になれ」と教えます。
けれど、朝鮮では「とにもかくにも人の上に立て」と教えます。

下になったら、何もかも奪われる。
だから、どんな卑怯な手を使ってでも上に立った者が勝ちというのが、彼の国の古来変わらぬ常識だからです。
日本とは、根底にある「常識」が異なるのです。

同じくイザベラバードの朝鮮紀行に、次の一節もあります。
~~~~~~
高級官僚や両班はお付きの行列を連れ、
行政官の屋敷に泊まり、贅沢な食事をとる。
快適とはほど遠い宿屋に泊まり、
村の食べ物をとらなければならないはめに追いこまれたとしても、
すべて最上のものが選ばれ、
それに対して代金は支払われない。
(同上P168)
~~~~~~

下々の者が、それによって飢え死にするようなことがあったとしても、官僚は我関せず、なのです。
自分がその場で贅沢ができればそれで良いと考える。
日本人にはあり得ない感性です。

そういう一行が、朝鮮通信使として日本に来たのです。
宿泊施設の旅館では、部屋にある布団から、花瓶や、食器、掛け軸まで盗まれた。
朝鮮通信使が去った後の部屋は、まさに「引っ越した後の空き家」状態になったといいます。

そしてそのことは、何も18世紀の大昔のことばかりではありません。

昨今の対馬には韓国人観光客が大勢やってくるけれど、例えばタクシーで、降りるときにカネを払わずに走って逃げていく。
あるいは、料金を払っても、その支払いの際に、五百円玉とそっくりの五百ウォン(価値は十分の一)を混ぜてくる。
その場で気づいて、注意しても、何事か大声で喚き散らして、泣き寝入りさせられてしまう。

スーパーでは、並んでいるバナナを、カネも払わずにその場で食べてしまう。
店員が気づかなければそのまま金を払わずに立ち去る。

コンビニでは、5、6人の集団でやってきて、一人が支払いをしている間に他の者が万引きする。
若い女性客は陳列棚の口紅をその場で使って元の棚に戻すので、売り物にならなくなる。
料理屋には、食べ物を持ち込み、注文しない。


旅館では、シャンプー、リンス、タオルから、トイレットペーパー、果は部屋に据え置きのテレビまで、残らず持ち去ってしまう。
部屋や建物を汚し、フロントやエレベーターなどの公共スペースで、平気で大小の用をたす。
部屋の中で何をするのか、便臭が激しく(日本人女性を騙して部屋に連れ込み、スカトロ行為をしているというウワサあり)、部屋に臭いが付く。
支払いの段階になってクレームをつけて値切る。

浴場施設では、湯船の中で平気で石鹸を使い、体を洗う。
日本人客が嫌がって来なくなり、廃業した温泉もある、等々。
これが西暦2012年の対馬で、実際に起こっていることです。

山本博文さんが書いた「江戸時代を探検する」 (新潮文庫)には、次の記載があります。
~~~~~~
通信使の随員の中には、段々と尊大な行動をする者も現れた。
出船の時に、前夜 出された夜具を盗んで船に積み込んだり、
食事に難癖をつけて、
魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したりというような些細なことから、
予定外の行動を希望し、
拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたりするようなこともあった。
~~~~~~
実は、上に紹介した金仁謙が来日したときの第11回朝鮮通信使の帰り際、ひとつの事件が起こっています。
明和元(1764)年4月6日のできごとです。

この日の昼、大阪の長浜の荷揚げ場で、朝鮮通信使の中の下級役人のひとりが、鏡を失くしたと突然騒ぎ出したのです。
通信使の都訓導(中級官人)の崔天宗という者が、これを咎め、
「日本人は、盗みの仕方が上手だ」と、悪口を言いました。

このとき、朝鮮通信使たちの通訳をしていた対馬藩士の鈴木伝蔵は、自分で落して失くしたのか、盗られたのかもまだわからないうちに、日本人を泥棒呼ばわりするのはけしからんと、崔天宗にこのときとばかり、
「あなたは日本人のことをそのように言うが、あなた方は食事の際に出た食器や飾りの品々を、勝手に持ち帰っているではないか。これをどう思うのか」と言い返したのです。

すると鈴木伝蔵に痛いところを突かれた崔天宗は、突然火病を起こして怒り出し、人々が見ている前で、鈴木伝蔵を杖で何度も打ち据えました。

鈴木伝蔵は、自分はあくまで通詞(通訳)であり、朝鮮通信使たちをもてなす立場です。
だからその場では、我慢しました。
けれど、下級武士とはいえ、武士は武士です。

杖で打ち据えられて、ただ黙っていたのでは、武士の一分が立ちません。
思いつめた鈴木伝蔵は、その夜、崔天宗の喉を槍で突き刺して殺害し、奉行所に自首し、切腹しました。

よく、朝鮮使節をさして、「日本に儒教をはじめ、さまざまな文化や技術を伝承した」と書いている教科書などがありますが、残念ながら鶏泥棒の文化や技術が、日本に伝承されたという記録はありません。
つまり、朝鮮使節が日本に文化を伝えたなどという事実は、まったくないです。

当時の朝鮮からの日本の輸入物は、朝鮮人参と、支那産の生糸と絹織物です。
他方、朝鮮通信使たちが喜んで持ち帰ったのが、サツマイモでした。
当時の朝鮮は、毎年のように飢饉が発生していたのです。
ところが日本では、飢饉のとき、サツマイモを栽培(芋は収穫が早い)して、多くの人が助かったという話から、通信士使たちは、種イモだけでなく、植え方、貯蔵法、料理法まで学んで持ち帰り、自分たちのためにこれを栽培したといいます。

ちなみに、この朝鮮通信使によって朝鮮半島に日本から持ち込まれたものに、タバコと唐辛子があります。
いま、朝鮮料理といえば、唐辛子を使ったキムチが定番ですが、キムチに使われる唐辛子は、日本から朝鮮半島に伝わったものです。

鎖国をしていても、海外の動勢は、国家として常に監視しておかなければならないのは当然のことです。
ですから、ほんのわずかな窓口での交流は続けましたが、ものめずらしい外国人が来日するとなれば、中央から歌舞伎一座や、相撲興行がやってくるというのと同じで、大歓迎するのが、日本の庶民の常です。
ですから朝鮮使節を迎えるための踊り、なんていうのも、今に伝えられています。

ところが、肝心のこの朝鮮使節、実にとんでもない連中で、自称朝鮮国王の使いでありながら、道中で、まるで不良中学生ばりに、道中で悪さばかりする。
一回の通信使でやってくるのは、だいたい450人くらいの団体です。
そのうちの100人の水夫が大阪に留まり、350人が、徒歩で江戸向かっています。
釜山を出発してから、半年くらいの滞在です。
さらに、朝鮮通信使には、対馬藩から800人の護衛の武士が同行しています。

800人の警護がいてさえ、朝鮮通信使は、あちこちで問題を起こしたのです。
幕府は、この朝鮮通信使のために、毎度100万両の予算を計上しています。
それだけの接待をしたのです。

けれど、彼ら朝鮮通信使たちは、風呂にはいる習慣がないから臭い。
日本の旅籠や、街道のあちこちにある茶店には、いまで言ったらコンビニみたいなもので、ちゃんとトイレがあるのに、路上で大小の用をたす。
朝になると、350人が一斉に、往来の路上で大用をたすことを考えてみてください。
どれだけ迷惑なことか。

けれど、街道の村々では、30年に一度のこの朝鮮通信使たちの歓迎のために、歓迎のための踊りや祭りなども企画し、実行しています。
負の面もたくさんあったけれど、それでも歓迎をする。
楽しかった思い出を、たいせつにする。
それが日本人です。

朝鮮通信使の経路


そうそう、最後にひとつ。
朝鮮通信使は、壱岐対馬を通って来日したのですが、壱岐を治める平戸藩では、使節の無事な航海を祈って藩主自らが、邇自神社(にじじんじゃ)に参拝し、順風祈願をしています。
表向きは、あくまで、無事な航海を願ってのことです。

けれど、本音は、
「一日も早く壱岐から出て行ってもらいたい」
というものでした。

(攻略)http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1677.html
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数世紀にわたる倭寇の侵略と秀吉の侵攻に耐えた朝鮮を考えると、
通信使達は野蛮な国に来たのだ、仕返ししようという思いであったろうかと。。
野蛮さ加減はいい勝負かも(=^・^=;)





弥生時代の先進国丹波(2)

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丹波には、もしかして徐福の墓かもしれない古墳があります。

出雲の国の伝承をご紹介します。


http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947/e/6c6663b99e1cc5d9cd8443606c7157c4

紀元前5世紀に 初代の王「菅の八つ耳」(すがのやつみみ)で始まる、
日本最古の出雲王朝は 主王(大名持オオナモチ)と副王(少彦スクナヒコ)
という二人の王で構成され、越の国から丹波、周防、四国まで領土とする
大帝国で繁栄していた。
ところが 紀元前3世紀末に大事件が起きる。徐福の来日である。
秦の始皇帝の命で、東方に不老不死の薬を探しに出かけ出雲の五十猛海岸
に上陸したのである。事前に部下の穂日(ホヒ)を8代目オオナモチの八千矛
に遣わして上陸の許可を得るという周到な準備がなされた。
大勢の秦国人の技術者を連れてやってきた徐福は、出雲地方でかなり
暴れたらしい。
手を焼いたオオナモチ八千矛は徐福を出雲王国領の丹波国に住む許可
を与えたという。日本名を火明ホアカリと名乗った徐福は東出雲王家向家
の高照姫を嫁にしたが、出雲王家を乗っ取る下心があったのか、徐福、ホヒ
たちに依り、オオナモチ八千矛は死に追いやられた。続いて少彦(副王)
の八重波津身(ヤエハツミ)も死に追いやられた。
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徐福は記紀では素戔嗚スサノオと書かれた。
またオオナモチ八千矛は大国主オオクニヌシと書かれ、少彦の
八重波津身は 言代主コトシロヌシと書かれた(のちに一言主ヒトコトヌシ
ともいわれた)。大国主が俗に言う 大黒様で言代主が俗に言う
恵比寿さんである。そして大黒様は出雲大社に祀られた。
また 言代主を祀る全国恵比寿神社の総本社美保神社(松江市美保関町)
では、今でもその大事件を題材にした 「青芝垣神事」や「もろた舟神事
が継承されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
コトシロヌシの息子の鳥鳴海トリナルミが第9代のオオナモチに立ち
「後期出雲王朝」がスタートするが、秦国人達との共存を嫌った出雲族は
次々に出雲の地を去る。
コトシロヌシの奥方沼川姫ヌナカワヒメは息子の建御名方タテミナカタ
を連れて故郷の越の国へ帰る。その後タテミナカタは諏訪に移り信濃の
開発に功績があり、諏訪大社に祀られて 諏訪地方の守り神になった。

※しかし記紀では出雲王朝を無かった事にし、神話の世界に閉じ込めた。

しかもタテミナカタも 弱くて負けた者として書くために、国譲りの舞台から
逃げ出して諏訪に閉じ込められた  と書かれた。
歴史の勝者は 勿論渡来系の徐福の子孫達 ひいても物部族とそれに取り
入って勢力を伸ばした藤原不比等とその末裔藤原家である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝系図

※斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」 大元出版より

 これを見ると徐福一味の子孫 海部家や物部家も、繰り返し出雲王家の
 女性との結婚を繰り返し、出雲王家神門の臣家や向家の血を濃くしてきたのが分かる。

http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947/e/6c6663b99e1cc5d9cd8443606c7157c4

これを裏付けるひとつの証拠は、「出雲の国風土記」にあります。

出雲と聞けば、スサノオの八俣のオロチ退治の伝説が有名ですが、
かなり衝撃的ではありますが、「出雲国風土記」には、この話自体が存在しないのをご存知でしょうか。  よって、スサノオがオロチから救出したクシナダ姫の伝説もありません。http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1313.html

つぎは遺跡から検証してみます。
まず、徐福を派遣した秦始皇帝のお墓から見てみましょう。

始皇帝陵地下宮殿のレプリカ


秦陵地宮の写真

概要

秦の始皇帝は中国史初の皇帝であったが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てた(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵である。1974年に地元の住民により発見された。また兵馬俑坑は、この陵を取り巻くように配置されており、その規模は2万m2余におよぶ、きわめて大きなもので、3つの俑坑には戦車が100余台、陶馬が600体、武士俑は成人男性の等身大で8000体ちかくあり、みなを向いている。
この兵馬俑の発見は特に、中国史の研究上、当時の衣服武器馬具等の様相や構成、また、始皇帝の思想などを知る上できわめて貴重なものである。兵馬俑坑は、現在発掘調査がなされ公開されている箇所だけでなく、その周囲にも広大な未発掘箇所をともなうが、発掘と同時に兵馬俑の表面に塗られた色彩が消える可能性があることなどの理由から、調査がなされていない。
史記は始皇帝の遺体安置場所近くに水銀の川や海が作られたと述べる。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E9%99%B5%E5%8F%8A%E3%81%B3%E5%85%B5%E9%A6%AC%E4%BF%91%E5%9D%91

つぎに、徐福の墓と思われる丹後の日吉ヶ丘方形貼石墓を見てみたいと思います。なお、律令制以前の丹波は丹後を含むそうです。

日吉ヶ丘遺跡 方形貼石墓

http://zarameya.blog.fc2.com/blog-entry-79.html
【全国最多の勾玉を出土した日吉ヶ丘方形貼石墓】

平成13年5月、与謝野町の日吉ヶ丘遺跡から、弥生時代中期後半(紀元前2世紀~紀元前1世紀頃)の大きな墳丘墓が発掘され大騒ぎになった。
まだ僅か10年前の事である。(平成23年現在)
この墳墓は、加悦谷盆地の日本海三大古墳(すべて丹後)である蛭子山古墳の少し北側に位置している丘で、国道バイパスからもよくみえる。
遺跡は、当 時の墳墓としては異例の大きさで、長辺は約32m、短辺は それぞれ17mと22m、高さは約2.7m。
墳丘の裾に平たい石が貼り付けたこの地方独特方形貼石墓(ほうぎょうはりいしぼ)と呼 ばれるものだ。
日吉ケ丘墳墓跡と名付けられたこの墳墓は、同時期の墳墓としては佐賀の吉野ヶ里遺跡についで、全国2番目の規模である。
墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉は、全国最多の677個も発掘された。
水銀朱は当時としては大変貴重なもので、魔除けや腐敗防止の為に使用された。

これだけの大量の管玉は当時の丹後の栄光の象徴でもあり、王墓と呼ぶにふさわしい。
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時 代で、墓の大きさも、全国最大級。
吉野ヶ里 の墳丘墓には十数体が埋葬されていたが、日吉ヶ丘遺跡の場合、一人の ための墓である。
勾玉の数、一人の埋葬者から、【王の墓】という性格が考えられるという。

rps20110929_105335.jpg


国指定文化財【史跡】

日吉ヶ丘・明石墳墓群

日吉ヶ丘墳墓は、弥生時代の中頃(紀元前2~1世紀)に造られた大型の方形貼石墓です。 墳形は、少しいびつな長方形で、大きさは長辺約32m、短辺約20m、高さは最大約2.7mです。 同じ 時代では全国二番目の大きさです。 埋葬部は墳丘の中央南寄りに一基だけ確認され、槽状木棺に埋葬されたと思われます。 棺の中からは真っ赤な朱と緑色の勾玉677個以上が出土しました。 これらは葬られた豪族の顔の上か、頭の下に副葬されたと思われます。 古墳公園の蛭子山古墳など日本海三大古墳が造られた4~5世紀の古代丹後の繁栄が、日吉ヶ丘墳 墓の発見によって、さらに400年以上も遡ることがわかりました。平成18年3月 与謝野町教育委員会

方形貼石墓は、現状では石 見・出雲地域と丹後地域で発掘されているが、これまで発見され た中では最大規模である。丹後では、11もの方形貼石墓が発掘されている。

http://zarameya.blog.fc2.com/blog-entry-79.html
蛭子山古墳のすぐ北側の、桑飼小学校のある台地の張り出し部で、古代遺跡だらけの地だが、ここは桑飼小学校グラウンド遺跡とかつて呼ばれていた所である、水田面より少し高い場所である。これも環濠集落だが、もっとも早い時期の巨大貼石墓が出現し、最初の丹後王かとマスコミなどで超有名になった。そのほか多くの遺物が出土している。丹後の心臓部であった。
隣の「はにわ資料館」に出土品が展示してある。


日吉ケ岡遺跡の貼石墓(明石)

日吉ケ岡遺跡(管玉と水銀朱)



日吉ヶ丘遺跡 貼石墓出土の管玉と朱(日本最多)弥生時代中期(2100年前頃) 日吉ヶ丘遺跡貼石墓の中央にあった木棺趾から朱と管玉が677個以上発見されました。棺の位置から、朱は埋葬された人の頭の場所で、管玉は顔にあたるところから出てきました。今回、朱と玉を発掘調査そのままの状態で残すために、地面を切り取って展示しています。

管玉はずいぶんと小さいもので、↑は径は2ミリくらい、それに1ミリくらいの紐遠し用の穴があけられている。未完成品や玉用砥石も出土しているから、ここで制作されたものかと思えば、これほど小さな物はどこかよそで作られたという。
入谷 ( にゅうだに ) というところが少し北にあるが、ここで採れた水銀なのだろうか。朱関係の制作用具などの出土はないよう。写真は「はにわ資料館」蔵の本物。
鋳造・鍛造の鉄製品、鞴の羽口も出土していて鍛造はここで行われていたようである。その他、土器や石器類。

http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/akesi.html

秦始皇帝陵と日吉ヶ丘墳墓に共通する水銀とは?


「水銀・その技術と産地」

 現在 鳥居や朱肉などの色で知られている朱は 考古学では赤色顔料と呼ばれ その色を構成する物質で 鉄分系と水銀系の2系統に分けられている。 安田博幸は 「古代技術の復権ー赤色顔料ー」で 「鉄分系の赤色顔料は 焚き火をしたら下の土が赤くなっていた というような経験から 鉄分の多い土を焼いて赤色をつくるという知識を簡単に得ただろうから 縄文時代にも使われていたが 水銀系の赤色顔料は 偶然的に 人工でつくりだされた可能性が期待できない。 だから これまで 弥生時代の遺跡から検出されていても 縄文時代の遺跡からは検出したことがない。 水銀朱の生産技術は 中国大陸から入ってきたのではないか」 といったことを述べている。 要するに 鉄分系の赤色は人間活動の中で自然に得とくできたが 水銀系は科学知識と化学技術が必要だから 自然に身についたのではなく 弥生時代に中国大陸あたりから日本列島へ入ってきたのではないか と言ってるわけだ。
芦ノ湖面に映える
箱根神社の鳥居の朱
押印に使う朱肉の朱
(金印「漢委奴國王」)
 水銀系の赤色顔料は 天然の辰砂などに 水銀化合物の硫化水銀として存在しているので 掘り出した辰砂鉱石を粉砕し 水の中で比重差を利用して採取できる。 水銀は 硫化水銀に熱を加えて高温にすると 蒸発するので その水銀蒸気を冷却して採取する技術を使う

金は その昔から 現在でも 朽ちることがないということから 体によくて不老長寿の効果がある と信じられている。 それを受ける形で 徐福などの方士の仕事の一つに 金をつくりだすことがあった。 すなわち 方士は 金を作り出す技術である錬金術の研究開発にも従事していた。 ただ 水銀をつくりだすところまでの技術開発はしたが 金をつくるところまでには至っていない。 
 でも 水銀に金を溶かしてアマルガム(合金)をつくり 銅などに塗って加熱すると 水銀だけが蒸発して金が銅の表面に付く いわゆる鍍金(メッキ)の技術は開発している。 だが この技術は 錬金術の目的から言えば 金つくりとしては不成功だったのだろうが メッキは表面から見れば 大きな黄金の物体(例:東大寺の大仏など)をつくりだすことができるのだから 見方によっては 金づくりにも成功したといえよう。丹生都比売(ニュウツヒメ)を祀る神社があるので それらをたどれば 日本列島内の丹砂産地の分布がわかる。
 右の図は 都府県別に丹生都姫神社の社数を書き入れたもので 数字が見にくい和歌山県は74社 奈良県は18社 群馬県は12社と二桁在り これから見ても その昔から紀伊半島が丹砂の生産量も頭抜けて多かったことがわかる。 
 これらの総本社は 丹生都比売神社天野大社で 和歌山県の紀ノ川をさかのぼり 那賀郡貴志川町から支流の貴志川に入り さらにさかのぼると 川は真国川になり  海草郡の野上町志賀野を通って 伊都郡のかつらぎ町志賀を通って 真国川の水源近くの同町天野に在る。 丹生都比売神社の由緒によると 創建は少なくとも今から1700年前と伝えられていると言う。 
 また 一説では 丹生都比売は 九州の伊都の国(現在の福岡県糸島郡や前原市)で誕生したという。これらの伝えをつき合わせると 日本列島における水銀鉱業は九州の博多湾近郊で始まり 中央構造線にそって東進開発し 紀伊で最も盛んになったということになる。 

http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/syu.html

朱の原料 
 天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。

丹生氏と丹生都比売 
 辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。祭神は丹生都比売神で、辰砂の産出を司る女神である。丹生都比売の祭祀には丹生氏があたった。施朱に使うには、辰朱を細かく砕いて遺骸をつつんだのであって、水銀にまで昇華させる必要はなかった。

 施朱の風習は古墳時代前半には終わり、更に金製品が渡来し、国内でも金製品や鍍金製品が作られ始めた。金と水銀に溶かし込んだアマルガムを銅などに塗り、これに熱をかけて水銀を蒸発させると、表面に金がしっかりと食い込む。この時代になると水銀が必要になってくる。6世紀の頃である。

 辰砂の採取を司る丹生氏は、水銀製錬・鍍金の技術を持っていなかった。この技術を持ち込んできたのは秦氏である。辰砂と水銀の利用の主役は秦氏に移り、丹生氏は丹生都比売を祭祀する神官となった。秦氏もまた、丹生の地名、丹生神社の鎮座地に多く分布している。
http://blogs.yahoo.co.jp/shungaku2007/folder/1549770.html?m=lc

水銀と原始道教の関係
皆さんは煉丹術というものをご存知でしょうか?
道教の道士たちが不老不死を求めて研究に邁進したと言うあれです。秦の始皇帝の死因は、当時不老の薬と信じて服用していた水銀による中毒であるという話もあります。その始皇帝の命令で薬を求めて旅立ったとされる方士徐福の伝説もあります(徐福の墓は和歌山県新宮市にあるといわれています)。薬局で売ってる「仁丹」の名前の由来も煉丹にあります。http://www.meitian.info/resume/lovehina.htm



煉丹術
 古代中国での煉丹術の意味は不老不死である。漢の武帝に方士・李少君の上奏文に「竈を祀れば鬼神を呼ぶことができる。鬼神を呼べば、丹砂を黄金に変えることができる。その黄金を食器とすれば寿命が延びる。さすれば海中の蓬莱山の仙人にも会える。仙人に会って封禅の祭りを行えば不死がえられる。
 鬼神とは天神地祇を指し、これは竈の神を祀ることが斎戒儀礼となり、鬼神を呼び寄せることになる。
 煉丹術とは練金術を言う。水銀と他の金属とのアマルガムを作り、金を採取することを言う。

 金は朽ちることのない。水銀は変化する。この二種の金属を飲んで、人の身体を煉ることで、不老不死を得るの言うこと。(抱朴子金丹篇)
 丹砂から製錬した水銀は、水銀自信と金の採取の二重の意味で貴重なものであった。

丘の水銀朱はもしかして徐福が日本に持ち込んだ技術なのでは?
だとすると日吉ヶ丘墳墓は徐福の墓ではないか
という仮説に至りました。(=^・^=)


また、徐福がこの地を選んだ理由ですが、大陸系弥生人がすでにこの付近で工房を営んでいたから住みやすかったのではないかと思います。前回も紹介した途中ヶ丘遺跡は、年代的に徐福来日前からあったと思われます。また、久美浜町箱石の函石浜遺跡からは、中国の新の王莽が14年に鋳造した「貨泉」の文字が鋳出されている銅貨や紀元前五~六世紀ごろの、中国周代につくられた刀の形をLた貨幣である刀銭「明刀」などと弥生式土器が混在して出土していて早くから大陸系の弥生人が生活していたと思われます
函石浜出土といわれている刀銭は、燕の国でつくられた青銅製で、側面に「明」という字が記されている。長さ14.1センチメートル、幅は1.1~1.9センチメートルである。現在神谷神社に保管されている。http://100chin.kyoto-fsci.or.jp/kumano/kumanoisan/syosai/kumanoisan0304.htm

  前11世紀~前222
始祖はの武王の弟、召公セキ。今の河北・東北南部・朝鮮北部を領す。都は薊(けい)(現、北京)。前222年43世での始皇帝に滅ぼされた。http://www5.airnet.ne.jp/tomy/koten/jidai.htm

ちなみに徐福の墓と称される場所は日本各地にあります。


途中ヶ丘遺跡
峰山町の途中ヶ丘遺跡からは弥生時代前期末の溝から陶けん(土笛)が出土した。高さ6cmほどの小さなヤシの実のよう
    な形で、4,5個の穴が開いている。類似の土笛は、他に松江、下関など、全部で20件ほどしか出土例がない。

 





 
http://inoues.net/tango/tochugaoka.html

弥生時代の先進国丹波(3)へ

「最高裁がJASRACの独禁法違反認定」記事(日経)

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JASRAC音楽著作権契約、「他業者の参入排除」 最高裁

2015/4/28 15:08

 テレビやラジオで使われる楽曲の著作権管理事業を巡り、日本音楽著作権協会(JASRAC)の契約方法が独占禁止法違反(私的独占)にあたるかどうかが争われた訴訟の上告審で、最高裁第3小法廷(岡部喜代子裁判長)は28日、独禁法違反ではないとした公正取引委員会の審決を取り消す判決を言い渡した。
「他事業者の参入を排除している」とした一審・東京高裁の判断が確定した。

 公取委は改めて、JASRACが放送事業者と結んでいる包括契約について、独禁法違反の他要件を満たすかどうか審判をやり直すことになる。

 JASRACは、テレビ・ラジオ局が放送事業収入の1.5%を支払えば約300万件の管理楽曲を自由に使える包括契約を採用。放送向け音楽の著作権管理事業をほぼ独占している。
 公取委は2009年、独禁法違反にあたるとして排除措置命令を出したが、JASRACの不服申し立てを認め、12年に命令を取り消す審決をした。このため競合する著作権管理会社イーライセンス(東京)が審決を不服として提訴していた。

 東京高裁は13年11月の判決で「他の事業者を排除する効果がある」と認めて公取委の審決を取り消し、「公取委は改めて当否を判断すべきだ」と述べた。公取委側は最高裁に上告していた。

「東京地裁が従軍慰安婦記事は捏造認定」記事(日経)

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元朝日新聞記者「録音聴き執筆」 損賠訴訟第1回口頭弁論

2015/4/27 21:38

 朝日新聞の従軍慰安婦報道に関わった元記者の植村隆氏(56)が、捏造(ねつぞう)との批判が原因で名誉を傷つけられ深刻な人権侵害を受けたとして、文芸春秋と東京基督教大の西岡力教授に損害賠償などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が27日、東京地裁(原克也裁判長)で開かれた。

 植村氏は「関係者の証言を録音したテープを聴き、記事を書いた。決して捏造ではない」と意見陳述。被告側は「原告の書いた記事は事実を報じずに読者を誤解させる内容で、捏造との論評に問題はない」として、請求棄却を求めた。〔共同〕http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG27HE9_X20C15A4000000/

不快なネット広告を消す方法

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先日、精神的にストレスになるネット広告があるという記事を書きましたが、消すことに成功したので方法をメモしておきます。


手順:

画像を右クリックしてURLをコピーしてどこかに貼り付けてドメイン部分を抽出

app-adforce.jp(これはアメブロの広告ドメイン例です)

ノートン設定画面>設定>スパム対策>遮断リスト 設定[+]>追加>

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インタレストマッチ広告って、どこのサイトを見ても出てくるので
まるでストーカーみたいですが、これで
不快感から解放されます。(=^・^=)v

AIIBにまつわる金融ファンタジー「狙われる日本国債」

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中国が突如立ち上げたAIIBが話題ですが、日本は参加しないと表明しています。
最近の出来事から、ウリナラファンタジー風のストーリーを組み立ててみました。

           http://www.news-us.jp/article/416647591.html

AIIBの陰の存在:国際金融資本のA氏曰く

俺らの目的は、日本の銀行から日本国債を吐き出させることさ。

では、背景のストーリーとは?
http://www.sankei.com/premium/news/150315/prm1503150015-n1.html

中国の軍拡支える「人民元発行制度」 共産党が金融システム“全体”を支配


お札の発券銀行である中央銀行制度は砲声とともに始まった。世界初の中央銀行は1694年に民間資本としてロンドンに創立されたイングランド銀行である。同行はフランスとの戦争費用を調達して政府に融資するのと引き換えに、金銀の裏付けのない紙幣発行の独占権を得た。

 米国では1861年、南北戦争が勃発。リンカーン大統領は62年に「永続的な通貨発行制度」と宣言して政府紙幣「グリーンバック(緑背紙幣)」を発行し、戦費を調達した。

 政府紙幣だと、政府は国債発行せずとも、財源を確保できるのだが、英国などの国際金融資本が強く反発した。国債を売り買いすることでもうける機会が失われるからだ。
リンカーンが暗殺されたあと、米国でグリーンバックは徐々に廃され、英国をモデルとした民間金融界出資の中央銀行システム「連邦準備制度」が1913年に設立された。

 米国では政府が直接、通貨を発行することのメリットを評価する声はいまなお、根強い。政治権力者にとっては、政府が直接、通貨発行権を掌握できれば、ウォール街から自由になれる。

中国の通貨、人民元制度は実は、中央銀行制度と政府紙幣発行制度の両側面を兼ね備えている。大国としては比類ない、いいとこどりである。

 詳しく言うと、発券銀行である中国人民銀行は軍と行政府同様、党の支配下に置かれている。人民銀行から資金供給を受ける国有商業銀行も党支配下にある。つまり、人民銀行を中心とする金融システム全体が党によってコントロールされる。通貨の発行と配分権は党指導者が保有しているのだから、人民元はその本質において、政府紙幣である。見かけは日米欧のような中央銀行制度をとっているのだから、人民元はグリーンバックのように国際金融資本から憎まれることもない。世界の大手金融機関は人民元業務を新たな収益源にしようと躍起になっている。
 中国が2008年9月のリーマン・ショックから世界で最も早く立ち直った秘密はこの人民元制度にある。当時の胡錦濤総書記・国家主席は人民銀行に人民元資金の国有商業銀行への大量供給を命じ、商業銀行は前年比で2・3倍も融資を増やさせた。


あとから見ると、乱開発、不動産バブルと代償は大きいが、ともあれ投資ブームが起き、経済は09年に2ケタ成長に舞い戻り、10年には国内総生産(GDP)規模で日本を抜き去った。もっと恐るべき事実がある。
 人民元資金供給こそは中国の軍拡の原動力だ。グラフを見ればよい。リーマン後、人民銀行による人民元資金供給量がドル換算で1兆ドル増えるごとに、軍事費は約500億ドル増えている。中国は米国の量的緩和政策に伴うドル資金増加量に見合う分、通貨を膨張させてきた。それに合わせて軍事にカネをつぎ込んだのだ。毛沢東は「銃口から権力が生まれる」と言ったが、カネから銃口が生まれる。 
(産経新聞特別記者・田村秀男)
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俺たち国際金融資本は景気が回復しつつあるのに円安でおいしい日本の国債を目玉にしたファンドを形成して巨額の売買をしてうんと稼ぐのさっ。

でも、日本国債を買っている日本の銀行はまるで卵を温める鶏ように日本国債を売却しない。なんとかして日本の銀行に日本国債を売却させたい。

そこで中国を抱き込んでノウハウを提供するしヨーロッパも参加するからと
AIIB設立を持ちかけた。、中国にとってもわたりに船。欧米資本も多く入る中国企業の救済にもなる。思惑通り、多数の参加国が集まった。

そしてAIIBファンド設立。これなら銀行も日本国債を売って参入できるはず。

俺らの考えでは、ヨーロッパが参加するなら日本も続くだろうというものだった。
ためらう日本のために締め切りも延ばしてあげた。
でも、日本政府は動かなかった。
嫌がるきんぺーちゃんに作り笑いをさせてもダメだった。
日本の銀行も政府が動かないので手を出さない。

でも、他の手も打ってある。ターゲットは逃がさない。


日本国債の格付けを下げてやる。
これで国債の金利が上がれば一石二鳥!

日本国債、中国より下に…格付け1段階引き下げ

2015年04月28日 07時09分
 欧米格付け会社フィッチ・レーティングスは27日、日本国債の格付けを「Aプラス」から「A」に1段階引き下げたと発表した。
 日本政府が2015年10月に予定された消費増税を先送りしたにもかかわらず、15年度予算で十分な財政改革を盛り込まなかったことを理由に挙げている。
 「A」は21段階の格付けで上から6番目。これまでの「Aプラス」は中国と同等だったが、格下げでマルタなどと同じになった。フィッチによる日本国債の格下げは、財政再建への取り組みの遅れを理由に、12年5月に「AAマイナス」から「Aプラス」に1段階引き下げて以来だ。

これで中国の国債より格下に。ふふふ
http://www.gekiyaku.com/archives/44490879.html
hugme
そして、メンタル攻撃!米国との仲を裂くのだ。
http://horukan.com/blog-entry-2673.html

英国FT「アメリカ、安倍晋三を無条件に支持してはいけない」
引用:ネイバーニュース/朝鮮日報
http://goo.gl/Lm2yRY
>>>記事の翻訳
アメリカは安倍晋三総理を無条件支持してはいけないと英国ファイナンシャルタイムズ(FT)が27日、社説を通じて明らかにした。

FTはこの日、安倍総理のアメリカ訪問に合わせて出した社説で「アメリカが安倍晋三総理を友達として友好的に待遇するのは正しいが、無条件支持するのは正しくない」と主張した。

FTは「特に中国と関係を勘案した時、アメリカが日本を「中国を牽制するための手段」として利用しようとする印象を与えてはいけない」と強調した。

FTは「安倍総理が過去の問題に対して反省すると話しながらも、謝罪はしたくない」として「アベ忘却症」の症状を見せるのは大きい失敗になるだろう」と指摘した。

FTは「日本は中国から歴史歪曲に対して叱責を受けたくない」としながら「だが第2次世界大戦で残虐な行為をした国家として、これぐらいならば十分に謝ったと決める立場でない」と話した。

それと共にFTは「安倍総理が日本が国際社会に正常な国家という信頼を与えようとするならば、以前のように謝罪を再びしなければならない」と主張した。

FTは引き続き「安倍総理の訪米の隠れた意味を、米国と日本が中国が国際社会と遮断しないで中国を国際社会に引き込むように願うということにしなければならない」と付け加えた。

それだけではない。
伝家の宝刀バーゼル委員会がある。


水戸黄門の印籠のような、銀行を監視するものすごい力を持つ組織。
今回はバーゼルⅢ。バーゼルⅠのときも国際社会で取引するなら自己資本率8%にしろって言われてどの銀行もがんばった。

「銀行、国債保有なら資本増強を」 バーゼル委、新たな規制案 

2015/3/10 0:51
日本経済新聞 電子版

 世界の金融当局者でつくるバーゼル銀行監督委員会で、銀行が保有する金利商品に追加で自己資本の積み増しを求める案が議論されている。金利の急上昇(価格の急落)リスクに備える新たな枠組みで、導入されれば国債や長期固定の住宅ローンを多く抱える邦銀は資本の積み増しを迫られる。資本増強の代わりに保有国債を売却すれば長期金利の急上昇を招く恐れもあり、メガバンクなどは議論の行方に警戒感を強めている。


狙われた銀行はどう対処するだろうか?どきどきっ(=^・^=;)

三菱UFJ、新型社債で1千億円の資本増強

http://www.sankei.com/economy/news/150317/ecn1503170032-n1.html
2015.3.17 11:17
 三菱UFJフィナンシャル・グループは17日、銀行の資本強化を求める「バーゼル規制」に対応した新型社債を1千億円発行すると発表した。払込期日は23日。一定の自己資本比率を下回ると元本が削減される仕組みで邦銀初。他の大手銀行も資本増強を検討する。
 三菱UFJの新型社債は償還期限のない「永久債」。普通株などで算出される自己資本比率が5.125%を下回ると元本が削られるため、銀行にとっては財務体質の悪化を食い止められるメリットがある。
 銀行の資本増強をめぐっては、政府が「実質破綻」とみなした場合に元本が削減される劣後債と呼ばれる資本調達も急増。三菱UFJが3月上旬に発行した170億円の劣後債(償還期限10年)の金利は年0.58%だった。今回の新型社債の当初5年間の金利は年2.7%。劣後債より元本毀損(きそん)リスクが高い分、投資家に高い金利が支払われる。

日本の銀行もなかなかやるな。
次の手を考えるか。。。

というわけで、日本国債を手に入れられない国際金融資本の陰謀は続くのだった。 (おしまい)

でもね、日本の金庫番の皆さんは。。

日本国債暴落説のコケおどし バーゼル委をダシに使うもデータからウソが判明 (1/2ページ)

2015.03.20


黒田総裁就任2年で日銀はどう変わったのか【拡大】

 20日で日銀の黒田東彦(はるひこ)総裁が就任2年となる。この2年間で日銀はどう変わったのだろうか。

 また、バーゼル銀行監督委員会で、銀行の保有国債をリスク資産とみなす案が検討されている問題について、黒田総裁が経済財政諮問会議で危険性を訴えたとも報じられているが、真相はどうなのだろうか。

 まず、この2年で「予想インフレ率」という用語が多く使われるようになった。というか、黒田日銀以前には、ほとんど言及されなかった。

 予想インフレ率への言及がないと、実質金利(=名目金利から予想インフレ率を差し引いた数値)の概念がぼやける。名目金利でしか金融政策を考えなくなった場合、名目金利は基本的にマイナスにできないので、「金融政策の無効」という議論になってくる。

 だが、予想インフレ率を高めることで実質金利をマイナスにすることは可能だ。これによって金融政策の景気押し上げ効果を主張できる。

 予想インフレ率を、例えば物価連動国債から計算される「ブレーク・イーブン・インフレ率」で見ると、2013年初めに0・7%程度だったのが14年の5月ごろまでに2・5%程度まで上昇した。しかし、4月からの消費増税の影響で消費が減退したので、6月ごろから下がり始め、15年初に底を打って、最近再び上昇し始めた。

 消費者物価指数総合の対前年同月比(消費増税による影響2%を控除)でみても、量的緩和がスタートした13年4月の0・7%上昇から14年5月に1・7%上昇まで進んだが、やはり消費増税の影響で15年1月に0・4%上昇まで伸び悩んだ。

 要するに、金融緩和の効果は出ているが、消費増税の影響があったので、2年間でのインフレ目標2%の実現は難しくなった。


日本国債暴落説のコケおどし バーゼル委をダシに使うもデータからウソが判明 (2/2ページ)

2015.03.20

 ここで、黒田総裁の「リフレ賛成」と「財務省OB」の二面性が垣間見える。つまり、金融政策はよくやっているが、増税志向があるため、「消費増税の経済に与える影響は軽微だ」として、消費増税の影響を過小視しているわけだ。

 黒田総裁の経済財政諮問会議での発言もそう考えると納得がいく。「オフレコ」と断って発言しているのだから、正式発言にしてもらいたくないのだろう。公開の場である経済財政諮問会議でオフレコというのは前代未聞であるが、財務省OBとして個人的なことを言わせてくれということかもしれない。

 バーゼル委員会というのは単なるダシで、実際には、消費増税をしてくれということだ。財務官僚がしばしば用いるレトリックだが、「このまま増税しないと国債が暴落する」と言いたいのだろう。だが、バーゼル委員会をこけおどしに使っても、実際にはその規制によって影響を受けるのは一部の銀行だけであり、日本経済全体とはあまり関係はない。

 「増税しないと国債が暴落」という主張も、見事に否定されている。国債の信用力を表すCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)レートは昨年11月の増税延期を受けて0・5%程度から0・7%程度まで上がったが、今では0・4%と元に戻っている。データから完全なウソが判明し、財務省の化けの皮がはがれてきている。 

(元内閣参事官・嘉悦大教授、高橋洋一)http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20150320/dms1503200830006-n1.htm


増税しないとっ!
で頭がいっぱいのようです。(=^・^=;)
金融シロートなのでおかしな点はご容赦ください。

弥生時代の先進国丹波(3)

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徐福の時代にいちじるしく拡大したガラスと鉄製品、水晶などの加工品の生産拠点をご紹介します。

丹波の古代

 律令制以前は但馬、丹後も含んでいた。現在の京都府の中北部、兵庫県の北部と中部の東辺に加え、大阪府の一部にも及んでいた。7世紀の令制国成立に伴い北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)に北部5郡を丹後国として分離し、現在の状況になった。

丹波~丹後のバス路線図


京都府丹波・丹後地方 市町概略図
http://ha3.seikyou.ne.jp/home/sewatari/bustime/tanba/



丹波王国の誕生
 考古学的状況

 弥生時代前期末(BC300年頃)より、峰山町の扇谷遺跡、途中ヶ丘遺跡が発達してきた。ともに高地性大規模環濠集落であるが、住居跡は見つかっていない。この時期大規模だったのは扇谷遺跡のほうで、外濠の範囲は長軸で約270m、短軸が180mである。外濠の15~20m内側に内濠がある。環濠内の殆どが急斜面地で、頂部が平坦ではあるが大規模な集落を営めるような場所ではない。環濠からは、「鉄」「玉」「ガラス」等が出土している。また、隣の七尾遺跡からは方形台状墓も見つかっている。環濠からは他にも、土笛、多数の紡錘車、鋳造の板状鉄製品、鍛造鉄も見つかっている。ガラスの塊、鍛冶滓なども出土している事から、ガラス、鉄製品の生産が行われていたようである。山城、大和、播磨といった地方の土器と類似した土器も出土したことから、それらの地方と交流があったと推測される。
 おそらくこの遺跡は、途中が丘遺跡を営んだ人たちと同じ部族で、2つの集落の間を行き来しながら、先端技術工房を築いたと思われる。そして、その技術工房を外敵から守るために、環濠を掘ったものと考えられる。扇谷遺跡は弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると姿を消し、逆に途中ヶ丘遺跡が繁栄するようになる。


 弥生時代中期中葉(BC200年頃)になると鉄・玉を製造する遺跡が急増する。弥栄町の奈具岡遺跡、野田川町の寺岡遺跡、加悦町の日吉ヶ丘遺跡、舞鶴市の志高遺跡、桑飼上遺跡などである。奈具岡遺跡では、紀元前1世紀頃の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっている。この工房では、玉造の道具としてノミのような鉄製品も作られていたようである。この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数kgにもなり、大和や河内など近畿地方の中心部に比べて、「鉄の量としては桁違いの多さ」である。その鉄製品の量は相当なものだったと考えられる。このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていたようである。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土している。


 加悦町の日吉ヶ丘遺跡に大きな墳丘墓が造られている。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれ、それが多量に使われているのである。そして、墓に接するように環濠集落が存在している。


 この墓は、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代である。吉野ヶ里よりわずかに小さいのであるが、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡の場合は一人のための墓である。当然、王墓と考えられ、古代丹後王国があったという推定が成り立つ。

 弥生時代後期になると(BC30年頃以降)中期中葉以降繁栄した上記遺跡は姿を消し、代わりに峰山町古殿遺跡、大宮町谷内遺跡、宮津市宮村遺跡などが繁栄する。後期になっても、鉄器、玉の出土は多く、先進文化は継続されていたようである。古墳時代になっても巨大古墳が数多く築造されており、大和政権に組み込まれた後も朝廷にとって重要地域だったようである。丹後半島は、日本海岸にあり、対馬海流がすぐ沖を流れており、朝鮮半島からの直接の流入があったものと考えられる。


丹後国一帯は、九州に並ぶ当時の先進地域だったようである。大規模な台状墓があることから、すでに王国のようなものもできていたようで、そのほかの未開の地と違って統一が難しいことが予想される。


日本列島統一を目指した素盞嗚尊にとって、この丹後地域は大きな課題だったはずである。大国主命が若い時(AD15年頃)に鳥取県下の伯耆国・因幡国を統一している。その後、AD20年頃、素盞嗚尊より越国の統一を命じられ、実行しているのであるが、その間の丹後地域の統一は伝えられていないのである。重要地域であるはずの丹後半島を避けてその周辺を統一していることになる。時期から判断して素盞嗚尊はAD20年頃丹後半島に手を出していると思われるが、統一の難しいと思われるこの地域をどのようにして統一したのであろうか。

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-01-3tanba.html


京都府竹野弥栄町奈良岡遺跡

奈良岡遺跡
弥生時代中期後半、(BC220前後)奈良岡遺跡から鍛冶炉が見つかっています。ちょうど徐福が来日した頃の工房です。
http://inoues.net/tango/naguoka.html
 








もうひとつこの遺跡の特徴として、奈具岡遺跡はガラス生産も
行っていたのである。ガラス製勾玉の破片や、小さなガラス片が
多出ている。丹後地方では、扇谷遺跡で中期初頭と考えられる
ガラスの塊が出土し、時期は不明だが途中が丘遺跡でもガラス片が
出土している。しかし、具体的なガラス生産の様子がうかがえるの
は、ここ奈具岡遺跡のみである。
鉄器工具、玉、ガラスと、その生産活動の全てを工具製作から一貫
して行っていた一大コンビナートが奈具岡遺跡なのである。







奈具岡遺跡で確認された竪穴式住居の総数は約100軒で、丹後地方では屈指の規模であるが、この遺跡は工房であって居 住空間ではなかったと言う説もある。ここでは水晶製と緑色凝灰岩製の2種類の玉造りが行われていた。緑色凝灰岩の玉造りの方が先に、弥生中期中葉頃に始まったとされ、後葉に水晶造りが始まったと考えられている。これらの製作された水晶玉はどこへ運ばれたのであろうか。
    丹後地方で水晶玉を墳墓に副葬した例は、三坂神社墳墓群3号墓にしか見つかっていないので、丹後以外の何処かへ運ばれたのは間違いない。人によっては、前述の鉄資源の入手のために、朝鮮半島伽耶地域へ運ばれたと言う意見もあるが、今の所証明はされていない。現時点では、丹後の玉の行方はわからないのである。

http://inoues.net/tango/naguoka.html

伽耶の博物館展示動画にガラスや水晶の加工品がたくさんありましたね。

http://blogs.yahoo.co.jp/glowforestmoon/42122517.html(神秘の国古代伽耶)

鉄製品は、大陸の武具を溶かして再利用したりしたそうです。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/book/noji-kaken/chap_05.pdf

しかしBC200年には朝鮮半島は高句麗も新羅も百済もまだ建国されておらず、圧政と戦乱を逃れてきた大陸の人々が国をつくりはじめたころです。
なので取引先は大陸の漢ではないかと思います。


つぎは奴国のはなし

歴史認識を考えてみる(6)

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明から清へ  そしてペリー来航から開国へ

明が滅んだ理由のひとつに、秀吉軍を迎え撃つための戦費がかさみ、国の財政が逼迫したことが上げられるそうです。

16世紀の中国

環シナ海地域の変化

村井章介らの研究[46]などを基にすれば、16世紀初頭の1501年から1525年頃には、明、李朝、日本、琉球、東南アジア諸国の環シナ海地域においては、それまでの勘合貿易などの朝貢形式の王朝主導の貿易ではなく、海禁政策に反する非合法な中国人倭寇商人の活動や、堺や博多の豪商などを中心にしたネットワークが構築され、また1510年には三浦の乱1511年にはポルトガルマラッカを滅ぼして東アジアでの交易を始め、1523年には寧波の乱が起きるなど、明王朝の海禁政策を逃れた貿易が広がっていった。
嘉靖帝の時代に、武力による海禁政策の厳格な取締りが進むと倭寇や南蛮人の活動も過激化し、1554年6月には済州島で唐人と倭人の同乗する船が朝鮮水軍と衝突する事件が起き、1555年には倭冦が明の南京や朝鮮の全羅道を侵している(乙卯の倭変)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9

17世紀の中国

1368年 - 1644年続いた明が滅びます。

朱元璋の建国

モンゴルの建てた元朝は14世紀に入ると帝位の相続争いが起こり、統治能力が低下した。さらに疫災が相次いだため、白蓮教徒1351年紅巾の乱を起こすと反乱は瞬く間に広がった。紅巾軍の一方の将領であった貧農出身の朱元璋(太祖・洪武帝)は南京を根拠に長江流域の統一に成功し、1368年に明を建国した。洪武帝は建国するとただちに北伐を始め、順帝(トゴン・テムル・ハーン)は大都(北京)を放棄して北に逃れ、万里の長城以南の中国は明に統一される。江南から誕生した王朝が中国を統一したのは明が唯一である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E

明の位置
1580年明国の領域。羈縻地域烏斯蔵チベット)・奴児干(満州)を除く。


続いて清が建国します

愛新覚羅氏の王朝

(しん)は、清朝(しんちょう)、大清国大清帝国中華圏も統治したことから中国[1]ともいい、1636年満洲において建国され、1644年から1912年まで中国モンゴルを支配した最後の統一王朝である。中国の歴史上では、征服王朝の一つに数えられる。首都は盛京瀋陽)、後に北京に置かれた。
満洲族愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた王朝
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85


http://s.webry.info/sp/mogiseka.at.webry.info/201205/article_3.html


19世紀の日本

黒船来航

ついに鎖国を続けた日本にペリーの黒船が4隻やってきました。
たちうちできない巨大軍艦を持つ国との交渉。
日本はまたもや国家存亡の危機。

ここで日本は古代小国家群を根底に継承していた幕藩体制を終わらせ、中央集権国家に切り替えて危機をのりきり、欧米の技術や制度や思想を取り入れて富国強兵へと向かいます。以下
激動の幕末~明治初頭史です。

http://jpco.sakura.ne.jp/shishitati1/ishin-nenpyou1.htm
1853年(嘉永6年)6月■アメリカ東インド艦隊司令官・ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀に来航す。


7月■ロシア使節の極東艦隊司令官・プチャーチンが長崎に来航す

日露和親条約を締結
Putyatin.jpg
1854年(安政元年)1月■ペリー再来航す。
3月■吉田松陰が密航に失敗し、萩の野山獄に送検される。



日米和親条約が調印される(下田・箱館が開港す。)
1855年(安政2年)10月■安政の大地震が起こる。藤田東湖が震災で圧死す。
堀田正睦が幕府老中首座となる。

長崎海軍伝習所開く

1856年(安政3年)2月■蕃書調所が設立される。
7月■アメリカ総領事・ハリスが日本に着任する。
8月■吉田松陰が松下村塾を開く。
10月■将軍継嗣問題が表面化する。
1857年(安政4年)5月■下田条約調印。
6月■幕府老中・阿部正弘が死去す。
10月■アメリカ総領事・ハリスが将軍・家定に謁見する。
1858年(安政5年)4月■井伊直弼が幕府大老の職に就く。
6月■日米修好通商条約が調印される。
将軍継嗣問題は次期将軍に徳川家茂に決定される。
9月■井伊直弼による安政の大獄が始まる。
1859年(安政6年)6月■横浜が開港す。
8月~10月
安政の大獄による断罪が行われ、吉田松陰、橋本左内らが刑死す。
1860年(万延元年)1月■幕府の軍艦・咸臨丸が太平洋を横断す。

咸臨丸?Wikiより
3月■桜田門外の変が起き、幕府大老・井伊直弼が水戸浪士らに討たれる。
1861年(文久元年)2月■対馬事件が起こる。
ロシア軍艦が
芋崎を占拠し、兵舎・工場・練兵場などを建設して半年余にわたって滞留した事件。ポサドニック号事件とも呼ばれる
10月■孝明天皇の妹・和宮さまが将軍・徳川家茂に降嫁す。
1862年(文久2年)1月■坂下門外の変が起こり、幕府老中・安藤信正が負傷す。
4月■土佐藩家老・吉田東洋が暗殺される。
薩摩藩主・島津久光が藩兵を率いて、京都に上洛す。
寺田屋事件が勃発す。
7月■”天誅”が京都市中で横行す。
8月■生麦事件が勃発す。
島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

 12月■会津藩主・松平容保が京都守護職に就任し、京都に入洛す。
長州藩の高杉晋作らによって、イギリス公使館が焼き討ちされる。
1863年(文久3年)3月■将軍・徳川家茂が京都に上洛す。
5月■長州藩が外国船打ち払いを断行す。※攘夷の実行。
尊攘派から開国派となった公卿・姉小路公知が暗殺される。
6月■高杉晋作が奇兵隊を結成する。
7月■薩英戦争が勃発す。
生麦事件の解決を迫るイギリスグレートブリテン及びアイルランド連合王国)と薩摩藩の間で戦われた鹿児島湾における戦闘である。
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8月■天誅組の乱が起こる。
8・18の政変が勃発す。※尊攘派の七卿が都落ちす。
10月■生野の乱が勃発す。
京都警備の新鋭部隊・新選組が誕生す。

1864年(元治元年)3月■フランス公使・ロッシュが日本に着地す。

天狗党の乱が勃発す。
5月■幕府施設・神戸海軍操練所が設立される。

6月■池田屋事件が勃発し、新選組が一躍、名を馳せる。
7月■佐久間象山が斬殺される。
蛤御門の変(※別名・禁門の変)が起こり、薩摩・会津両藩VS長州藩が御所を囲んで激戦す。
戦いの結果、長州藩が敗北す。
幕府が第一次征長の役を起こす。
8月■欧米諸国が結託した四国連合艦隊により、下関が攻撃され、長州藩は大敗す。※下関戦争

Shimonoseki.JPG
下関戦争
(しものせきせんそう)は、幕末長州藩と、イギリスフランスオランダアメリカの列強四国との間に起きた、文久3年(1863年)と同4年(1864年)の前後二回にわたる攘夷思想に基づく武力衝突事件。

1865年(慶応元年)5月■土佐勤王党の頭目・武市半平太が処刑される。
坂本龍馬が薩摩藩の支援を得て、亀山社中を設立す。
1866年(慶応2年)1月■坂本龍馬の活躍で薩長同盟が成立す。
寺田屋にて坂本龍馬が幕吏らに襲撃される。
6月■幕府が第二次征長の役を起こす。
7月■14代目将軍・徳川家茂が病没す。
12月■15代目将軍に徳川慶喜が就く。
攘夷佐幕派の孝明天皇が崩御す。
1867年(慶応3年)4月■坂本龍馬の亀山社中が土佐藩の支援を受けて、海援隊と改称す。

「岩崎弥太郎」の画像検索結果
6月■坂本龍馬が『船中八策』を作成す。
7月■中岡慎太郎が土佐藩の支援を得て、陸援隊を結成す。
10月■幕府が朝廷に大政奉還を奏上す。
朝廷から討幕の密勅が下る。
11月■坂本龍馬・中岡慎太郎が見廻組に襲撃され、暗殺される。
12月■朝廷から王政復古の大号令が発せられる。
1868年(慶応4年~明治元年)慶応4年1月■鳥羽・伏見の戦いが勃発し、 官軍VS旧幕府軍が激戦す。結果、官軍が勝利す。
戊辰戦争が始まる
戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。
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慶応4年3月■官軍側の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟が話し合い、江戸無血開城が成る。

「西郷隆盛」の画像検索結果
慶応4年5月■奥羽越列藩同盟が結成される。
慶応4年5月15日1868年7月4日))上野で官軍VS彰義隊が戦い、官軍が勝利す。上野戦争
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慶応4年7月■江戸を東京と改称す。
慶応4年8月■官軍VS会津藩軍の戦いが始まる。
会津戦争。結果、会津藩が降伏す。

会津戦争
1868年 明治政府樹立
明治元年9月8日■年号を慶応から明治へと改元し、一世一元の制を定める。
1869年(明治2年)1月■薩長土肥の四藩主が藩籍奉還を上奏す。
横井小楠が暗殺される。
5月■五稜郭にて共和制を布いていた榎本武揚ら旧幕府軍が明治政府に降伏す。
9月■明治政府高官・大村益次郎が暗殺される。
1870年(明治3年)10月■土佐藩出身の岩崎弥太郎が三菱の前身九十九商会の運送業を 始める。
「岩崎弥太郎」の画像検索結果
1871年(明治4年)1月■明治政府の参議・広沢真臣が暗殺される。
7月■廃藩置県が断行される。
11月■岩倉使節団が欧米へ出発す。

左から木戸孝允山口尚芳岩倉具視伊藤博文大久保利通
1872年(明治5年)3月■御親兵を廃止し、近衛兵を設置す。
8月■学制を制定す。
1873年(明治6年)1月■太陽暦を採用す。
徴兵令を布告す。
7月■地租改正令を実施。
10月■西郷らが主張する征韓論が大久保ら富国強兵論に敗れる。西郷らは政府役職を 辞し、下野す。

征韓議論図。西郷隆盛は中央に着席。明治10年(1877年)鈴木年基作。
1874年(明治7年)2月■江藤新平を盟主とする佐賀の乱が勃発す。
Saga Rebellion.jpg
佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役[1]、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。
 明治政府が台湾へ出兵す。
4月■板垣退助が土佐にて立志社を設立す。
Itagaki Taisuke.jpg
1875年(明治8年)6月■新聞紙条例を定める。
9月■江華島事件が起こる。

Soldiers from the Un'yō attacking the Yeongjong castle on a Korean island (woodblock print, 1876).jpg
日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である。朝鮮西岸海域を測量中
日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台と交戦した。日本側の軍艦の名を取って雲揚号事件(うんようごうじけん)とも呼ばれる[5]日朝修好条規締結の契機となった。
1876年(明治9年) 3月■廃刀令
10月■熊本の地で神風連の乱が起こる。
Shinpūren Rebellion.jpg
明治政府に対する士族反乱の一つである。敬神党の乱とも言う。
 秋月の乱が起こる。
福岡県秋月(現・福岡県朝倉市秋月)で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
 11月■萩の乱が起こる。
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山口県で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。
1877年(明治10年)1月■西郷隆盛を盟主とする西南戦争が起こる。
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熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱である。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模で2015年現在日本最後内戦である。
 5月■維新三傑の一人・木戸孝允が病没す。
9月■維新三傑の一人・西郷隆盛が官軍に大敗し、自刃す。
1878年(明治11年)5月■維新三傑最後の一人・大蔵卿の大久保利通が暗殺される。
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1879
年(明
治12
年)
1月25日 大阪朝日新聞創刊される
1月29日万国電信条約に加盟し、外国電信業務を開始
3月12日 最初の内閣書記官長に中村弘毅を任命(内閣書紀官設立は3月10日)
3月14日松山にコレラ発生、全国に広がる
3月20日 東京府会開会(府県会規則による府県会の最初)
3月28日 初めての蓄音機の吹込(東京商法会議所において福知桜痴による)
4月4日琉球藩を廃止、沖縄県とする
5月15日 山林局を内務省に設置
6月4日東京招魂社を別格官幣社とし、靖国神社と改称(内務・陸軍・海軍3省の管理とする)
6月27日 コレラ予防法定める
7月4日 来日中のアメリカ前大統領グラント将軍来朝参内する
7月10日東京大学卒業生に初めての学位(学士号)授与する(医学本科18名、製薬本科19名の計37名)
7月16日 日本最初の考古学研究書完成(モールスの「大森貝塚研究報告」)
8月1日 日本最初の損害保険会社開業(東京海上火災保険会社)
8月10日 明治天皇、濱離宮に臨幸(アメリカ前大統領グラント将軍を引見し給う)
グラント将軍ト御対話
グラント将軍と御対話(明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画)
大久保作次郎 筆
子爵 渋沢栄一 奉納
1879年(明治12年)8月10日
浜離宮中島御茶屋
10月28日 水上警察を東京に開設
11月11日 萩原鑛場に最初の石油輸送鉄管竣工(それまでは樽に石油を容れ人夫が運搬)
千住製絨所成り、毛糸の生産も始まる
印刷局抄紙部でカセイソーダの製造はじまり洗濯石鹸もつくる(明治14年に廃止)
唐チリメン(メリンス)の輸入が盛ん
北海道紋別に製糖所設置
東京小石川興農社で各種の缶詰をつくり利益をあげる
広島の博進社缶詰製造をはじめ、日清戦争以来牛肉缶詰盛んになる基となる
梟首刑廃止(晒し首)
府県会開始
国立銀行150行に達する
大阪に硫酸製造会社設立
1880
年(明

13年)

1月10日 陸軍に電信隊開設
1月20日 シャム総領事品川弥二郎の斡旋により、シャムと本格的な国交開かれる
2月5日 外国郵便為替創設
2月27日 陸軍、海軍、工部各省の連合精鉄製造所(後の製鉄所)設立の請を配す
3月8日 スウェーデン最初の公使に柳原前光任命
3月24日 デンマーク最初の公使に長岡護美、スイス公使に鮫島尚信を任命する
3月30日 村田銃が発明される
4月19日 河野広中・片岡健吉ら、約10万人の総代として国会開設の請願書を提出(却下される)
5月20日 地価をさらに5年間据え置きと決定する
6月29日 東京代言人組合創立、会長は星亨(東京弁護士会の前身)
7月14日 京都・大津間の鉄道開通式(外国人技師に依頼せず邦人技師のみにて竣工せる最初の鉄道)
7月17日 刑法・治罪法制定
8月18日 日清両代表、琉球事件を商議する
8月31日 エジソンの白熱電燈に特許権
9月15日 最初の美術学校、京都府画学校創立(現在の京都市立芸術大学)
10月8日 小笠原諸島、東京府に編入
10月25日 「君が代」が完成
11月28日 北海道最初の鉄道開通(小樽手宮駅より起工し札幌間まで開通)
12月14日 伊藤博文立憲政体に関し建白
12月15日 河野広中、松田正久、沼間守一など、東京に於て自由党の盟約成立する
12月17日 東京・京橋で最後の仇討ち
東京市内ビール販売店13店を数える
三田育種場孵卵器で孵化に成功したが普及せず
丸山三吉、信州飯田で梨の栽培をはじめ成功す
本所横綱に会員800名の日常共同購入を目的とする共立社ができる
サガレン出稼漁者寄合結成される
六合雑誌』創刊(10月)
巡査、棒を廃して洋劔を帯びる

1881

(明

14年)
1月4日警察庁再設置
1月17日 明治法律学校(現在の明治大学)、東京麹町有楽町に開校(校長岸本辰雄)
3月11日憲兵本部を東京に創設し、憲兵中佐三間正弘を部長に任命する
3月12日ロシア皇帝アレクサンドル二世暗殺される
4月5日 大日本農会、東京に創立
4月7日農商務省を置き、外務卿河野敏鎌を農商務卿に任命する
4月26日 初めて列国の使臣を招いて、吹上御苑に観桜御会を開く
7月6日 岩倉具視、憲法制定意見具申
7月9日 明治生命保険会社創業(最初の生命保険会社) *設立は7月8日
10月12日明治天皇、来る明治23年を期して、国会を開設する旨の詔書を下し給う
10月29日 東京にて政党自由党の結党式
大阪鉄工所・小野田セメント・日本鉄道・大日本農会など設立
第2回内国勧業博覧会に11道府県より缶詰の出品あり、殆ど魚介を材料とした、また2府3県から琺瑯(ほうろう)品が出品された、これは鍋等の飲食器である
東京に粉ミルク・バターの製造始まり、その売捌店は市内13軒をかぞえる
芝日影町で日本人のラムネ製造始まる
小学校で体操と唱歌を正科とする
北海道巡幸屯田兵御覧北海道屯田兵 高村真夫筆 石狩国山鼻村
1882年(明治15年)
1月1日全国人口、3670万人118人(東京98万2143人)
2月15日 東京大学に植物学会創立(植物専攻研究の始め)
2月25日 参議伊藤博文、憲法及び制度研究のため西洋諸国へ差遣を命じられる
3月1日松方大蔵卿「日本銀行創立ノ議」を建議する
3月15日 中央気象台に常設の地球磁気観測の始
3月16日 立憲改進党結党式
3月18日 渋沢栄一、大倉喜八郎ら、東京電灯会社設立を出願
3月20日上野動物園開園

1883年(明治16年)
1月4日叙勲の条令制定
2月4日北畠道隆、日本人として初めてインドの釋尊聖跡を訪ね記念碑を建てる
2月12日東京法院を開き、国事犯最初の審問を開始する(福島事件審問を開始)
2月16日天気図初めて発行される(七色刷りの天気図で一日一回発行)
2月27日伊能忠敬へ正四位追贈される
3月15日立憲政党解党
3月20日高田事件(内乱陰謀容疑)起こる
4月12日参謀本部内に初めて陸軍大学校開設、この日開校される
4月16日新聞紙条例改正(取締り強化)
4月16日西洋流の園遊会、初めて大隈重信邸内に催される(立憲改進党結党1周年祝賀、来賓者110数名)
4月23日自由党大会、改進党攻撃を決議する
4月28日日本銀行開業
5月8日第一回日本水産会開催
6月15日日本銀行に国庫金取扱を命ず
6月22日自由党の総理板垣退助及び後藤象二郎、巡欧の旅より帰国
6月23日駒場農学校、第一回学位授与式
6月29日出版条例改正
7月2日「官報」第一号を発行
7月4日東京の大水害(千住大橋落ちる)
7月5日明治天皇、右大臣岩倉具視邸に臨み、その病患を親しく問はせ給う
7月7日鹿鳴館落成する
7月19日明治天皇、岩倉具視邸に臨み親しくその病床を見舞う(岩倉具視感泣す)
岩倉邸行幸
7月20日岩倉具視薨去(享年59歳)
7月25日品川浅間台において岩倉具視の葬儀執行(最初の国葬)
7月28日上野・熊谷間鉄道開通(日本初の市営鉄道経営)
8月4日東京湯島書籍館に地方会議所を設け、改めて議院と称す
8月16日干ばつのため和歌山県の各地で水騒動続発
9月9日大日本教育会創立(初代会長に辻新次を推す、帝国教育会の前身)
11月12日観菊御宴開かれる
11月28日鹿鳴館、開館式挙行
9月24日奥宮健之ら車会党結成、即日禁止
9月24日立憲帝政党解党
11月20日天璋院篤姫逝去(享年48歳)
12月25日大阪府に憲兵分署を設ける
12月28日徴兵令を改正(免役を廃止、現役・予備役・後備役の制を定める)
生活 この年 衣 食 住 文学 その他
  • 大阪紡績開業する
  • 金巾輸入激減する
  • 書生・士族の子弟らの間に麦わら帽子流行し始める
  • 東京に偕楽園・陶々亭の支那料理店ができる
  • 栃木県で外国煙草の試作をなす
  • 東京電燈株式会社創立
  • 矢野竜渓著『経国美談』発行(1月)
  • 馬場辰猪著『天賦人権論』刊行(1月)
  • 井上勤訳『人肉質入裁判』(ベニスの商人)刊行(10月)
  • 井上勤訳『魯敏孫漂流記』(ロビンソン漂流記)刊行
  • 市内巡査交番所に天気予報を掲げることとなる
  • 太政官日誌を廃し、官報となる
  • 帝国教育会設立
  • 丸ノ内馬場先門外に補修道路(タタキ路)ができる
  • 山形県ハッカの輸出に成功し、県下至る処ハッカの栽培流行す
  • 浅野セメント・大日本製薬・東京製氷等設立
1884年(明治17年)
1月4日官吏の恩給令公布
1月9日大阪市東区の大火(1440戸焼失)
1月23日近衛兵に軍旗を授与する
2月15日朝鮮に初めて電信取扱開始(日本の経営にて内地釜山局間に限られる)
2月16日陸軍卿大山巌、川上操六・桂太郎両大佐を従え、欧州兵制視察のため横浜出発
2月17日梅ケ谷藤太郎横綱となる
3月10日芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される
3月15日地租条約制定(税率の固定、法定地価の決定)
3月17日憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる
4月2日明治天皇・皇后、隅田川に海軍兵のボート競漕を観覧
4月7日山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる
5月1日大阪商船会社創立開業する
5月7日区町村会法改正、戸長官選となる
5月12日フランスの化学者シャルドネにより人造絹糸発明され学会に発表報告
5月13日群馬事件起こる
5月17日東京帝国大学に造船科新設される
5月24日学習院、初代院長に谷干城を任命
5月27日蒸気起重機を初めて横浜停車場の荷揚場に建設し、運輸に便ならしめる
6月1日天気予報を巡査交番所に掲示開始
6月7日商標に関する条例制定
6月12日鹿鳴館で日本初のバザー
6月16日全国天気予報開始
6月25日日本薬局方制定公布される
6月26日陸地測量事業、参謀本部に管轄統一される
7月7日華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位

歴史認識を考えてみる(7)

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明治17年~明治27年 富国強兵への道

憲法発布、帝国議会、軍隊と学校、インフラ整備、列強との交渉、軍事衝突

http://meiji.sakanouenokumo.jp/1884.html

1884年 
明治17

1月4日官吏の恩給令公布
1月9日大阪市東区の大火(1440戸焼失)
1月23日近衛兵に軍旗を授与する
2月15日朝鮮に初めて電信取扱開始(日本の経営にて内地釜山局間に限られる)
2月16日陸軍卿大山巌、川上操六・桂太郎両大佐を従え、欧州兵制視察のため横浜出発
2月17日梅ケ谷藤太郎横綱となる
3月10日芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される
3月15日地租条約制定(税率の固定、法定地価の決定)
3月17日憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる
4月2日明治天皇・皇后、隅田川に海軍兵のボート競漕を観覧
4月7日山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる
5月1日大阪商船会社創立開業する
5月7日区町村会法改正、戸長官選となる
5月12日フランスの化学者シャルドネにより人造絹糸発明され学会に発表報告
5月13日群馬事件起こる
5月17日東京帝国大学に造船科新設される
5月24日学習院、初代院長に谷干城を任命
5月27日蒸気起重機を初めて横浜停車場の荷揚場に建設し、運輸に便ならしめる
6月1日天気予報を巡査交番所に掲示開始
6月7日商標に関する条例制定
6月12日鹿鳴館で日本初のバザー
6月16日全国天気予報開始
6月25日日本薬局方制定公布される
6月26日陸地測量事業、参謀本部に管轄統一される
7月7日華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位の制成る)
7月21日横須賀造船所の開渠式
7月26日ハワイホノルルに領事館設置
7月28日京都二条城を離宮と定めらる
8月10日自由党有一館設立される
8月10日武州御殿峠に困民党蜂起
9月5日宇品港(広島港)の築港着手
9月23日茨城県下自由党の加波山事件起こる
10月10日相州観音崎の砲台成る
10月13日グリニッジの世界標準時定める
10月17日学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催される(最初のボートレース)
10月18日巡洋艦「畝傍」フランスより回航の途につく(12月3日にシンガポールを発つが消息不明に)
10月29日自由党解党
10月31日秩父事件起こる(国民党が一斉に蜂起)
11月1日明治天皇、不忍池畔競馬場臨幸



11月6日内村鑑三、離婚を機に渡米する
12月4日甲申事変(ソウルで金玉均、朴泳孝ら親日派によるクーデターが起こる)
12月4日飯田事件(名古屋鎮台・監獄襲撃の計画)発覚する
12月6日京城にて竹添公使の守兵、清国袁世凱の兵2,000と王宮の内外に衝突
12月15日横須賀に鎮守府開設布告
12月17日大隈重信ら改進党を脱党、 名古屋事件(政府転覆の計画)発覚する
12月24日外務卿井上馨を朝鮮に遣して談判


1885年

明治18年
1月1日往復はがき、初めて発行される
1月7日特命全権大使井上馨、韓国全権大臣金宏集と談判、我要求五事を約す
1月17日羅馬字会創立、第一回例会を開催
1月25日千葉医学校開校(現在の千葉大学)
1月25日大山巌、欧州の兵制視察を終え帰朝
1月27日ハワイ第1回移民(927人出発)
2月7日政商、岩崎弥太郎死去
2月24日伊藤博文、特派全権大使として清国へ差遣(西郷従道、井上馨これに従う)
3月1日赤羽・品川間の鉄道開通(官私営鉄道の最初)
3月9日初めて電話機・電燈が輸入される(エジソンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)
3月17日全権大使伊藤博文、西郷従道、天津にて李鴻章と会見(天津条約の談判)
3月18日プロシア参謀少佐メッケル、陸軍大学校雇教師となる
4月3日特派全権大使伊藤博文、西郷従道ら、天津において李鴻章全権と談判開始
4月6日府県に小作慣行調査を命令
4月18日朝鮮問題に関し、全権伊藤博文は清国代表李鴻章と天津条約調印
5月8日九州改進党解党
5月9日日本銀行、初めて兌換銀行券を発行する
5月15日イギリス海軍、朝鮮の巨文島を占領する
5月18日監軍部条例(東部、中部、西部とする)、鎮台条例を改正する
5月20日各鎮台の歩兵連隊を旅団に編成
5月30日大蔵省に初めて預金局を設置(国家経済の運用と利殖を計る)
5月31日富山市の大火(ほとんど全滅)
6月2日京都にて琵琶湖疎水起工式
7月1日特許法実施(第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料)
7月2日関西地方に豪雨続き大洪水(とくに大阪市内の橋梁悉く流失し、死傷者多数)
7月17日海底電信万国条約に加盟する
7月26日明治天皇、山陽巡幸御発輦
9月17日日本郵船創立
9月24日違警罪即決例制定
10月1日東京瓦斯、日本郵船両社創立
10月16日上野駅開業
11月13日華族女学校開校式(皇后宮行賓)
華族女学校行啓
11月14日最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑業組合成立
11月18日明治天皇、日比谷操練場に御閲覧
11月23日大阪事件 (自由党士大井憲太郎ら、清国に対する韓国の独立を謀り、事発覚して大阪
に捕えられる )
11月24日東京に基督(キリスト)教信徒大会開催
12月12日大阪・堺間の鉄道開通する
12月22日太政大臣、左右大臣、参議の制を廃し、新たに内閣各省を置き、官制改革が行われる
12月22日最初の組閣、第一次伊藤内閣成立し初代総理大臣に伊藤博文(宮相兼務)
12月22日宮中に内大臣をおく(三条実美)
12月23日初代法制局長官山尾庸三を任命
12月28日内閣に統計局を設置
12月29日大阪・堺間の鉄道開通開業

1886年

明治19年
1月1日正貨兌換を開始する(銀本位制)
1月1日鉄道定期乗車券、初めて発行される
1月9日修史館を廃し、内閣に臨時修史局を設置
1月26日北海道の3県を廃止し北海道庁開設(長官は岩村通俊)
1月28日鎮台を廃して師団とする
1月28日ハワイと渡航条約調印
2月27日各省官制通則を公布、職種・指揮命令系統を定める
2月28日六鎮台を廃し師団とする(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)
3月1日帝国大学創立記念日(帝国大学令制定にともなって記念日と定める、公布は翌日2日)
3月2日帝国大学令公布
3月3日各省に次官を置く
3月9日初代東京府知事(兼東京市長)に議官高崎五六を任命する
3月18日名古屋に株式取引所設立
4月1日メートル条約に加盟
4月4日東洋絵画共進会開催(於上野公園)
4月9日東京高等師範学校開設
4月10日師範学校令・小学校令・中学校令を公布する
4月29日商船学校、高等師範学校などの管制交付
5月1日外務大臣井上馨、各国公使と第一回条約改正会議を外務省にて開く
5月2日国産鉛筆工場初めて東京四谷に設置(佐賀県人真崎仁六により起業)
5月10日教科書検定条例制定
5月20日東京浅草公園、開園祝賀会
5月30日秋田市の大火(約3400戸焼失)
6月3日自由党員の箱根離宮竣工式襲撃の陰謀発覚(静岡事件)
6月25日日本薬局方制定公布
7月12日東経135度の子午線時を本邦一般の標準時と定める
7月24日監軍本部廃止
7月24日東京築地の海軍兵学校、広島県江田島に移る(開校は8月1日)
7月26日朝鮮独立運動の志士金玉均、日本に遊説中神奈川県において拘留の難に遭う
7月31日箱根塔ノ島の離宮成る
8月13日長崎上陸の清国水兵暴虐事件起こる
8月13日登記法公布
10月16日宝塚温泉落成式
10月18日軍艦「畝傍」、回航の途につく
日清戦争前の海軍増強計画でフランスに発注されました。
ル・アーブル造船所にて完成した畝傍艦は、
フランス人艦長によって日本に回航される途中、
1886年12月3日、シンガポール港を出た後に行方不明になりました。
日本政府は保険金でイギリスに代艦を発注します。(千代田艦)
10月24日ノルマントン号事件
英国汽船ノルマントン号、紀州沖の暗礁に沈没、日本乗客のみ溺死し問題起る
10月24日星亨・中江兆民ら全国有志大懇親会を開催
10月26日薩摩、大隈に多数隕石落下
11月16日赤十字条約へ加入の件公布
11月17日東京の博愛社病院(後の日本赤十字病院)開院式あり(皇后宮行啓)

有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
12月6日矢島揖子ら婦人矯風会設立
12月11日西村茂樹、日本道徳論を構ず
12月13日神奈川県三浦郡三崎に最初の臨海実験所開設される

1887 年
  明治20年
1月22日東京市街に始めて営業電燈点火
2月3日リース、帝国大学史学科教師として着任(ドイツ歴史主義を紹介)
2月14日逓信省の徽章〒(郵便マーク)印制定
3月14日海防に関する詔勅とともに30万円下賜
3月23日所得税法を公布する
3月23日陸軍で初めて「伝書鳩」を飼育する
4月20日伊藤首相、仮装舞踏会を開催
4月21日富山市の大火(約900戸焼失)
4月26日九代目市川団十郎、麻布井上馨邸にて「勧進帳」を演じる
4月30日法律顧問ロェスレル「日本帝国憲法草案」を提出する
5月20日博愛社から日本赤十字に改称
東慕慈恵医院行啓満谷国四郎筆 明治20年5月9日 東京慈恵医院行啓
5月20日最初の学位令公布
5月23日榎本武揚、佐野常民ら16名の勲功により子爵。高崎正風、井上良馨ら18名に男爵を授ける
6月1日法律顧問ボアソナード、条約改正につき意見書を提出
6月2日監軍部条例を改正し、監軍部を東京に置く
6月9日板垣退助、爵位を辞す
6月30日海軍大臣西郷従道、欧州より帰朝
7月3日谷干城、政府批判意見書を提出
7月8日特使、板垣退助の旅館に臨み辞爵上表を返戻(板垣天恩に感激し受爵を決意)
7月15日板垣退助、参内して遂に受爵す
7月26日谷干城、農商務相を辞職
7月29日井上馨外相、各国公使に条約改正会議の無期限延期を通告
8月15日熊本県三角港の開港式
8月19日日本最初の皆既日食観測
8月20日東京石川島造船所にて帝国砲艦「鳥海」の進水式
(私立造船所にて帝国軍艦建造の最初の記録)
9月4日富士山頂にて初めて気象観測行われる
(中央気象台技師正戸豹之助及び雇外人クニッピングによる)
9月16日東京の東洋大学開校
9月21日横浜に最初の水道布設
9月22日「児童福祉の父」石井十次、岡山孤児院を設立する
10月3日後藤象二郎ら丁亥倶楽部を結成(大同団結運動)
10月5日文部省に専門・普通学務局設置
10月5日東京音楽学校開校
10月7日日本初の上水道、横浜で給水
10月8日陸軍大学校条例公布
10月15日2府18県の有志、三大事件建白
12月6日島津久光死去
12月9日最初の大型鉄橋、隅田川吾妻橋竣工
12月15日郡山・仙台間の鉄道開通する
12月16日宮城(皇居)二重橋、木橋を石造改築竣工
12月19日東京日本橋の大火(約1700戸焼失)
12月26日保安条令の公布・施行(星享、中島信行、中江篤介ら294名、皇居より三里以外に放逐)
12月28日改正新聞紙条例などが公布
1888 年
  明治21年
2月1日大隈重信、外相に就任
2月3日文部省、高崎正風詞・伊沢修二曲の「紀元節歌」を学校唱歌として府県・直轄学校に送付
2月25日大阪・名古屋・広島・熊本の各師団に騎兵大隊を設置
3月16日世界初の自動車購入者はパリのロジェと記録
4月3日雑誌「日本人」創刊
4月13日東京上野黒門町に日本初の珈琲喫茶店「可否茶館」開店
4月25日市制・町村制公布
4月30日枢密院設置(初代議長に伊藤博文を任命)
4月30日黒田清隆内閣成立
5月7日学位令による日本で最初の博士誕生(加藤弘之、箕作麟祥、鳩山和夫、高木兼寛ら25名)
5月8日枢密院開院式(枢密会議において初めて皇室典範を議せる)
5月12日陸軍各条令大改正公布
5月14日陸海軍参謀本部条例改正
5月25日憲法草案会開かれる
5月29日麒麟(キリン)ビール発売
6月1日東京天文台、麻布に新設される
6月6日御歌所設置(所長に高崎正風)
6月10日乃木希典、ドイツ留学より帰朝(以来性格一変して謹厳そのものとなる)
6月18日枢密院会議に明治天皇御臨(伊藤博文を議長として憲法議事第一回開かれる)
枢密院憲法会議五姓田芳柳筆 赤坂仮皇居御会食所枢密院憲法会議
6月19日日本赤十字社に資金下賜
6月21日皇城内に初めて電燈点火する
7月14日海軍大学校官制公布
7月15日磐梯山大爆発
7月29日朝鮮志士金玉均、札幌に移される
10月1日わが国初の火災保険会社、東京火災保険会社、営業開始
10月7日中国初の海軍「北洋艦隊」が編成される
10月10日国会議事堂の起工式を挙ぐ
10月14日皇城二重橋、二ヵ年を要し竣工
10月27日皇城を「宮城」と改称する
10月28日四国初の鉄道、伊予鉄道松山・三津ヵ浜間開通
10月30日東京大学に史料編纂係を置く
11月3日帝国水難救済会創立
11月14日パストゥール科学研究所設立
11月15日天竜川に鉄橋架設竣工する
11月20日立憲政党新聞、大阪毎日新聞と改称
11月26日東京に海軍大学校開校される
11月30日条約改正後最初の締約(日本・メキシコ間に対等条約成立)
12月3日全国を3府43県と改める
12月3日最初の写真印刷法発明特許、池田早苗出願
12月4日香川県、愛媛県から独立
12月8日牛島謹爾、郷里久留米を出発、渡米の途に上る
(後に馬鈴薯の栽培に成功し「馬鈴薯王」と成る)
12月11日東京美術学校、上野に設立
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治18年12月22日~明治21年4月30日)
黒田清隆 (明治21年4月30日~明治22年10月25日)
1889 年
  明治22年
1月16日水戸・小山間の鉄道開通
1月23日三池鉱山を三井に払い下げる
1月23日徴兵令改正(徴兵猶予の制度廃止)
1月25日石川島造船所、会社組織に改組発足
2月11日大日本帝国憲法発布(立憲君主国の仲間入り)
和田英作筆 宮城正殿 憲法発布式
2月11日文部大臣森有礼刺殺される
2月11日西郷隆盛へ、正三位を追贈
2月11日「万歳三唱」が決まる
2月12日黒田首相、地方長官に超然主義の方針を訓示
2月13日日海軍治罪法公布
2月20日紀淡海峡の砲台竣工
3月4日清国、徳宗親政治始まる
3月31日佐渡、生野の両鉱山、帝室財産に編入され、御料局支庁に属す
4月16日メートル法条約に加盟する
4月16日静岡・浜松間の鉄道竣工して、ここに初めて東海道全線の開通を見る
4月19日大隈外相の条約改正案ロンドンタイムズに掲載され、以後反対世論高まる
4月21日民法財産編公布
4月26日法学、立法事業の恩人フランスボアソナード、帰国のため参内(御暇乞い)
5月9日正岡子規、常盤会寄宿舎で血を吐く
5月11日東京乗合馬車会社創立す
5月16日帝国博物館(東京、京都、奈良)官制成り、博物館総長に九鬼隆一を任命
5月21日最初の市会議員選挙、東京において本日より3日間行われる
5月28日地久節の御儀初めて行われる
6月8日市制実施後、最初の東京市会を開く
6月10日第1回貴族院多額納税議員選挙
6月16日横須賀線鉄道開通
6月20日富山県伏木に米騒動
7月1日呉、佐世保の南鎮守府開庁
7月1日山梨県甲府に市制実施される
7月1日東海道本線全通(新橋・神戸間鉄道全通)
7月15日第2インター結成
7月24日艦隊条令公布により、常備艦隊を編成
7月30日第一回条約改正内閣会議
8月25日条約改正反対派、東京にて大演説会を開く
9月11日商業会議所条令公布
10月2日第1回汎米会議
10月7日海軍旗章条例により、それまで日章旗であったものが旭日旗に統一される
10月8日逓信大臣後藤象二郎、条約改正問題を以て国家の不利とし、反対の旨を奏上する
10月11日枢密院議長伊藤博文、大隈外相の条約改正案に反対し辞表を提出
10月13日富山県魚津で米騒動
10月15日御前会議で条約改正を議す
10月18日大隈重信外相、暗殺未遂(玄洋社社員来島恒喜に襲われ負傷、条約改正中止)
10月20日元老院廃止
10月21日黒田首相辞表を提出
10月24日黒田首相以下大隈外相を除く各大臣、辞表を提出
10月25日内大臣三条実美内閣総理大臣を兼職する
11月3日嘉仁親王、立太子式
11月10日歌舞伎座、木挽町に開場
11月18日北海道炭鉱汽船会社・鉄道会社創立
11月30日地租改正条例公布される
12月10日閣議にて、条約改正交渉延期決定される
12月13日四条畷神社、別格官弊社に列格
12月19日板垣退助、旧自由党員ら大阪で愛国公党を結成
12月24日大隈重信外相、辞任
12月24日第一次山県有朋内閣成立
内閣総理大臣
黒田清隆 (明治21年4月30日~明治22年10月25日)
三条実美 (明治22年10月25日~明治22年12月24日) *内大臣兼任
山県有朋 (明治22年12月24日~明治24年5月6日)
1890 年
  明治23年
1月18日  











1月18日
富山市に米騒動起る
歌会始 歌御会始山下新太郎 筆 宮城鳳凰ノ間

1月21日
大井憲太郎・中江兆民ら自由党を再興
2月1日徳富蘇峰主宰の「国民新聞」創刊される
2月3日第伍海軍区鎮守府を室蘭に設置
2月5日メキシコに公使を置く(米国公使陸奥宗光が兼務)
2月8日閣議、青木周蔵外相提出の条約改正案を決定
2月11日金鵄勲章が制定される
2月27日浅草の大火(約1500戸焼失)
3月6日岩崎弥之助、政府より丸の内一帯の払い下げを受ける
3月8日駿河台ニコライ堂開堂
3月17日日英清間に印蔵条約
3月25日女子高等師範学校創立
3月31日明治天皇、豪雨中に大演習御統監
陸海軍大演習御統監長原孝太郎 筆 雁宿山 陸海軍大演習御統監
4月4日小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)来日
4月9日琵琶湖疎水(大津・鴨川落合)第一期工事開通式、大津に挙行される(両陛下臨御)
4月18日神戸湾において観艦式(帝国軍艦19隻)
4月21日民法(旧民法、民法典論争おこり、施行されず)財産編公布
4月21日呉鎮守府開庁式
4月26日商法公布(法律48号)
4月27日民法第一、第二、第三編公布
5月1日世界で初めてのメーデー開催
5月17日府県郡制を公布
6月12日東京農林学校、帝国大学に合併
6月15日紡績第1次操短
6月18日利根川・江戸川間の運河開通
6月21日軍人恩給法公布
6月30日行政裁判法を公布
7月1日第一回衆議院議員総選挙
7月16日民事訴訟法施行条令公布
8月12日電気学者藤岡市助により、初めて炭素線電球作られる
8月17日新聞紙の挿図に初めて写真版表われる
8月25日立憲自由党結党
9月5日大阪の大火(約1800戸焼失)
9月15日東京芝に立憲自由党結党式
9月20日フランスより初めて輪転印刷機輸入(東京着)
9月21日日本法律学校(日本大学の前身)の開校式
10月7日岡倉天心、東京美術学校校長に就任
10月9日岩崎弥太郎、土佐開成商社を成立(三菱の前身)
10月10日訴訟法公布される
10月20日元老院廃止される
10月22日東京市内一般の電話通話開始する(使用回数に制限を与えず)
10月24日伊藤博文、貴族院議長となる
10月27日初のエレベータ浅草に登場
10月30日教育勅語、発布される(「忠」と「孝」が基本思想)
教育勅語下賜安宅安五郎 筆 宮中表御座所 教育勅語下賜
11月1日盲人教育に点字採用
11月3日東京に帝国ホテル創業
11月10日東京浅草に12階の凌雲閣竣工
11月11日東京に最初の書籍大糶市開かれる
11月13日我国最初のエレベータ運転開始
11月20日丸の内山下町に帝国ホテル開業
11月25日第一回帝国通常議会召集される(初代議長に中島信行、副議長に津田真道が当選)
11月29日第一回帝国議会開院式
帝国議会開院式臨御小杉未醒 筆 貴族院 帝国議会開院式臨御
12月4日北里柴三郎、ジフテリア、破傷風の血清療法を発見
12月16日東京・横浜間の電話交換業務開始(加入者、東京179、横浜45)
12月24日山県有朋内閣を組織する
内閣総理大臣
山県有朋 (明治22年12月24日~明治24年5月6日)
1891 年
  明治24年
1月13日警視総監、保安条例を発動し、壮士ら54名に東京退去を命令
1月19日板垣退助、議員40名と共に立憲自由党を起こす
1月20日帝国議会議事堂全焼
2月3日内村鑑三、不敬事件がもとで失職に追い込まれる
2月18日三条実美死去(叙正一位)
2月20日土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支持の動議可決(自由党分裂)
2月21日中江兆民、議会の弱腰を批判し、衆議院議員の辞表提出
3月1日東京手形交換所設立
3月8日神田ニコライ堂開堂式
3月18日ロンドン・パリ間に海を越えて電話開通し、両市にて盛大な開通式挙行
3月19日立憲自由党、自由党と改称し、板垣退助を総理に決定
3月24日度量絵衡法公布
3月25日板垣退助、自由党総理となる
4月1日郡制施行開始
4月9日幕末勤皇家へ正四位を追贈(橋本佐内、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など27氏)
4月29日日本で初めて飛行機の雛形飛ぶ
5月1日日本赤十字社病院、飯田町より麻布に移転開院(毎年5月1日を創立記念日とする)
5月6日三国同盟更新
5月6日第一次松方正義内閣成立(山県内閣総辞職)
5月11日大津事件(大津において巡査津田三蔵、来日中のロシア皇太子ニコライ親王を切りつけ
負傷させる)

5月12日明治天皇、京都に出発
5月13日明治天皇、ロシア皇太子を見舞う
5月20日畠山勇子、大津事件を憂い日本の危機回避を祈願し京都府庁の門前で自殺
5月21日屋井先蔵、電気時計を発明する
5月26日法相と内相、児島惟謙及び裁判官の説得を図るが失敗
5月27日大審院長児島惟謙、政府の大逆罪適用の要求に反対、津田に無期判決(大津事件)
5月30日ロシア、シベリア鉄道着工
7月11日東京音楽学校卒業式で「君が代」が歌われ、先例となる
8月7日日本最初の魚形水雷の試射(相州浜にて海軍省技師、喜志・坂本両氏による)
8月27日露仏同盟調印
9月1日日本鉄道、上野・青森間東北本線開通(東京・青森間全通)
10月2日東京市、市区改正費のため公債1000万円を募る(市民公債の始)
10月28日濃尾大地震(岐阜・愛知県に大地震、倒壊焼失家屋26万8千戸、死者9万6千人)
11月5日陸軍省、靖国神社に維新前後の国事殉難者1277人を合祀
11月8日自由党首板垣退助、改進党首大隈重信、早稲田に会見し両党連盟を議す
11月21日第二通常議会召集
11月26日第二回帝国議会開院式挙行
12月13日近衛司令部条例改正、近衛都督を近衛師団長とする
12月18日田中正造、足尾銅山の鉱毒問題に関する質問書を衆議院に提出する
12月22日海相樺山資紀の蛮勇演説(衆議院にて薩長罰の功績を高揚して反感を買い議場混乱する)
12月25日衆議院、民党主張の予算大削減案を可決し解散(最初の議会解散断行)
12月28日大隈重信、立憲改進党に再入党
12月30日鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
内閣総理大臣
山県有朋 (明治22年12月24日~明治24年5月6日)
松方正義 (明治24年5月6日~明治25年8月8日)
1892 年
  明治25年
1月28日選挙取締りを目的とする予戒令公布
2月3日出口なを、大本教を開く
2月5日大村益次郎銅像の除幕式
2月11日福島安正、ドイツベルリンを出発(シベリア横断への発途)
2月15日第二回臨時総選挙(選挙運動中、政府の干渉により各地で騒乱)
2月21日日本初の日刊紙「東京日日新聞」創刊(現毎日新聞)
2月23日伊藤博文、干渉責任者の処分を主張し枢密院議長の辞表提出
2月24日伊藤博文、選挙干渉に反対、枢密院議長の辞表提出
3月4日帝国大学教授久米邦武「神道は祭典の古俗」の論文により休職
3月11日内相品川弥二郎、選挙干渉の責任をとり辞職
4月10日東京神田の大火(約4000戸焼失)
4月17日大日本蚕糸会社創立
5月2日第三特別議会召集
5月10日最初の養蚕学校、長野県小県に設立(三吉校長一棟の民家にて授業開始)
5月21日保安条例を実施し、壮士143名に対し帝都より退去を命じる
6月4日日本初の水力発電所が京都市水利事務所開業(総工費30万円にて竣工)
6月14日両院協議会、予算修正につき妥協、両院で可決
6月16日小包郵便法公布
6月17日東京の日本赤十字社病院、新築落成(皇后行啓、開院式を行う)
6月20日川上音二郎一座、東京に初めて壮士芝居を開演(満都の人気を集め大当たり)


6月26日弁護士総会初めて東京に開催
7月13日海軍造兵廠5000名スト
7月15日震災予防調査会を設置
7月22日徳島県下の大水害
7月30日選挙干渉により、松方内閣総辞職
8月8日第二次伊藤博文内閣成立(元勲内閣)
8月17日露仏軍事協定成立
10月1日小包郵便取扱(小包郵便法実施)
10月19日東京九段の大村益次郎銅像竣工(除幕式は翌年2月5日執行)
10月22日最初の特別大演習栃木県に開かれ、明治天皇統監(26日観兵式)
11月1日黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊
11月6日大井憲太郎、東洋自由党結党
11月14日山田顕義死去
11月25日第四通常議会召集
11月27日伊藤博文、交通事故に遭遇(伊藤の人力車が馬車と衝突、伊藤気を失う)
11月30日北里柴三郎博士により最初の伝染病研究所を芝公園内に設置(福沢諭吉が無償で別邸を貸与)
11月30日軍艦「千島」、英船ラヴェンナと衝突沈没(乗務員70余名溺死)
12月1日正岡子規、新聞「日本」に入社
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 
1893 年
  明治26年
1月17日下瀬雅允発明の爆薬を「下瀬火薬」と命名
1月31日日比谷公園できる
2月1日御真影及び勅語の奉安方を初めて各役所、学校へ布達する
2月3日国木田独歩、「欺かざるの記」起筆
2月7日衆議院、内閣弾劾上奏案を可決
2月10日建艦費補充のため内廷費30万円6年間下付の詔勅下る
2月14日アメリカ、ハワイ併合調印
2月17日海軍省、下瀬下瀬雅允発明の新火薬を採用
2月18日長野・直江津間の鉄道開通
2月22日衆議院、製艦費をみとめ予算案修正可決
2月26日予算案成立
3月20日郡司成忠大尉、7艘の端舟にて北航艇隊63名を率いて隅田川出発(千島探検の壮途に上る)
3月25日大阪・神戸間の電話開通
3月29日伊勢松坂町の大火(約1000戸焼失)
3月30日三田尻港の築港工事成る
4月1日最初のアブト式鉄道、横川・軽井沢間に開通する
4月14日出版法・版権法公布
5月8日東京に弁護士会創立す
5月19日防殻令についての日朝間に交渉成立、日本に11万円の支払を決定
5月20日海軍軍令部条例公布(海軍軍令部を赤坂に置く、初代軍令部長に中牟田倉之助)
5月22日戦時大本営条例公布
6月12日陸軍中佐福島安正、単騎シベリアを横断し、ウラジオストクに無事到着する
6月20日海軍大尉郡司成忠、北地防備の目的にて、同志数十名と共に択捉島に到着
6月29日陸軍中佐福島安正、シベリア単騎横断より帰国し大歓迎を受ける
6月29日下瀬雅允、火薬発明の功により、1,200円下賜
7月1日三菱合資会社創立
7月8日閣議で陸奥外相の条約改正案を審議、交渉方針を決定しイギリスと交渉開始
7月11日御木本幸吉真珠の養殖に成功
7月13日沼津の御用邸成る
8月12日君が代、祝日大祭日の唱歌に(正式発布)
9月11日富岡製糸場を三井に払下げ
上州富岡製糸場之図
 早稲田大学図書館
9月11日東大の各分科に講座制を実施
9月24日速射砲及び無煙火薬を装備する最初の帝国軍艦「吉野」、イギリスで進水
10月1日二宮忠八、玉虫型の飛行機発明
10月1日安部井磐根ら大日本協会を結成、内地雑居反対、現行条約奨励を提唱
10月24日相馬事件の被告ら6人免訴される
10月26日「二六新報」創刊
10月31日文官任用令・文官試験規則公布
11月1日明治座開場式
11月7日日本郵船会社、神戸よりボンベイ向け航路開始を開設
渋沢敦雄筆 
油絵で見る渋沢栄一の生涯
11月20日「朝野新聞」刊行開始
11月22日実業補習学校規定設けられる
11月25日第五通常議会召集
11月27日ノーベル賞制定の発表
11月29日衆議院、星亨議長不信任動議可決。星議長辞職拒否
11月29日大倉組設立
12月1日衆議院、取引所汚職問題で、星亨議長の不信任上奏案可決
12月30日衆議院解散
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 
1894 年
  明治27年
1月24日鹿児島市大火(503戸焼失)
1月26日大阪天満紡績スト
3月1日清・英、雲南ビルマ条約
3月1日第3回臨時総選挙、硬六派の政府攻撃一段と強化
3月9日明治天皇大婚25年記念祝典(日本初の記念郵便切手が発行される)
3月28日朝鮮政客金玉均、上海で暗殺
3月29日朝鮮全羅道で暴動。のち拡大し東学党の乱に発展。朝鮮政府、清に救援を求める
4月2日ロンドンで日英通商条約改正交渉開始
5月1日朝鮮全羅南道に暴動、南鮮に拡大(東学党の乱に発展)
5月15日第6回議会開会
5月16日北村透谷自殺
5月27日山形市の大火(1200戸焼失)
5月31日衆議院、内閣弾劾上奏案可決
6月1日朝鮮東学党の乱徒、全州占領
6月2日日本、清国の朝鮮出兵に対抗し、朝鮮派兵を決定、衆議院解散を命ずる
6月3日朝鮮政府、清国に援兵を請う
6月5日大本営を参謀本部に設置
6月7日清国の葉志超、丁汝昌ら将卒1600、韓国に向かう
6月8日清国駐韓公使袁世凱、兵1500を牙山に上陸
6月9日大鳥圭介、陸戦隊を率いて仁川に上陸(清国、日本軍出兵に警告を発す)
6月9日陸軍少将大島義昌指揮の混成旅団渡韓を開始する
6月12日混成旅団の先鋒、仁川上陸
6月12日実業教育費国庫補助法公布
6月14日朝鮮公使より陸奥外相に日本軍の撤退を要求
6月16日陸奥外相、清国公使に東学党反乱共同討伐、朝鮮内政の共同改革案を提案
6月17日横浜市の大火(約1000戸焼失)
6月20日東京地方大地震(倒潰家屋90、破損約1832戸、死者24名)
6月22日清国、陸奥外相の提案拒絶(日清国交急迫、御前会議)
6月23日韓国における日清の風雲急、政府より駐韓公使大鳥圭介へ訓令を発す
6月25日高等学校令公布
6月26日駐韓公使大鳥圭介、韓国王に謁し、内政改革の必要を説き、政府の意見陳述
7月1日三菱本社、丸の内にうつる(丸の内ビル街の先蹤)
7月3日大鳥公使、朝鮮に内政改革要求
7月12日駐清英国公使、日清間の国交周旋に努むるも、清国これを容れず国交悪化する
7月14日陸軍省に恤兵部を設置する
7月16日日英通商航海条約調印
7月16日陸軍省、日清戦争で初の戦死者が出たと発表(野間田若松一等兵、戦死者第一号)
7月18日韓国政府、清国公使袁世凱の威嚇により、公使大鳥圭介の改革要求を拒絶する
7月22日韓国、再び大鳥圭介の要求拒絶
7月23日日本軍、大院君を奉じて京城の朝鮮王宮を占領(大院君を国政総裁とする)

7月23日伊東祐亨中将の連合艦隊、佐世保を進発する
7月25日豊島沖で日本艦隊、清国艦を攻撃 
7月25日東郷平八郎艦長の指揮する巡洋艦浪速がイギリス商船高陞号を撃沈する(高陞号事件)
7月28日韓国王、大鳥圭介公使に清国絶縁を聲明
7月29日混成旅団、牙山を占領
7月29日安城渡の戦で、歩兵二十一連隊ラッパ手木口小平、ラッパを吹きつつ戦死
7月29日日本軍、朝鮮の成歓を占領
8月1日清国に宣戦布告日清戦争開戦

Battle of Pyongyang by Mizuno To.jpg平壌攻撃我軍敵塁ヲ抜ク」
水野年方

8月2日開戦にともない、新聞記事の事前検閲令公布
8月7日愛国の赤誠に燃ゆる出征志願者続出(応接に遑なく、遂に義勇兵に関する詔勅下る)
8月8日義勇兵に関する詔勅下る
8月15日最初の軍事公債発行される
8月17日駐清代理公使小村寿太郎、帰朝
8月19日二宮忠八、軍用飛行機研究を建言(戦時中多忙のため顧られず)
8月20日出征軍人輸送のため工事を急ぎ、広島・宇治間の鉄道竣工開通する
8月20日日韓暫定合同条款調印
8月25日北里柴三郎ペスト菌を発見
8月26日日韓攻守同盟条約調印成る
9月1日第4回総選挙
9月1日第五師団、平壌へ前進開始
9月4日第一軍司令官山県有朋、出征
9月6日北進軍、黄州を占領
9月8日第一軍司令官山県有朋、宇品発つ
9月10日欧州に軍事視察中の陸軍少将奥保鞏、日清の役に召使され帰朝
9月13日大本営を広島に移す
9月15日平壌攻撃(原田重吉の玄武門一番乗り)
9月16日野津道貫の軍、平壌を占領
9月17日黄海会戦(司令長官伊東祐亨中将率いる連合艦隊、清国北洋艦隊主力と遭遇し、5艦を撃沈)
9月17日朝鮮平壌の戦いに赤十字社派遣される(日本赤十字社海外派遣の始め)
10月3日金鵄勲章令公布
10月3日最初の海軍大将に西郷従道が任命される
10月4日長谷川将軍の混成旅団、仁川に上陸
10月5日広島県宇品港を軍用港と定める
10月5日国内初の月刊時刻表『汽車汽船旅行案内』発売
10月17日第一軍、奉天省義州を占領
10月18日最初の臨時議会、広島に召集される(日清戦争中にて広島に大本営があった為)
10月19日皇后、繃帯6000個を下賜
10月22日山県県下の大地震(倒壊焼失家屋約5900戸、死者約850名)
10月23日日本軍鴨緑江を渡り、清国軍を追撃する
10月26日第一軍、安東県九連城を占領
10月27日日本軍、東大溝を占領
10月31日混成旅団、鳳凰城占領
11月2日東京で戦捷祝賀会(明治天皇臨御)
11月5日日本軍、大弧山を占領
11月7日日本軍、大連湾頭の各砲台を占領
11月8日連合艦隊、大連湾を占領
11月11日北里柴三郎博士、ペスト病原菌発見の功により表彰される
11月18日日本軍、岫巌を占領
11月19日日本軍、旅順口の攻撃を開始する
11月21日第二軍、連合艦隊と協力し旅順を占領(清国軍の死傷者約1000名、日本軍189名)
11月22日日米通商航海条約締結調印
11月22日清国政府、アメリカ公使を経て講和の議を提唱する
11月24日旅順占領の勝報に帝都湧き立つ
11月26日旅順口陥落を祝い、慶応義塾生がカンテラ行列
11月28日金鵄勲章令公叙賜条令公布
12月6日乃木希典少将の第一旅団、復州城占領
12月9日第一回戦勝祝賀会を東京に開催
12月12日第三師団、栃木城を占領
12月12日全国商業会議所連合会発足
12月13日第三師団、海城を占領
12月15日赤坂の海軍省を霞ヶ関に移す
12月19日缸瓦塞の激戦
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 

上海航路の勝利と日本郵船の誕生

日本が鎖国していた2世紀余りの間に英国では産業革命が起こり、世界は劇的に変化していた。
いざ開国してみると、彼我の技術力には天と地ほどの差がある。

 すでに太平洋や大西洋に定期航路を持つ外国の船会社が、いつの間にか貿易航路はおろか
日本沿岸の海上輸送ルートにまで手をのばしている状態だった。

なかでも太平洋の覇者といわれた米国のPM社(Pacific Mail Steamship)は、日本沿岸輸送を含め
た航路の完全独占を企てている。
さすがに危機感を募らせた日本政府は、民間会社を保護育成して国際競争力を付けさせ、
日本沿岸と外航から外国海運資本を排除する方針を決定した。

この時白羽の矢を立てられたのが、岩崎弥太郎の三菱商会である。
  土佐藩が設立した九十九商会にいた岩崎弥太郎は、内航事業を起こし、1873年(明治6年)
三菱商会と改称、その後本拠を大阪から東京日本橋に移し、1875年(明治8年)、
政府より日本海運を任されたことを機に、海運部門を郵便汽船三菱会社と改称した。

1880年代から急速に拡大した日本の綿紡績業は、その原料としてインド棉を輸入していました。
弥太郎が最初に政府から命じられたのが、綿花の輸入を主目的とした横浜-上海定期航路の
開設である。上海は欧米列強の東洋の拠点で、日本にとってそれは世界に通じる最重要ルート
だった。

1893年5月に来日したJ・N・タタは渋沢栄一と会談し、日印共同で同盟の寡占状態を打破
する
定期航路の開設に合意します。ここに立ちはだかったのが、
先のPM社と英国の名門船会社P&O社(Penninsula & Oriental Steam Navigation)である。
たちまち値下げ競争が起こり、三菱は満身創痍となりながらも、政府のバックアップや三菱銅山
の好況を背景にこれに打ち勝ち、米英の両社とも上海航路から撤退、日本は初の航海自主権を
手にした。

 その後、三菱の対抗会社として明治政府は共同運輸を設立。両社はすさまじい競争を演じた
が、日本海運全体の衰退を懸念して競争の停止を合意し、協議の末、両社が合併して新会社を
設立することとなった。1885年(明治18年)9月29日、日本郵船の誕生である。
 https://www.net-ir.ne.jp/ir_magazine/pioneer/vol050_9101.html
http://d.hatena.ne.jp/kosuke64/20131026/1382748017

日清戦争
1894年(明治27年)7月光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月光緒21年2月)にかけて行わ
れた主に朝鮮半島李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国大清国の戦争である。

翌年4月17日(翌年3月23日)、下関日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から
領土(遼東半島・台湾澎湖列島)と多額の賠償金などを得ることになった。
しかし23日(29日)、ロシアフランスドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、
その後、日本は三国の要求を受け入れた(三国干渉)。
なお、5月末(5月始め)から日本軍が割譲された台湾に上陸し、11月18日10月2日)付けで
大本営に全島平定が報告された(台湾鎮定)。

a.wikipedia.org/wiki/日清戦争













歴史認識を考えてみる(8)

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日清戦争後の世界 明治28年~

大韓帝国の登場

http://meiji.sakanouenokumo.jp/1895.html
1895年(明治28年)http://www12.plala.or.jp/rekisi/simonoseki.html
 下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認めること。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)

2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)

3:台湾を日本に譲り渡す。
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)


4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)


5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)

6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)



1月8日首相伊藤博文、衆議院において戦時の挙国一致を議決する
1月21日第二軍、栄城湾頭上陸
1月23日清国講和使、香港を発ち日本に向う
1月27日韓国王、齋藤仁、尾武久らの我顧問官に諸政の改革を託す
1月30日連合艦隊、威海衛の総攻撃を開始し、南岸の各砲台を陥す
2月1日京都に電車運転始まる(日本で最初の市電)
2月2日日本軍、威海衛軍港陸岸を占領
2月5日魚形水雷初めて実戦に用いられ、威海衛の清国艦定遠を撃沈する
2月12日清国北洋艦隊提督丁汝昌、伊東司令長官に降り部下の助命を請う(丁汝昌自身は自殺)
2月17日連合艦隊司令官伊東祐亨、威海衛に入港し清国の降伏規約書受領
2月18日明治天皇、戦捷嘉尚の勅語を賜う
2月22日中馬庚、baseballを野球と訳す
2月25日日本軍第二軍、太平山占領
3月2日日本軍第一軍、鞍山站を占領
3月3日正岡子規、日清戦争従軍記者として東京を出発する
3月3日連合艦隊司令長官伊東祐亨、宇品に凱旋
3月4日連合艦隊司令長官伊東祐亨、大本営に登営し戦況上奏
3月5日日本軍、牛荘城を占領
3月6日日本軍第一師団、営口を占領
3月9日日本軍、清国軍最後の拠点である田庄台を占領
3月11日フランス法学者ボアソナード、20数年間法学界に貢献、この日神戸を発ち帰国
3月15日日平安遷都千百年を記念し、平安神宮創建
3月19日清国講和全権弁理大臣李鴻章、門司着
3月20日下関で日清講和会談開始
3月21日昭憲皇太后、広島予備病院行啓
3月23日日本軍、台湾澎湖島を占領
3月24日日本軍、台湾裏正角湾上陸
3月24日李鴻章、講和会談の帰途に狙撃され負傷
3月30日日清休戦条約調印(全権弁理大臣陸奥宗光と清国の李經芳の間に調印成る)
4月1日第四回内国勧業博覧会。黒田清輝の作品「朝妝」出品の可否問題化する
4月1日帝国大学に史料編纂掛を置く
4月3日植樹祭開始
4月10日李鴻章、傷癒え再び談判開始
4月17日日清講和条約に調印(全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章)
永地秀太筆 下関春帆楼1895年(明治28年)4月17日
4月21日日清戦争の平和回復詔勅下る
4月23日三国干渉(日清講和条約に対し、独・仏・露、遼東半島を清国に返還勧告)
4月24日広島の大本営において遼東半島還付三国干渉に対する御前会議開かれる
4月27日大本営、京都に移駐
4月29日奈良帝室博物館開館(現在の奈良国立博物館)
5月4日露・仏・独の三国干渉の結果、遼東半島を清国へ返還する重大閣議決定
(閔妃、親露政策へ)「三国干渉」の画像検索結果
5月8日日清講和条約批准交換
5月10日遼東還付の詔勅発布
5月25日台湾で反乱、台湾民主国建国宣言
5月28日第一軍司令官野津道貫、京都に凱旋し、直ちに大本営に入り復命す
5月29日大本営、東京に凱旋
5月30日北白川宮、台湾征討に上陸
5月31日野津道貫、大山巌両司令官、東京へ凱旋
6月2日越後新発田の大火(約2000戸焼失)
6月3日台湾及び澎湖島、日清間に正式に授受を了し、日本領土となる
6月7日日本軍、台北を占領
6月8日日露通商航海条約調印
6月8日吾妻山の爆発調査出張の内務省技手ら、再爆発のため遭難犠牲となる
6月11日台湾鎮定
石川寅治 筆 台北城北門
6月14日台湾事務局を設置(初代台湾総督に樺山資紀を任命、台北府に入る)
6月17日台湾総督府開庁(毎年この日を台湾始政記念日とする)
6月20日雲南に関する清仏条約
6月22日日本軍、新竹を占領
6月25日第三師団長桂太郎、名古屋に凱旋
6月28日新政党同志会の組織成る
7月6日李氏朝鮮王妃閔妃ら、クーデターにより親日派を追放し、親露派を登用
7月9日第五師団長奥保鞏凱旋する
7月16日日本軍、大姑陥へ進撃占領
8月6日台湾総督府条例公布(台湾に軍政実施)
8月28日台湾征討軍、彰化を占領
9月4日救世軍、初めて布教のため入国(ライト大佐一行横浜着)
9月18日住友銀行設立
9月22日救世軍、最初の布教伝道(東京神田美土代町の日本支部において)
10月1日野中夫妻、富士山頂で気象観測を開始
10月8日朝鮮に京城事変起こり、公使三浦梧郎、兵を率いて騒乱を鎮撫
10月8日日本軍、壮士、朝鮮王妃・閔妃を殺害乙末の変
10月10日農商務省の第一回馬匹調査会
10月16日第二師団、鳳山城を占領
10月16日台湾征討軍、台南の打狗を占領
10月21日日本軍、台南を無血占領
10月22日近衛師団長能久王、台南入城
10月22日正岡子規、『俳諧大要』を新聞「日本」に連載(12月31日まで掲載、1899年1月刊)
10月27日孫文挙兵、失敗(広州事件)
10月31日日清戦争第一回賠償金5千万両受領
10月31日帝国京都博物館完成
11月2日小村寿太郎公使、韓国王に国書捧呈
11月6日台湾平定し、征討軍に凱旋を命ず
11月8日遼東半島還付条約に調印
11月11日北白川宮能久親王の国葬
11月15日「東洋経済新報」創刊
11月16日清国より遼東半島還付償金受領
11月22日自由党、伊藤内閣との提携宣言書発表
11月30日日本郵船、欧州定期航路開設
12月3日遼東半島還付条約公布される
12月3日上海紡績会社設立
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 

清水良雄 筆  靖国神社行幸 1895年(明治28年)12月17日


1月2日台湾土匪蜂起しれ乱をなす
1月6日台湾土匪征討混成第七師団出発
2月11日朝鮮で親露派クーデター(ロシア公使、朝鮮国王と世子をロシア公使館に移す)
2月23日活動写真(エジソン式)、大阪新町婦徳会場にて初めて公開
2月29日日本銀行が竣工
3月1日立憲改進党、立憲革新党などが合同し、進歩党を結成
3月15日最初の欧州直航船出帆(日本郵船会社の汽船土佐丸)
3月24日造船奨励法、航海奨励法公布
3月26日航海奨励法・造船奨励法公布
3月29日製鉄所官制公布
3月29日朝鮮政府、米人モールスと京釜鉄道敷設約定に調印、日本抗議
3月31日台湾総督府条例公布
4月1日名和昆虫研究所、岐阜に開設(現在の名和昆虫博物館)
4月2日社会政策学会創立
4月3日最初の侍従武官長に、陸軍中将・男爵岡沢精が任命される
4月6日アテネで第1回オリンピック開催
4月11日拓務省開庁(初代拓務大臣に高島鞆之助が任命される)
4月13日越前勝山町の大火(1200戸焼失)
4月14日自由党総理板垣退助内相に就任
4月19日乃木希典第二師団長、東京に凱旋
4月20日日本勧業銀行法・農工銀行法・銀行合併法公布
4月27日エジソン発明の活動写真(ヴァイタスコープ)、ニューヨークにて初めて公開される
5月14日京城で日露協定成立(小村・ウェーバー覚書)
5月23日一高野球チーム、横浜の外人チームと試合を行い大勝する
6月2日東洋汽船株式会社設立
6月2日陸軍中将桂太郎、台湾総督に任命
6月3日ロシア、清間において対日密約が成立(李鴻章・ロバノフ密約)
6月9日朝鮮問題で山県・ロバノフ協定調印(日露協商条約調印)
6月15日午後8時半、三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月6日神戸に生糸取引所を設置
7月7日富山県下の大水害(流失3000戸)
7月16日台湾内地間電信開通(但し始めは専ら軍用、同年9月1日より一般に開業
7月16日佐渡、生野両鉱山払い下げとなる
7月21日山陽鉄道会社はじめて通学定期を発行
7月21日日清通商航海条約調印
8月4日日仏通商航海条約調印
8月5日日本郵船会社の日米間定期第一船たる「三池丸」、神戸出帆アメリカに向う
8月10日郡是製糸設立
8月26日函館の大火(約2220戸焼失)
8月28日伊藤首相、閣内不統一により辞表提出
8月30日関西各地に大暴風雨、被害甚大
8月31日東北地方大地震(死者200名)
9月1日初めて急行列車運転される
9月8日オランダと通商航海条約調印
9月16日佐渡・生野鉱山、三菱に払下げ
9月18日松方正義、首相兼蔵相に就任(第二次松方内閣成立)
9月30日露清カシニー密約
10月3日郵便会社汽船、オーストラリア航路を開く
10月14日台湾総督に陸軍中将乃木希典を任命
10月15日川崎造船所設立
10月19日第一回農商工高等会議開催
11月8日「古事類苑」刊行開始
11月9日台湾総督乃木希典、台北に到着
11月10日歌舞伎座、初興行
11月11日岩崎弥之助、第四代日銀総裁に任命
11月14日「二十六世紀」事件(雑誌「二十六世紀」土方宮内大臣の行状を攻撃して発行禁止)
11月15日豊田佐吉、自動織機を発明する
11月18日宮中に騎兵連隊軍旗授与式
11月23日天才女流作家樋口一葉、死す
12月1日初めて映画の一般公開
12月20日大日本教育会を帝国議会と改称(会長に近衛篤麿を推す)
12月22日第十通常議会召集
12月30日フィリピン第一次革命の中でホセ・リサール銃殺
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 
黒田清隆 (明治29年8月31日~明治29年9月18日) *臨時兼務
松方正義 (明治29年9月18日~明治31年1月12日)




































明治28年~清が破れた後の世界

大韓帝国の登場


帝国主義時代に行われた日清戦争は、清の威信失墜など東アジア情勢を激変させただけでなく、日清の両交戦国と戦争を誘発した朝鮮の三国にも大きな影響を与えた。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで「国民国家」に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍した[* 4]。また戦後、藩閥政府民党側の一部とが提携する中、積極的な国家運営に転換(財政と公共投資が膨張)するとともに、懸案であった各種政策の多くが実行され、産業政策や金融制度や税制体系など以後の政策制度の原型が作られることとなる[3]。さらに、清の賠償金などを元に拡張した軍備で、日露戦争を迎えることとなる。
対照的に敗戦国の清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款関税収入を担保にする等)を受け、また要衝のいくつかを租借地にされて失った。
その後、義和団の乱で半植民地化が進み、滅亡(辛亥革命)に向かうこととなる。

下関条約により、清の「冊封」下から脱した朝鮮では、日本の影響力が強まる中で甲午改革が行われるものの、
三国干渉に屈した日本の政治的・軍事的な存在感の低下や親露派のクーデター等によって改革が失速した。
1897年(明治30年、光緒23年)、朝鮮半島から日本が政治的に後退し(上記の開戦原因からみて戦勝国の日本も清と同じく挫折)、満洲にロシアが軍事的進出をしていない状況の下、大韓帝国が成立することになる。


1884年
(明治17
年)

1月4日官吏の恩給令公布
1月9日大阪市東区の大火(1440戸焼失)
1月23日近衛兵に軍旗を授与する
2月15日朝鮮に初めて電信取扱開始(日本の経営にて内地釜山局間に限られる)
2月16日陸軍卿大山巌、川上操六・桂太郎両大佐を従え、欧州兵制視察のため横浜出発
2月17日梅ケ谷藤太郎横綱となる
3月10日芝浜離宮の延陵館に天覧相撲催され初代梅ケ谷に横綱を許される
3月15日地租条約制定(税率の固定、法定地価の決定)
3月17日憲法制定取調局設置され、参議伊藤博文が長官を兼ねる
4月2日明治天皇・皇后、隅田川に海軍兵のボート競漕を観覧
4月7日山本長五郎(清水次郎長)、賭博で懲役7年、罰金400円に処せられる
5月1日大阪商船会社創立開業する
5月7日区町村会法改正、戸長官選となる
5月12日フランスの化学者シャルドネにより人造絹糸発明され学会に発表報告
5月13日群馬事件起こる
5月17日東京帝国大学に造船科新設される
5月24日学習院、初代院長に谷干城を任命
5月27日蒸気起重機を初めて横浜停車場の荷揚場に建設し、運輸に便ならしめる
6月1日天気予報を巡査交番所に掲示開始
6月7日商標に関する条例制定
6月12日鹿鳴館で日本初のバザー
6月16日全国天気予報開始
6月25日日本薬局方制定公布される
6月26日陸地測量事業、参謀本部に管轄統一される
7月7日華族令定める(爵位公・侯・伯・子・男の五位の制成る)
7月21日横須賀造船所の開渠式
7月26日ハワイホノルルに領事館設置
7月28日京都二条城を離宮と定めらる
8月10日自由党有一館設立される
8月10日武州御殿峠に困民党蜂起
9月5日宇品港(広島港)の築港着手
9月23日茨城県下自由党の加波山事件起こる
10月10日相州観音崎の砲台成る
10月13日グリニッジの世界標準時定める
10月17日学生ボート競漕、隅田川吾妻橋付近に催される(最初のボートレース)
10月18日巡洋艦「畝傍」フランスより回航の途につく(12月3日にシンガポールを発ったのち消息不明)
10月29日自由党解党
10月31日秩父事件起こる(国民党が一斉に蜂起)
11月1日明治天皇、不忍池畔競馬場臨幸



11月6日内村鑑三、離婚を機に渡米する
12月4日甲申事変(ソウルで金玉均、朴泳孝ら親日派によるクーデターが起こる)
12月4日飯田事件(名古屋鎮台・監獄襲撃の計画)発覚する
12月6日京城にて竹添公使の守兵、清国袁世凱の兵2,000と王宮の内外に衝突
12月15日横須賀に鎮守府開設布告
12月17日大隈重信ら改進党を脱党、 名古屋事件(政府転覆の計画)発覚する
12月24日外務卿井上馨を朝鮮に遣して談判


1885年(明治18年)
1月1日往復はがき、初めて発行される
1月7日特命全権大使井上馨、韓国全権大臣金宏集と談判、我要求五事を約す
1月17日羅馬字会創立、第一回例会を開催
1月25日千葉医学校開校(現在の千葉大学)
1月25日大山巌、欧州の兵制視察を終え帰朝
1月27日ハワイ第1回移民(927人出発)
2月7日政商、岩崎弥太郎死去
2月24日伊藤博文、特派全権大使として清国へ差遣(西郷従道、井上馨これに従う)
3月1日赤羽・品川間の鉄道開通(官私営鉄道の最初)
3月9日初めて電話機・電燈が輸入される(エジソンが電話機と白熱電燈26個を工部大学に寄贈)
3月17日全権大使伊藤博文、西郷従道、天津にて李鴻章と会見(天津条約の談判)
3月18日プロシア参謀少佐メッケル、陸軍大学校雇教師となる
4月3日特派全権大使伊藤博文、西郷従道ら、天津において李鴻章全権と談判開始
4月6日府県に小作慣行調査を命令
4月18日朝鮮問題に関し、全権伊藤博文は清国代表李鴻章と天津条約調印
5月8日九州改進党解党
5月9日日本銀行、初めて兌換銀行券を発行する
5月15日イギリス海軍、朝鮮の巨文島を占領する
5月18日監軍部条例(東部、中部、西部とする)、鎮台条例を改正する
5月20日各鎮台の歩兵連隊を旅団に編成
5月30日大蔵省に初めて預金局を設置(国家経済の運用と利殖を計る)
5月31日富山市の大火(ほとんど全滅)
6月2日京都にて琵琶湖疎水起工式
7月1日特許法実施(第1号特許は堀田瑞松届けの錆止め塗料)
7月2日関西地方に豪雨続き大洪水(とくに大阪市内の橋梁悉く流失し、死傷者多数)
7月17日海底電信万国条約に加盟する
7月26日明治天皇、山陽巡幸御発輦
9月17日日本郵船創立
9月24日違警罪即決例制定
10月1日東京瓦斯、日本郵船両社創立
10月16日上野駅開業
11月13日華族女学校開校式(皇后宮行賓)
華族女学校行啓
11月14日最初の坑業組合となる九州の筑豊石炭坑業組合成立
11月18日明治天皇、日比谷操練場に御閲覧
11月23日大阪事件 (自由党士大井憲太郎ら、清国に対する韓国の独立を謀り、事発覚して大阪に捕えられる )
11月24日東京に基督(キリスト)教信徒大会開催
12月12日大阪・堺間の鉄道開通する
12月22日太政大臣、左右大臣、参議の制を廃し、新たに内閣各省を置き、官制改革が行われる
12月22日最初の組閣、第一次伊藤内閣成立し初代総理大臣に伊藤博文(宮相兼務)
12月22日宮中に内大臣をおく(三条実美)
12月23日初代法制局長官山尾庸三を任命
12月28日内閣に統計局を設置
12月29日大阪・堺間の鉄道開通開業

1886年(明治19年)
1月1日正貨兌換を開始する(銀本位制)
1月1日鉄道定期乗車券、初めて発行される
1月9日修史館を廃し、内閣に臨時修史局を設置
1月26日北海道の3県を廃止し北海道庁開設(長官は岩村通俊)
1月28日鎮台を廃して師団とする
1月28日ハワイと渡航条約調印
2月27日各省官制通則を公布、職種・指揮命令系統を定める
2月28日六鎮台を廃し師団とする(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)
3月1日帝国大学創立記念日(帝国大学令制定にともなって記念日と定める、公布は翌日2日)
3月2日帝国大学令公布
3月3日各省に次官を置く
3月9日初代東京府知事(兼東京市長)に議官高崎五六を任命する
3月18日名古屋に株式取引所設立
4月1日メートル条約に加盟
4月4日東洋絵画共進会開催(於上野公園)
4月9日東京高等師範学校開設
4月10日師範学校令・小学校令・中学校令を公布する
4月29日商船学校、高等師範学校などの管制交付
5月1日外務大臣井上馨、各国公使と第一回条約改正会議を外務省にて開く
5月2日国産鉛筆工場初めて東京四谷に設置(佐賀県人真崎仁六により起業)
5月10日教科書検定条例制定
5月20日東京浅草公園、開園祝賀会
5月30日秋田市の大火(約3400戸焼失)
6月3日自由党員の箱根離宮竣工式襲撃の陰謀発覚(静岡事件)
6月25日日本薬局方制定公布
7月12日東経135度の子午線時を本邦一般の標準時と定める
7月24日監軍本部廃止
7月24日東京築地の海軍兵学校、広島県江田島に移る(開校は8月1日)
7月26日朝鮮独立運動の志士金玉均、日本に遊説中神奈川県において拘留の難に遭う
7月31日箱根塔ノ島の離宮成る
8月13日長崎上陸の清国水兵暴虐事件起こる
8月13日登記法公布
10月16日宝塚温泉落成式
10月18日軍艦「畝傍」、回航の途につく
日清戦争前の海軍増強計画でフランスに発注されました。
ル・アーブル造船所にて完成した畝傍艦は、
フランス人艦長によって日本に回航される途中、
1886年12月3日、シンガポール港を出た後に行方不明になりました。
日本政府は保険金でイギリスに代艦を発注します。(千代田艦)
10月24日ノルマントン号事件(英国汽船ノルマントン号、紀州沖の暗礁に沈没、日本乗客のみ溺死し問題起る)
10月24日星亨・中江兆民ら全国有志大懇親会を開催
10月26日薩摩、大隈に多数隕石落下
11月16日赤十字条約へ加入の件公布
11月17日東京の博愛社病院(後の日本赤十字病院)開院式あり(皇后宮行啓)

有栖川宮熾仁親王から博愛社設立の許可を受ける佐野常民
12月6日矢島揖子ら婦人矯風会設立
12月11日西村茂樹、日本道徳論を構ず
12月13日神奈川県三浦郡三崎に最初の臨海実験所開設される

































根本的な歴史歪曲と南大門に見る歴史の爪あと

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根本的な歴史認識の違いが、日本と韓国の間にあるようです。
下の画像を見るとなぜ韓国人が日本人を馬鹿にしながら怒り続けるのかわかります。
まずは韓国の歴史教科書にみる古代の地図。



イメージ 1

オレンジの部分が高麗と新羅と百済の領土だそうです。唐や宋を凌ぐ大帝国。
右端の小さい島(日本)もかつては朝鮮の領土だったようです。
日本から抗議を受けることを想定してか、北海道は豆粒にして日本と判別しにくくなっています。

さらに。。
http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/cyousenrekishi.html


↓以下は、韓国の歴史観による絵と模型
5000年の偉大な歴史と文明を持ち大帝国を築いたとされる


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まるで古代中国の都のようです。
現実の過去の写真を見たら韓国の子供達はショックを受けがっかりすることでしょう。
もし本当にこの素晴らしい自分の国を侵略されたのなら私だって怒ります。

では、事実がどうであったのか、朝鮮人の方々にとって見たくない過去かもしれませんが。。
南大門の歴史
1392年李氏朝鮮を建て漢城に遷都した太祖・李成桂は、1395年に都の城門の建設に着手し、1398年に完成。南側の主要な門である崇礼門は、俗に南大門と呼称された[2]
世宗治世の1448年、および成宗治世の1479年に大きく改築され、冠岳山の火気を遮るようにと二階建てになった。讓寧大君が書いたとされる懸板は、火気を遮るために縦に書かれた。
その後、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)や丙子胡乱など幾多の戦乱を経るも、長い間、都の正門としての役割を果たしてきた。

大韓帝国時代の1907年日本皇太子嘉仁親王の行啓を機とする街路整備のため両側に続いていた城壁が撤去され、門だけが道路に孤立する形で残された。門の前に開業した京城駅(現在のソウル駅)は1905年から1922年の間「南大門駅」と呼ばれた。

日本統治時代(1910年 - 1945年) 、1925年から1926年にかけて門を挟むように、南に京城駅のレンガ駅舎、北に京城府庁舎(現在のソウル広場に建つソウル市庁舎)が建てられた。
1934年朝鮮総督府が、朝鮮の主要文化財を保護する目的で宝物第1号に指定した。

1948年大韓民国建国後、朝鮮戦争ではソウルの大部分が破壊されたが、崇礼門は一部の損傷にとどまり焼失を免れた。
1962年に破損した部分の大規模な解体、改修工事が行われた後、同年12月20日に改めて同国の「国宝第1号」に指定された。
2006年まで門の立ち入りは禁止された。
2005年5月、門の南側に芝生の広場が造成されたのに伴って門間近までの観光客の訪問が可能となり、
2006年3月3日からは門をくぐることもできるようになった。
2008年2月の放火によって石造の城門を除いた大部分が焼失した。

日本統治前の朝鮮

李氏朝鮮 首都漢城(現在のソウル)
http://gofar.skr.jp/obo/archives/8140
1895年 南大門 http://www.geocities.jp/dinetomi76/0003.jpg
kyojo1897.jpg
1888年 南大門大通り http://plaza.rakuten.co.jp/img/user/27/01/13702701/4.jpg
4

東大門通り http://www.geocities.jp/dinetomi76/keijo54.jpg
keijo54

全景 http://www.geocities.jp/hiromiyuki1002/60zenkei.jpg
60zenkei

教科書のような瓦葺屋根の家はほぼ皆無です。

大韓帝国時代
日清戦争の後の下関条約により清の冊封から解放された朝鮮は近代国家への一歩を踏み出しました。
1910年の南大門 http://plaza.rakuten.co.jp/kanteishoku800/diary/20080621/
kyojo1910.jpg

日本統治時代の朝鮮
ロシアに傾く閔妃の統治に国防上の危機感を持った日本は朝鮮併合に乗り出しました。
イメージ 2

韓国の安東地方に建設された図書館の利用者記録を御覧ください。朝鮮人・支那人とも多くの人が閲覧しています。公平な統治が行われていたという一つの証拠です。http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983250/10?viewMode=

1. 韓国人(スレ主)http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26941311.html
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翻訳1:おじいさんは笑いながら「日帝時代は朝鮮王朝が統治した時よりはるかに幸せだった」と言いました。その例としてまず、医療技術が発達し人々が病気の苦痛から開放され長生きすることができるようになったこと、さらに教育の機会が与えられ、多くの人たちが勉強できるようになったことなど....

翻訳2:韓国人強制徴用については知られていることと違うと言いました。善良な人を強制的に徴用したのではく、死刑囚や犯罪者などを徴用していたのです…

翻訳3:慰安婦問題については正確には知らないとし…

翻訳4:親日派と売国奴は別物だとし、親日が悪いことではないと言いました。当時、韓国民族が生きる最良の道は、現実問題としての自分の立ち位置をよく認識し、日本人から先進文物を学び自分のものにするというものでした。また社会のほとんどが親日であり、現在の​​TVが示すような、大多数の人が独立万歳をしていなかったと言います…

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翻訳5:教科書を見れば、老人たちにとって日帝時代は地獄であり日本は悪魔だとしています。しかし、老人ホームのようなところに行って奉仕活動をしながら尋ねると、意外にも日帝時代に対する感情がないということに驚きます。

翻訳6:朝鮮時代末期には平均寿命が30歳を超えていなかったとしています…

翻訳7:平均寿命と人口が約2倍に増えたという客観的な統計が存在し、飢えて死ぬ人々の数が目に見えて減りました。以前には娯楽すら知らなかった人たちは、少しふんぱつをすれば豪華な洋館でコーヒーを飲むことができたました。文学などの芸術もこの時から発達しています....


▼ソウルの街並み|電線と街灯が 完備されている
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▼平壌を走る路面電車 空には飛行機が
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▼近代化された朝鮮の建物|1937年にソウルにできたデパート
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▼1936 年の南大門通り|左が商業銀行、電車は複線である
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▼日帝時代のソウルの中心部|東京銀座と比較しても遜色がないほど活気あふれる
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▼京城駅
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▼ソウル朝鮮銀行
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▼南大門通行路
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▼賑やかな平壌市内の路面電車
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▼平壌の橋
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▼平壌の夜景
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▼新興工業都市興南の様子
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▼世界最大の水力発電所、水豊ダム|当時の出力は世界二位
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▼スキーを楽しむ朝鮮人たちの姿|植民地の被支配民がこのよ​​うに生活をすることができた国は史上類がない
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▼運動会というものも、この時初めてできた
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▼1940 年、朝鮮ホテル
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日帝時代は大多数の朝鮮人が親日派であった…いや、親日派という言葉すら成立しないかもしれない。当時、絶対多数の朝鮮人は日本人として幸せに暮らしていたからだ。現在、韓国の教科書が教えるのは捏造、歪曲、操作であり、独立運動の朝鮮人は、全体の1%にもならなかった。絶対多数99%の朝鮮人は親日派であったのだ。

ちなみに、第二次世界大戦当時、大東亜戦争に進んで参加した朝鮮人兵士はなんと22万人を超えた。簡単に言えば…
朝鮮人日本軍数>>>>>超えられない壁>>>>>自称独立(?)軍数

平均寿命は24歳の地獄と言われていた朝鮮の平均寿命を倍以上に増やし、このように住みやすい国、人間らしく生きられる国を作った日本。偽りと捏造の歴史でいつまでも被害者のコスプレを身にまとい、恩を仇で返すのが朝鮮人なのである。
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26941311.html



南大門
(崇礼門)現在の姿

夜間にライトアップされる焼失前の崇礼門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A4%BC%E9%96%80


2008年、放火により消失した南大門 
犯人は都市再開発事業による家の立ち退きの件で補償額が少ないことに不満だった。





復元された現在の南大門 http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/40767979.html
01400





以下、東亜日報の記事より
http://japanese.donga.com/srv/service.php3?biid=2005031793688
国際
消え去った「韓国神社」 今も続く歴史歪曲
MARCH 16, 2005 22:25
음성듣기
 
日本による歴史の捻じ曲げは現在も続いている。消え去った「韓国神社」の跡地に立った瞬間、そう感じたものだ。
島根県県庁所在地である松江から列車で1時間の距離。出雲市海岸に日御碕神社がある。伝説上の日本の開祖、天照の弟である素盞鳴尊が韓半島から渡り、ここに定着したというのが神社の由来である。韓国神社はこの神社の境内にあった。しかし、今はなくなっている。
1970年代初め、この地を訪れた在日同胞作家、金達寿(キム・ダルス)氏(1919~1997)は『日本列島に流れる韓国魂』という著書の中で次のように書いている。
「ここにも韓国神社があったのか。(中略)日御碕神社とは元は韓国神社だったのではないか。本来は本寺だったのが没落し、境内寺(境内にその神社とゆかりの深い神を祀った末寺)になった例は多い。ここは特にその可能性が大きい。日御碕神社は新羅と同じく太陽神を祀るところだったためだ」。
島根県には、新羅だけでなく、渤海、高麗との活発な交流の歴史を裏付ける痕跡が散在している。古代韓半島を意味する「韓」の字の入った神社だけでも、韓島神社、韓紙新羅神社、韓国伊太氏神社など11社にのぼる。しかし、古代日本の源流が韓半島であることを物語っていた韓国神社は、金氏が目撃した通り、本寺から末寺に転落し、その後、末寺としての形跡も跡形もなく消えてしまった。このような経緯を案じた在日同胞の金好秀(キム・ホス)氏が1996年に近くの境内に復元したという名前だけの神社は、あまりにも小さくみすぼらしい余り、「韓国神社」と漢字で書かれた額字さえはっきり見えなかった。この頃、日本で行われている歴史の捻じ曲げは別に目新しいことではない。消え去った「韓国神社」もやはり持続的に行われてきた日本の歴史歪曲の一例に過ぎない。神社関係者の率直な証言さえ、いつまで聞けるか分からないのだ。


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神社は氏子、寺は檀家で成り立っているので、寄進するひとがいなくなれば廃れます。そのまま放置すると祟り神となるので、合祀したりお祓いをして廃絶されることもあります。
それを歴史歪曲と捉えるということは、大韓帝国をめちゃくちゃにされたという反日バイアスがかかっているのだと思われます。


とりあえず、歴史は正しく。韓国・中国と共同教科書の執筆を提案するのが
「歴史認識」問題の最終解決策かもしれません。(=^・^=)

歴史認識を考えてみる(8)

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日清戦争前後の世界 

三国干渉、遼東半島の返還、台湾統治、大韓帝国の登場、スパイの暗躍へ

ロシア1891年シベリア鉄道建設などで中国進出を開始し、ロシア南下は日本にとって脅威となった[17]。イギリスもロシアの南下を警戒する[17](のち日英同盟締結[22])。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した[17]
1894年、韓国は東学党の乱の鎮圧に失敗し、清と日本に救援を求めた[17]
日本は清に韓国の共同統治を申し出るが、清が拒絶し、日清戦争が勃発した[17]
日本は完勝し、下関講和条約では遼東半島台湾を割譲した[18]
清の敗北は洋務運動の失敗を意味し、以降、変法運動、革命運動が展開した[21]康有為らは明治維新をモデルとして立憲君主制に基づく改革を求める上奏を行う[21]1890年代孫文らは共和制革命を唱え、日本、アメリカなどで活動した[23]
日清戦争での遼東半島割譲に対してロシア、フランス、ドイツが放棄を要求する三国干渉が起こり、日本は3000万両での還付をもって放棄した[18]
清の弱体をみた列強は中国への進出をすすめ、1898年にドイツが山東半島の膠州湾、ロシアは遼東半島の旅順・大連、イギリスは九龍半島・威海衛、フランスは広州湾を租借した(中国分割)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89#.E9.81.A0.E5.9B.A0.E3.83.BB.E8.83.8C.E6.99.AF
明治28年~大韓帝国成立まで
http://meiji.sakanouenokumo.jp/1895.html
1895年(明治28年)http://www12.plala.or.jp/rekisi/simonoseki.html
 下関条約の内容
1:朝鮮の独立を認めること。
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言します)

2:遼東半島(りょうとうはんとう)を日本に譲り渡す。
(中国と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地です)

3:台湾を日本に譲り渡す。
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得しました。)


4:澎湖諸島(ほうこしょとう)を日本に譲り渡す。
(これは台湾と中国本土の間の島々。)


5:賠償金2億両を日本に支払う。
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算のなんと2倍以上のお金です)

6:日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)



1月8日首相伊藤博文、衆議院において戦時の挙国一致を議決する
1月21日第二軍、栄城湾頭上陸
1月23日清国講和使、香港を発ち日本に向う
1月27日韓国王、齋藤仁、尾武久らの我顧問官に諸政の改革を託す
1月30日連合艦隊、威海衛の総攻撃を開始し、南岸の各砲台を陥す
2月1日京都に電車運転始まる(日本で最初の市電)
2月2日日本軍、威海衛軍港陸岸を占領
2月5日魚形水雷初めて実戦に用いられ、威海衛の清国艦定遠を撃沈する
2月12日清国北洋艦隊提督丁汝昌、伊東司令長官に降り部下の助命を請う(丁汝昌自身は自殺)
2月17日連合艦隊司令官伊東祐亨、威海衛に入港し清国の降伏規約書受領
2月18日明治天皇、戦捷嘉尚の勅語を賜う
2月22日中馬庚、baseballを野球と訳す
2月25日日本軍第二軍、太平山占領
3月2日日本軍第一軍、鞍山站を占領
3月3日正岡子規、日清戦争従軍記者として東京を出発する
3月3日連合艦隊司令長官伊東祐亨、宇品に凱旋
3月4日連合艦隊司令長官伊東祐亨、大本営に登営し戦況上奏
3月5日日本軍、牛荘城を占領
3月6日日本軍第一師団、営口を占領
3月9日日本軍、清国軍最後の拠点である田庄台を占領
3月11日フランス法学者ボアソナード、20数年間法学界に貢献、この日神戸を発ち帰国
3月15日日平安遷都千百年を記念し、平安神宮創建
3月19日清国講和全権弁理大臣李鴻章、門司着
3月20日下関で日清講和会談開始
3月21日昭憲皇太后、広島予備病院行啓
3月23日日本軍、台湾澎湖島を占領
3月24日日本軍、台湾裏正角湾上陸
3月24日李鴻章、講和会談の帰途に狙撃され負傷
3月30日日清休戦条約調印(全権弁理大臣陸奥宗光と清国の李經芳の間に調印成る)
4月1日第四回内国勧業博覧会。黒田清輝の作品「朝妝」出品の可否問題化する
4月1日帝国大学に史料編纂掛を置く
4月3日植樹祭開始
4月10日李鴻章、傷癒え再び談判開始
4月17日日清講和条約に調印(全権伊藤博文、陸奥宗光、清国全権李鴻章)
永地秀太筆 下関春帆楼1895年(明治28年)4月17日
4月21日日清戦争の平和回復詔勅下る
4月23日三国干渉(日清講和条約に対し、独・仏・露、遼東半島を清国に返還勧告)
4月24日広島の大本営において遼東半島還付三国干渉に対する御前会議開かれる
4月27日大本営、京都に移駐
4月29日奈良帝室博物館開館(現在の奈良国立博物館)
5月4日露・仏・独の三国干渉の結果、遼東半島を清国へ返還する重大閣議決定
(閔妃、親露政策へ)「三国干渉」の画像検索結果
5月8日日清講和条約批准交換
5月10日遼東還付の詔勅発布
5月25日台湾で反乱、台湾民主国建国宣言
5月28日第一軍司令官野津道貫、京都に凱旋し、直ちに大本営に入り復命す
5月29日大本営、東京に凱旋
5月30日北白川宮、台湾征討に上陸
5月31日野津道貫、大山巌両司令官、東京へ凱旋
6月2日越後新発田の大火(約2000戸焼失)
6月3日台湾及び澎湖島、日清間に正式に授受を了し、日本領土となる
6月7日日本軍、台北を占領
6月8日日露通商航海条約調印
6月8日吾妻山の爆発調査出張の内務省技手ら、再爆発のため遭難犠牲となる
6月11日台湾鎮定
石川寅治 筆 台北城北門
6月14日台湾事務局を設置(初代台湾総督に樺山資紀を任命、台北府に入る)
6月17日台湾総督府開庁(毎年この日を台湾始政記念日とする)
6月20日雲南に関する清仏条約
6月22日日本軍、新竹を占領
6月25日第三師団長桂太郎、名古屋に凱旋
6月28日新政党同志会の組織成る
7月6日李氏朝鮮王妃閔妃ら、クーデターにより親日派を追放し、親露派を登用
7月9日第五師団長奥保鞏凱旋する
7月16日日本軍、大姑陥へ進撃占領
8月6日台湾総督府条例公布(台湾に軍政実施)
8月28日台湾征討軍、彰化を占領
9月4日救世軍、初めて布教のため入国(ライト大佐一行横浜着)
9月18日住友銀行設立
9月22日救世軍、最初の布教伝道(東京神田美土代町の日本支部において)
10月1日野中夫妻、富士山頂で気象観測を開始
10月8日朝鮮に京城事変起こり、公使三浦梧郎、兵を率いて騒乱を鎮撫
10月8日日本軍、壮士、朝鮮王妃・閔妃を殺害乙末の変
10月10日農商務省の第一回馬匹調査会
10月16日第二師団、鳳山城を占領
10月16日台湾征討軍、台南の打狗を占領
10月21日日本軍、台南を無血占領
10月22日近衛師団長能久王、台南入城
10月22日正岡子規、『俳諧大要』を新聞「日本」に連載(12月31日まで掲載、1899年1月刊)
10月27日孫文挙兵、失敗(広州事件)
10月31日日清戦争第一回賠償金5千万両受領
10月31日帝国京都博物館完成
11月2日小村寿太郎公使、韓国王に国書捧呈
11月6日台湾平定し、征討軍に凱旋を命ず
11月8日遼東半島還付条約に調印
11月11日北白川宮能久親王の国葬
11月15日「東洋経済新報」創刊
11月16日清国より遼東半島還付償金受領
11月22日自由党、伊藤内閣との提携宣言書発表
11月30日日本郵船、欧州定期航路開設
12月3日遼東半島還付条約公布される
12月3日上海紡績会社設立
内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 

清水良雄 筆  靖国神社行幸 1895年(明治28年)12月17日

1896年(明治29年)

1月2日台湾土匪蜂起しれ乱をなす
1月6日台湾土匪征討混成第七師団出発
2月11日朝鮮で親露派クーデター(ロシア公使、朝鮮国王と世子をロシア公使館に移す)
2月23日活動写真(エジソン式)、大阪新町婦徳会場にて初めて公開
2月29日日本銀行が竣工
3月1日立憲改進党、立憲革新党などが合同し、進歩党を結成
3月15日最初の欧州直航船出帆(日本郵船会社の汽船土佐丸)
3月24日造船奨励法、航海奨励法公布
3月26日航海奨励法・造船奨励法公布
3月29日製鉄所官制公布
3月29日朝鮮政府、米人モールスと京釜鉄道敷設約定に調印、日本抗議
3月31日台湾総督府条例公布
4月1日名和昆虫研究所、岐阜に開設(現在の名和昆虫博物館)
4月2日社会政策学会創立
4月3日最初の侍従武官長に、陸軍中将・男爵岡沢精が任命される
4月6日アテネで第1回オリンピック開催
アテネ・オリンピックの会場
http://www.hfukuda.info/iwamizawa/lecture08.htm
4月11日拓務省開庁(初代拓務大臣に高島鞆之助が任命される)
4月13日越前勝山町の大火(1200戸焼失)
4月14日自由党総理板垣退助内相に就任
4月19日乃木希典第二師団長、東京に凱旋
4月20日日本勧業銀行法・農工銀行法・銀行合併法公布
4月27日エジソン発明の活動写真(ヴァイタスコープ)、ニューヨークにて初めて公開される
5月14日京城で日露協定成立(小村・ウェーバー覚書)
5月23日一高野球チーム、横浜の外人チームと試合を行い大勝する
6月2日東洋汽船株式会社設立
6月2日陸軍中将桂太郎、台湾総督に任命
6月3日ロシア、清間において対日密約が成立(李鴻章・ロバノフ密約
6月9日朝鮮問題で山県・ロバノフ協定調印日露協商条約調印)
6月15日午後8時半、三陸地方に大津波(死者2万7122人、流出・破壊1万390戸)
7月6日神戸に生糸取引所を設置
7月7日富山県下の大水害(流失3000戸)
7月16日台湾内地間電信開通(但し始めは専ら軍用、同年9月1日より一般に開業
7月16日佐渡、生野両鉱山払い下げとなる
7月21日山陽鉄道会社はじめて通学定期を発行
7月21日日清通商航海条約調印
8月4日日仏通商航海条約調印
8月5日日本郵船会社の日米間定期第一船たる「三池丸」、神戸出帆アメリカに向う
8月10日郡是製糸設立
8月26日函館の大火(約2220戸焼失)
8月28日伊藤首相、閣内不統一により辞表提出
8月30日関西各地に大暴風雨、被害甚大
8月31日東北地方大地震(死者200名)
9月1日初めて急行列車運転される
9月8日オランダと通商航海条約調印
9月16日佐渡・生野鉱山、三菱に払下げ
9月18日松方正義、首相兼蔵相に就任(第二次松方内閣成立)
9月30日露清カシニー密約
清がロシアと同盟。満州の権益を渡す
10月3日郵便会社汽船、オーストラリア航路を開く
10月14日台湾総督に陸軍中将乃木希典を任命
10月15日川崎造船所設立
10月19日第一回農商工高等会議開催
11月8日「古事類苑」刊行開始
11月9日台湾総督乃木希典、台北に到着
11月10日歌舞伎座、初興行
11月11日岩崎弥之助、第四代日銀総裁に任命
11月14日「二十六世紀」事件(雑誌「二十六世紀」土方宮内大臣の行状を攻撃して発行禁止)
11月15日豊田佐吉、自動織機を発明する
11月18日宮中に騎兵連隊軍旗授与式
11月23日天才女流作家樋口一葉、死す
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12月1日初めて映画の一般公開
12月20日大日本教育会を帝国議会と改称(会長に近衛篤麿を推す)
12月22日第十通常議会召集
12月30日フィリピン第一次革命の中でスペイン軍によりホセ・リサール銃殺
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内閣総理大臣
伊藤博文 (明治25年8月8日~明治29年8月31日) 
黒田清隆 (明治29年8月31日~明治29年9月18日) *臨時兼務
松方正義 (明治29年9月18日~明治31年1月12日)

1897年(明治30年)
1月5日新政党革新倶楽部組織
1月14日南米の高峰アコンカグヤ(標高6960m)の処女登頂に成功
1月15日俳句雑誌「ほとゝぎす」創刊
1月15日東京瀧野川に下瀬火薬製造所開庁(発明家下瀬雅允所長)
1月27日政党実業同志倶楽部の組織成る
2月4日英清ビルマ協定
2月22日ブラジルとの修好条約公布
3月3日足尾鉱山鉱毒被害地の人民、日比谷に結集
田中正造
3月22日ジャパン・タイムス創刊
3月24日内閣に足尾鉱毒事件調査委員会設置
3月29日金本位制確立(貨幣法公布)
3月31日シャム国に公使館開設(初代シャム公使に稲垣満次郎を任命する)
4月1日台湾銀行法公布
4月1日第一次大大阪市成る
4月3日「社会問題研究会」結成
4月6日高野房太郎ら労働組合結成を訴える演説会を開く
4月9日日本移民680名ハワイホノルル着(その内560名上陸を拒絶される)

ハワイの製糖工場で働く人びと(1910年頃) 日本が朝鮮を併合したころです
4月22日東京朝日新聞社にて初めて伝書鳩を用い、八王子の大火(約3100戸焼失)を報道
4月26日国会図書館開館
4月27日帝国図書館開館
5月1日東京、京都間の電話開通する
5月1日京都帝国博物館開館式挙行
5月2日台湾における地方官制実施
5月8日渋沢栄一ら、米人モールスとの間に京仁鉄道敷設権譲受契約調印
5月17日ブラジルに公使を設ける
5月28日タイに日本公使館開庁
5月29日北海道に区制・一級・二級町村制公布
6月1日福岡県八幡に製鉄所開所
6月5日東京に岩倉鉄道学校開校
6月16日アメリカ、ハワイ併合条約調印
ハワイ王国カイウラニ王女。アロハ・オエの作曲者
6月18日京都帝国大学設立
6月22日京都帝国大学の設立に伴い、既存の帝国大学を東京帝国大学と改称する
6月26日海軍、海外留学制度を再開(財部彪、村上格一、林三子雄、広瀬武夫、秋山真之ら5人を選抜)
6月28日台湾モリソン山を新高山と改称
7月4日労働組合期成会の発起人開催
7月30日石川県七尾港、竣工開港式
8月2日日本勧業銀行開業
8月10日東京両国の川開きに人出多く、両国橋の欄干崩れ、死傷者多数を出す
8月20日日本法律学校を日本大学と改称する
8月29日島崎藤村「若菜集」刊行
8月30日南米ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ市に、公使館開設
9月11日京都帝国大学開設
9月25日日本智利(チリ)通商航海条約調印
10月1日金本位制実施
10月2日御歌所の官制定められる
10月22日海軍軍医学校設置
10月 高宗が皇帝に即位し、国号が大韓帝国になる。(朝鮮)
11月14日ドイツ、膠州湾占領
12月5日ベルギーのブリュッセルに公使館開庁
12月5日「労働世界」刊
12月21日松方首相辞表を提出
12月21日第11通常議会召集
12月25日衆議院の解散を命ぜられる
12月31日伊藤博文に第三次組閣の大命下る
内閣総理大臣
松方正義 (明治29年9月18日~明治31年1月12日)
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